この熱を冷まして【刀剣乱舞・小狐丸】
今日も、お天道様のご機嫌は今ひとつのようだ。どんよりと曇った雨空が、静かに雨を降らせている。
わたしは縁側に座りこみ、ぼんやりと雨を眺めていた。雨の日特有の気怠さに身を任せて、しとしとと降り続く雨の音を聞きながら、人の世に思いを馳せていた。わたしの生まれた世界のことを。
ここ本丸は、人の世とは隔離された場所にある。しかし、あちらの世界も今は梅雨だ。わたしが眺める景色と同じ景色が広がっているのだろうか。
湿った風が通り抜けていった。いびつな顔のテルテル坊主がくるくると回る。ひんやりとした空気が火照った肌に心地いい。
「ぬし様」
いつの間にか、すぐそばに小狐丸が立っていた。
「いつものことだけど、小狐丸は気配がないよね」
「刀でございますからな。それより、お体が冷えてしまいますよ」
有無を言わさず、羽織を掛けられた。
「暑いから部屋に置いてきたのに」
文句を口にしながら腕を通す。彼が触れていた部分がほんのりと温かい。
「ぬし様、そのまま」
ここで逃げても、強制送還を遅らせられるのは、ほんの数分だけだと知っていたので大人しく受け入れた。
額に感じる、冷たくて、大きな手。
気持ちがよくて目を閉じた。
「やはり。お熱が下がりきっておりません。部屋に戻りましょう」
「寝てるの飽きたよ」
「そう仰らずに。みなも心配しております」
「小狐丸も?」
「ええ、私もです」
「分かった、戻る」
ん、と両手を伸ばすと、易々と抱き上げられた。
「ほんにぬしさまはお姫様だっこがお好きですな」
「うん、すき」
とはいえ、こうやって抱っこして貰うのは久しぶりだ。くすぐったい気持ちで彼の胸に顔をすり寄せた。
「今日のぬし様は甘えたですな」
「いいでしょう?」
「ええ、構いませんよ」
部屋へ戻されたわたしは、そっと布団の上へ下ろされた。眠る気にはなれないので腰を下ろしただけだ。
「障子は締めないで。外が見たいから」
「分かりました。ですがお身体に障りますので、今しばらくでございますよ。さて、甘えたなぬし様には、寝物語でもいたしましょうか」
「そこまで子供じゃないよ」
そっぽを向いて寝てしまおうと思ったが、それだと彼が部屋を出て行ってしまうように思えて我慢した。山吹色の袖を強く引っ張る。
「でもね……熱が下がって、雨が上がったら。お山に連れて行って欲しいな」
裏山は、幼い頃によく連れて行って貰った遊び場だ。
「十六にもなられたというのに、六つの頃と変わりませんね」
「十六になっても、わたしは変わらないよ。審神者やってる年数が増えただけで、何も変わらないの」
わたしは六つの歳にここへ来た。審神者としての才能を買われたからであるが、如何せん身体が弱く、よく体調を崩していた。お仕事が滞ることもしばしばであったというのに、優しい神様たちは、わたしを見捨てるどころか大事に大事に育ててくれた。
「ずっとこのまま、みんなと一緒にいたいな。ねぇ小狐丸、これからも変わらずそばにいてね」
ええ、もちろん。そう言ってくれるに違いないと、期待の中に交じる不安を押し殺して笑いかけた。しかし、
「残念ながら、この世に変わらないものなどないのですよ」
彼の口から出たのはわたしの願いを否定する言葉。否応なしに家から送られてきた手紙を思い出して奥歯を噛み締めた。
「そう、小狐丸までわたしの気持ちなんてどうでもいいって言うのね。会ったこともない人のところへ嫁に行けというお父様みたいに、わたしの気持ちなんてどうでもいいんだわ」
なんの温かみもない、印刷された字で綴られた、帰宅を促す短い手紙。思い出すだけで涙がこぼれそうになる。人の世を離れて十年の間に、家も世界も様変わりしたという。大勢いた兄弟は、戦と病でほとんどが死に絶えたとあった。きっとまた、ここへ送られた時のように、家を守るための道具にされるのだろう。
「……今の話、誠でございますか?」
悲しくて、悲しくて。小狐丸が何度も問いかけを投げていたことに気づかないほど、堰を切ったように泣き出してしまった。
「ああ、そんなに興奮なさっては益々熱が上がってしまいます。幼き頃よりは丈夫になられたとはいえ、我らほど頑強にできてはいないのですよ」
小狐丸はわたしを膝の上に抱きかかえて、よしよしと背中を摩った。
「ぬし様は変わられましたが、泣き虫は変わりませんね」
顔を撫でる生暖かい感触に気づいて目を見張った。
「おや、もう泣かれないのですか?」
「……いま、何してたの?」
気のせいでなければ、彼はわたしの顔を――涙を舐めていたように思う。まるで犬や猫のような慰め方だ。
「申し訳ありません、つい野生のサガが出てしまいました」
「さっきは自分のことを刀だって言ったのに」
何かにつけて自分を狐だと称する彼が可笑しくてクスリと笑う。
「やはりぬし様は変わられましたよ」
「……そんなことない」
「いえ、変わられました。こんなにも美しく成長なさいました。劣情を抑えるのが困難なほどに」
突然、くるりと視界が回ったかと思うと、仰向けに寝転ぶ体勢になっていた。口元を釣り上げた小狐丸がわたしを見下ろしている。視界の端に、未だ泣き続ける雨空が見えた。
小狐丸がわたしの首元に顔を埋めた。
「痛っ!」
噛まれた。どうしてこんな意地悪をするのか。引っ込んだ涙がまた溢れそうになる。
「小狐丸はわたしが嫌いになったの?」
あんなに優しかったのに。
「いいえ、好きですよ。好き過ぎて、困ってしまいます」
「どうして困るの?」
「……ふふふ、人のあなたが私に訊ねられますか。心はいまだ幼いようだ。ご心配なく、ゆっくりお教えして……ああ、お父上からご縁談話が持ちかけられておりましたな。早急にお教えする必要があるようだ」
いつの間にか、雨雲の切れ目から陽光が刺していた。天気雨だ。
「身の内に宿ったこの熱を冷ますのは、もう諦めました。責任を取って頂きましょう」
小狐丸が目を細めた。猛々しい炎のような紅い瞳がわたしを射抜く。ゾクゾクと背筋を這い上がってくる感覚は、熱によるものだけではないのかもしれない。