◎ 愛する君に
ぽつり、ぽつり。
雨が降り始めた。空を見れば先ほどまで晴れ渡っていたそれは、灰色の雲に覆われている。
「うわ、やば。」
ありすは出そうとしていた洗濯物を慌てて取り入れた。テレビをつければ、急な雷雨にご注意くださいとのこと。一時的な雨ではあるらしいけれど、恐らく一時間ほどは続くであろうとお天気お姉さんがにこやかに伝えていた。先ほどバイブのあった携帯を見ると、同棲している彼からのメール。その内容にあっ、と声を漏らした。
「うそ、確かトシさん傘持ってなかったよね」
パタパタとスリッパの音をたてながら玄関を確認する。
「車で行ってるわけない、もんなあ」
先輩について出張に行って、今日の朝帰ることは聞いていた。二泊三日で出張に行くのだから車で行っているわけではない。
「駅まで、持ってかなきゃ」
先ほどまでぽつりぽつりであった雨脚はもはやざあざあに変わっている。電車到着まであと、30分。彼の紫色の傘と自分の桃色の傘を持ってありすは家を出た。あまり役に立たないであろう、レインブーツを履いて…
「うっわー、びしゃびしゃだあ」
レインブーツを履いていたにもかかわらず靴の中には雨粒が侵入していた。彼の電車が到着するまであと10分。改札で待っていると、くしゅっ、と一つくしゃみがこぼれた。夏だけれど雨が降って気温が下がっている。
「誕生日なのに、雨かあ」
昔みたいに誕生日に執着はしていない。子供の頃は年に一回、好きなものを買ってもらえるから、中学生になってからはお小遣いをもらえるから楽しみだった誕生日だが、元来面倒くさがりな性分であるため自分の誕生日も人の誕生日もあまり気にしない。一方彼氏である二つ年上の土方も多忙な人間である。大企業に就職して三年。若手でも有望な彼は毎日大忙しだ。だから彼が就職した時に約束をした。
誕生日とお正月以外の祝い事は一切なし、と。
女の子であれば誰もが失望するような約束をしていたが、むしろありすも助かっていた。今年で院生一年目。論文と就職活動と戦う毎日だ。理系の彼女は大学生の頃から忙しかったのだ。だがクリスマスにべろんべろんに酔っ払って女物の香水の匂いをぷんぷんさせてきた時はさすがにキレた。仕返しに次の日誘われていた合コンに行って喧嘩になったけれど…
少し寂しい気もするが、なかなかに楽だし、祝い事がなくてもマンネリ化はない。
けれど年にたった3回しかない祝い事だ。できれば豪勢にしてあげたいし、少し奮発してほしいとも思う。けれど彼は忙しいこともよくわかっていた。昨年の誕生日も少し豪華なレストランでディナーをしただけにとどまっている。そこのカクテルは最高に美味しかったけれど…
「今年はお家でご飯かな。プレゼントも用意する時間なんてなかっただろうしなあ。きっと忘れてそうだな。」
携帯を見ながら呟く。
くしゅっと再びくしゃみを一つ。
やはり寒い。
嫌がらせと自分で自分を祝うために帰り道にケーキを買って帰ろうか、なんて思っていたらゾロゾロと人が出てき始めた。おそらく、彼が乗っているはずの電車が到着したのだ。
「あっ」
キャリーバックを引く見慣れた姿。
クールビズのスーツ姿がカッコいい。
「トシさんっ!!」
傘を持って人混みを縫うようにして彼の元へ行けば、彼は紫紺の瞳を大きく見開いた。
「おまえ、わざわざ迎えに来たのか?」
「うん。雨、降ってて、あんまり止みそうにないっていうから傘持って来なきゃと思って」
そう言うと馬鹿と罵られた。
でも知ってる。それは彼なりに私の体を心配してくれているから出る言葉なのだと。
その証拠におかえり、と言って傘を渡すと優しく微笑んでただいま、と返してくれた。先ほどまで誕生日のことを覚えているかともやもやしていたが、この笑顔を見てしまうとどうでもいいと思えてしまう。惚れたほうが負けだ、というのは案外本当のようだ。
「それよりお前、今日と明日は何もねえって言ってたよな?」
「うん。インターンも来週だし。研究室には25日から行けば大丈夫だよ。バイトもないし。」
二人で雨の中を歩く。ありすが傘を持って来た時よりは幾分か雨脚が弱まっていた。
「そうか。じゃあ、今日はドライブもかねて近場の温泉にでも行くか。」
「本当っ!?わーい!!」
そう言うと土方が優しく目を細めた。
「帰ったら準備しろよ。」
「車?でもトシさん疲れてるでしょ?」
「どってこたあねえよ。出張の方が案外楽だ。」
移動時間は寝れるし、会社の金でいいホテルに泊まれるしな、と言うからおかしくて彼女はくすくすと笑った。それと同時に、くしゃみを一つ。
「たくっ、お前ずぶ濡れじゃねえか。」
「しょうがないじゃない。結構降ってたのよ、さっきまで。」
「ったく、しょうがないやつだな」
そう笑って彼は手に引っ掛けていたスーツのジャケットを彼女に手渡す。
「羽織っとけ」
「でも汚れちゃうよ?」
「どうせクリーニング出さなきゃならねえんだよ。」
「ありがと」
ジャケットを羽織るとほのかに彼の吸うタバコの香りがした。
「帰ったら、とりあえず着替えとけ。」
「うん、そうする」
「ああ、どうせ着るならあのワンピースだな。この前お前が買ってきた…」
「薄紫のワンピース?」
「ああ。脱がせやすくていい。」
「はっ?!もう!!トシさんのスケベっ!!」
顔を真っ赤にして彼の腕を叩くと、彼は口の端を釣り上げて笑った。意地悪な顔…。さっきまでとのこのギャップは一体なんなのだろう。心臓の音がうるさい。
「私、トシさんとならずっと恋してられそう。」
そう彼女がつぶやくと、
「今すぐ抱かれたいのか、お前」
と彼が珍しく顔を赤くして言うから少し勝った気分になった。
愛する君に
相変わらずかっこよすぎてやになっちゃう。
「お待たせ、行こう!!」
「ああ。」
キーを指で弄ぶ姿さえ様になってしまうのだから、本当に狡いと思う。
二人でマンションを出て、彼の車に乗り込む。タバコを吸いながら運転する彼がまたかっこ良くて見惚れてしまったのは私だけの秘密。
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