天邪鬼【鬼灯の冷徹・鬼灯】
今日も彼の視線が突き刺さる。私はそれに気づかないフリをして己の仕事に勤しんだ。
終えた仕事の報告に上司の元へ行くも、統括者の元へ行けと言われた。つまり獄卒の取締役たる鬼灯様の元へ、だ。
彼の執務室へ向かう途中の長い廊下で、人知れず溜息を吐く。
恐らく、いや絶対に鬼灯様が上司に圧力を掛けたのだろう。最近の彼は随分あからさまな方法を採るようになってきた。
だから、これも取り立てて驚くことでは無い。
「昨日は何処に居ました?」
彼が私の両手を壁に縫い付けて問いかけてくる。背の高い彼に体を持ち上げられているので、私の足は宙ぶらりんの状態だ。お蔭で草履が片方脱げてしまった。
「……内緒です」
「そうですか、ではコレは?」
鬼灯様は私の髪を避けて、首元を露わにした。そこにあったのは、小さな赤い点だ。
「虫刺されですよ」
こんな状態だと言うのに、私は穏やかに笑って見せた。彼も口を割らないと諦めたのか私の手を放した。
大した距離では無かったものの、突然手を離されて尻餅を付く羽目になってしまった。お尻を摩りながら痛いと零す私を、鬼灯様は色のない瞳で見下ろす。
「一部で噂になってますよ。貴女が白澤の新しい恋人になった、と」
「そうなんですか? 知りませんでした」
平然と言い切った私は、見下ろしてくる彼の瞳を真っ直ぐに見た。
「でも、鬼灯様には関係ないでしょう?」
グッと言葉に詰まった彼だけど、直ぐに眦を釣り上げた。
「私が貴女を獄卒に勧誘したのは」
「ええ、感謝しております。私をあの地獄から救って下さって」
彼が全てを言い終わらない内に言葉尻を掴んだ。ここは地獄に落ちた人間を鬼が呵責する場だ。人間にとっては苦痛でしかない、文字通りの地獄が待ち受けている。
しかし、鬼にも地獄がある。
私は元は人間だった。強い恨みを持って鬼に生まれ変わったが、連れてこられた地獄の場でも、人間の時となんら変わりない暮らしを永遠と続けなければならなかった。
それを救ってくれたのが鬼灯様だ。
「感謝しておりますよ」
私はもう一度繰り返した。私を地獄から救ってくれて。そして、同じような境遇でありながら、とても綺麗な貴方という存在を突き付けられて。
彼は私を救ったと同時に、更なる地獄に突き落としたのだ。背筋を伸ばして前を向く貴方に、いかに自分が情けなく、矮小で、惨めだと苦しんだ事か。
あまつさえ――。
「だから、これからもよろしくお願いします。では、書類はここに置いておきますので、お目を通して下さいね」
早口で捲し立てて早々と立ち去った。彼の怒気が背中越しにも伝わってきたけれども、彼の痛いほどの視線が心地よかった。
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「白澤さん、こんにちは」
「やぁ、いらっしゃい。今日たまたまあいつに会って、一も二も無くぶっ飛ばされたんだけど、何か言ったの?」
それで白澤さんの顔の半分が原型を留めないくらいに膨らんでいるのか。少し申し訳ない気もしたけど、首元の赤を見せると彼は顔を青く染めた。
「虫刺されと言っただけですよ」
「そう……君って案外、根に持つタイプだったんだね。それは兎も角、僕としては可愛い女の子が遊びに来てくれるのは嬉しいんだけどね。いつまで続けるつもり?」
腫れた頬に氷を当てながら聞いてくる彼に、まだ当分はと答えた。
「私があの方を見ていた長い長い時間のほんの僅かくらい、私を見て貰いたいんです」
まるで乙女の秘め事だと言わんばかりに、唇に人差し指を当てた。そんな私を見て、白澤さんは苦笑した。
「怖い子だ」