【幽遊白書】 終わりの日、始まりの日 | ナノ
1.在りとして巡る


 ぶあつく垂れこめた曇天のもと。
 まどろみながら天の嘆きを聞いていた。
 ばぁん。
 張り裂けんばかりの大音量が大気を震わせる。
 カラダを巡る紫電の残滓。
 高く高く手を伸ばした。
 天を掴もうとしたのではない。
 焦がれた面影に手を伸ばしたのだ。
 しかし、求める姿はない。
 胸中に渦巻く様々な感情。
 愛情。憎悪。羨望。嫉妬。恋情。殺意。寂寥。
 むなしく空を切った手を握り締めた。
 刷り込まれた唯一の存在を思い描く。
 ばぁん。
 大地を揺るがす轟音。
 ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「ク……ラ、マ」
 ああ――生きてゐる。

  ◆◇◆

「……ッ、ハァ、ハァ!」
 新月の夜の闇の中、ひとりの少年が転がるように夜道を走っていた。
「ア、ハ、ハハハ! 待て、マテ、アハハハハハ!」
 少年を追いかける男の目は虚ろで、口はだらしなく開いている。
 誰か、誰かいないのか。少年は助けを求めて辺りを見回した。塾の帰り道に選択したショートカットコースは、時間の短縮にはなるが、明かりが少ない上に店も何もない。塾の講師が使用するな、と釘を刺していたのを思い出したが、今更だ。
 なぜこんなことになってしまったのか。考えてみても分からない。
 唐突だった。夜道に現れた奇妙な男。嫌な予感を感じて距離を取ったが、追いかけられるハメになり、結果、真夜中の鬼ごっこを演じている。
 相手は控えめに見積もっても変態だ。捕まってしまえばトラウマを植え付けられてしまう――とばかりに、少年は必死に走っていた。
「ウマソウ、人間のコドモ、食わせろォォぉォ!」
 奇異な発言に振り返ってみれば、男はバケモノに――血管が浮き出たぶよぶよとした肉塊に変わっていた。トロそうな外見とは裏腹に、移動速度はすこぶる早い。短く生えた四肢が、信じられない速度でシャカシャカと動いている。死ぬ気で走る速度を上げた。

 走るうちに学校まで戻ってきた。左手に通い慣れた校舎が見える。しかし、校内に明かりはなく、誰もいないことを伺わせた。正門前のT字路が迫る。このまま直進すれば人気の少ない裏山で、右に曲がれば駅前の繁華町だ。助けを呼べる人がいる。
 少年は今一度、確認するように校舎に目をやった。その時、
「うわっ!」
 突然現れた影とぶつかった。よろめきながらも耐えた少年が顔を上げると、尻餅をついた女の子が居た。同じ年頃だろうか。
 少女が顔を上げた。
(え……?)
 目が、ない。眼球があるべき場所が空洞だ。ぽっかりと空いた穴から垣間見える仄昏い闇に、少年は肌を粟立たせた。が、瞬きをすると、闇ではなく、長い睫毛に縁どられた大きな黒目があった。ぼんやりとこちらを見ている。
「え……と、君、大丈夫?」
 駆け寄ろうとして、はたと気づく。バケモノはもう、間近に迫ってきていた。
「ハハハ、ハ? あ、エ?」
 そうこうしている内に追いつかれた。足を止めたバケモノは少女に気づいたようだ。
「バカ、こっちだ!」
 足元に転がる石を投げつける。少年の存在を思い出したバケモノは、嬉しそうにニチャリと笑った。ヨダレが流れ落ちる。
 尻餅をついた少女は、繁華町へと通じる道を塞いでいた。
 なぜこんなことになったのか。内心で頭を抱えながら、少年はバケモノを誘導するように裏山へ向かって疾走した。

「ハァ……ハッ、ハァ」
 どれだけ走っただろうか。濃厚な山の闇が少年の肌を撫でる。
 ズシャ。
 少年が転んだ。人の手がほとんど加わっていない獣道の、木の根を覆う苔に足を滑らせたのだ。
「アハハ、アハ、やった、ヤッタ、捕まえたぁ。うまそう、ウマソウ。アハハ、ハハハ!」
 バケモノが少年を持ち上げた。少年はバタバタと手足をばたつかせて抵抗したが、体格に差がありすぎた。
「人間のコドモ、美味い。その顔も、いいなぁ」
 ああん、と口を開ける。長い舌が瑞々しい頬を這う――刹那。
 少年の瞳が金色に煌めいた。
「あ……レぇ……?」
 肉塊にめり込むように生えていた頭が、ズレた。
 重量のある落下音に続いて、頭を失った身体が大きな音を立てて崩れ落ちた。パッと散った血飛沫が、この山一番の楠を紅く染める。
 立ち上がった少年は、服に付いた汚れを払った。ひどく冷たい目で事切れた肉塊を見下ろす。昏い闇の中にも係わらず、彼の目には撒き散らされた紅がハッキリと見えていた。
「……どちらが誘いこまれたのか最期まで分からなかったようだな。食欲ばかりの低俗な妖怪だから仕方が無かったんだろうが」
 吐き捨てるように言った彼の手には、刀のようなモノが握られている。先端から、つ、と血が滴り落ちた。
 視線に気づいて、パッと右を向いた。遠巻きに覗いていた影が慌てて姿を引っ込める。山に住む化生たちだ。人を驚かせる程度の力量しかないのだが、野次馬根性が強く、いつも高みの見物を決め込んでいる。
 当面の危機は去った。腕を振ると、瞬く間に刀が消え失せた。
 頬にヌメリを感じて手で拭う。手の甲に移った黒に、忌々しいとばかりに舌を打った。美しいと形容できるほどの鮮やかな紅であったソレは、あっと言う間に醜悪なモノになり果てていた。
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