【幽遊白書】 終わりの日、始まりの日 | ナノ
6.瓦解した繊細世界


 夜の帳が降りてくる。
 ゆっくり、ゆっくりと。
 すべての生命を吸い取るように、漆黒に染めあげようとしている。
 直樹は鼻歌を歌いながらトラックを走らせていた。今回の食事を終えたら町を出よう。陰の気が満ちたこの町は、なかなか居心地が良かったから引っ越すのは勿体無い、とは思うが。
「仕方が無いよなぁ、下手打っちゃったんだから」
 離れた地で食事の調達をしていたというのに、ペース配分を失敗してしまった。被っていた皮のひとつが人間にマークされたのは痛くも痒くもないが、このまま目立ち続ければ霊界に目をつけられてしまう。
「あーあ、窮屈で適わないねぇ。自由だった魔界が懐かしいよ」
 かつての生活を思い出して愚痴をこぼす。直樹は魔界出身の妖怪だ。五年前、霊界のハンターに追われて逃げてきたのだが、人間界に馴染んだ今となっては、魔界に戻りたいか? と問われても、否と答える。
 なぜなら――。
 町外れの工場跡にトラックを止めた。元は開けた場所だったが、今では裏の雑木林に侵食されかけた、ひとけのない寂れた場所だ。
「さぁ。出ておいで、秀一くん」
 声を掛けると、暗い面持ちの秀一が大人しく出てきた。
「おや、君ひとりかい?」
 白々しく言ってから荷台の中を見回す。残った積荷があるばかりで、人の姿はない。荷台の隅に、破れた衣服がまとめられていた。
 漏れる笑いを抑えきれない。
「ククッ……思ったとおり、君はしたたかで強欲だ。二人を食って力の底上げを図ったようだが、その程度でオレに勝てると思ったのかい?」
 人間は、魔界の住人に比べたら質は劣るが、警戒することを知らない愚鈍な家畜同然だ。天敵を持たないからだろう。丸々と越え太り、ちょっと追い詰めただけで、ピーピーと泣き叫ぶ。
 直樹は特に、人間の子供の、苦痛に歪む顔を見るのが好きだった。
 しかも――。
「ほら、おいで。運がよければ逃げられるかもしれないよ?」
 被っていた皮を脱いで鬼の本性を見せる。秀一は少し怯んだようだが、子供らしからぬ眼光で睨みつけてくる。流石はお仲間といったところか。
「睨んでばかりいないでおいでよ。僕から行こうか?」
 素早く踏み込んで腕を振る。顔色を変えた彼が避けようとしたのは分かったが、綺麗にボディに入ってしまった。
「あ、しまった」
 軽い子供の体だ。勢い余って吹っ飛んでしまった。
「秀一くーん、おーい、生きてるかい?」
 天敵が――霊界は別として――自分よりも強い相手がいなくなった直樹にとって、人間界にいる脆弱な妖怪は、総じて格好の遊び相手だ。すぐに殺してしまったのでは面白くない。
 秀一が飛んでいった雑木林の中へと分け入った。
「ああ、良かった。二人を食わせた甲斐があったよ」
 ふらつきながらも立ち上がった秀一の視線に合わせるようにしゃがみこんだ。呆然としている子供の顔を覗き込んで、ニコリと微笑む。
「逃げられると厄介だからね」
 左膝に軽く拳を叩きつければ、骨が砕ける音がした。甲高い悲鳴が響き渡る。
「ねぇ、もう諦めちゃったのかい? これじゃちっとも面白くない。このままなら、さっさと殺しちゃうよ? 僕のコレクションを盗み出した不届き者を懲らしめに行かないといけないしね」
 少し骨のある相手をいたぶるからこそ、この遊びは面白いのだ。それなのに、彼はちっともやる気になってくれない。
「…………ずっと、考えていたんだ」
 倒れ込んだ秀一がポツリと呟いた。
「何をだい?」
「オレは、何のために生きているんだろうと」
「そりゃまた哲学的だねぇ。それで? 答えは出たのかい?」
「いや……。だが、少しくらい、罰を受けようと思ってな」
「ああ、育ててもらった親を食っちまった罰かな? そりゃ罰のひとつも受けないとねぇ。そもそも、彼女の息子を食って成り代わってたんだろ? 最低だよな、霊界の閻魔様もお怒りの所業だぜ?」
「……そうかもな」
 秀一が、フラリと立ち上がった。
「だが、欲しいと思った。だから――」
 秀一の手の中にナイフが生まれた。
 一本。
 二本。
 三本。
 連続して投げる。が、頑健な鬼の腕が全てを弾き落とした。しかし、続けざまに二本投擲した後発が、眼球に食い込んだ。間髪いれず、植物から成した剣が首を狙う。だが――。
「くっ、なんて硬度だ!」
 頑強な皮膚に阻まれ、刃が通らない。秀一はすぐさま距離を取った。
「植物使いか、やるねぇ。お陰でヤツを思い出して最悪の気分だよ! バラバラに引き裂いて食ってやるからな!」
 目を潰された直樹は激昂し、地面を揺らしながら秀一を追いかけた。
 秀一は懸命に足を動かしたが、片足を引きずっている状態だ。あっという間に距離を詰められた。
「ハハハ! このまま潰してやろうか!」
 秀一の頭を掴んで持ち上げた。
「や、やめろ……」
 子供の柔肌に長い爪が食い込んでゆく。秀一の懇願を無視した直樹は、容赦なく力を加えた。
 パアン。
 秀一の頭が弾けた。血液や脳漿、眼球が、バラバラと撒き散らされる。
「ハハハハハハ! バカが、逆らいやがったからだ!」
 夜の帳が満ちた闇の中で、鬼が高らかに嗤う。

「――何がおかしいんだ?」

 反射的に振り返った。
 そこには、傷一つ負っていない秀一がいた。
 ザァっと音を立てて闇が引いてゆく。周囲の暗闇が一転、再び、血の色で包まれた。日が沈んで間もない――大禍時だ。
 場所も、廃工場でも雑木林でもない。元いた橋の上だ。遠くから電車や車、人のざわめきが聞こえる。だが、ここの空間だけ、切り取られたかのような静寂に包まれている。少し先に、荷台の扉が開かれたトラックが転がっていた。
「どういう、ことだ?」
「お前は化かされたのさ」
 秀一の足元には闇の残滓がくすぶっていた。この町に住まう化生たちだ。彼らの本分は、人を迷わし化かすこと。彼らの最大で最高の攻撃だ。
「ホッホッホ」
 秀一の隣に、ホウコウがストンと舞い降りた。
「坊ちゃんは、この町のヌシでございますからな。個々の力は弱くとも、力を合わせればこのくらいの助太刀は朝飯前ですぞ!」
「……二人は?」
「お母様も少年も、きちんとご自宅に送り届けましたよ。えぇ、えぇ、よく眠ってらっしゃいました。今宵の出来事は夢だと思われましょう。ワタクシの見立てでは、今後、坊ちゃんがきちんとお力を制御されましたらば、余程でない限り、人への影響もなくなるかと」
「……そうか」
 ひとつ、気づいたことがある。いや、改めて確信したことだ。
 秀一は鬼に向き直った。
 相手は、自分の領域を荒らし、奪っていこうとする略奪者だ。かつてのような、鋭く、冷たい目を向ける。
「姿が変わろうとも、オレは強欲な盗賊だ。身に染みて理解したよ。だから――」
 お前は、邪魔だ。
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