◎ Sweet Valentine wthiT.Hizikata
今年のバレンタインデーは土曜日。
トシの都合を訊いたら、土日キッチリ休めるって。
「泊れんだろ?」
スマホから耳に流れてくる、低くて優しくて少し照れた声にドキドキした。
忙しくてなかなか会えない私たち。
恋人になってから初めてのバレンタインが休日に当たったんだもの。
気合いが入るに決まってる。
「なぁ、ホワイトデーにはお前のリクエストを全部のむからよ。今回は俺んちでお前のメシ食ってのんびりさせてくんねぇか?」
もちろんよ、トシもそう思ってくれてたのね?
トシの好きな和食を作って、美味しいお酒をほんのちょっとだけ飲んで。
食後にはトシの好きな深煎りのモカにジャン=ポール・エヴァンの定番チョコレート。
そんなバレンタインを想像しながら、トシの申し出を快諾した。
お料理のメニューをいろいろ考えて、トシの照れてる顔を思い浮かべたり。
着ていくお洋服を決めたり、トシの好きそうなネイルに変えたり。
すごく楽しみ!
トシも楽しみにしてくれてる?
バレンタイン当日。
お昼過ぎに、ちょっと敷居の高いスーパーで今夜の夕食の材料を買って、トシの部屋へと向かえば。
出迎えてくれたのは、ビジネススーツをキッチリ着込んでコートと鞄を手にしたトシ。
バツの悪そうな顔……眉がハの字になってる。
ウソでしょ………?
思わずジッと見てしまう。
「ありす……すまねぇ……」
ここで拗ねるほど、子供じゃないのよね。
『くすくす。叱られた子供みたいな顔よ?近藤社長から電話があったの?』
「ああ。せっかく来てくれたのによ……悪りぃ……」
申し訳なく思ってくれてるなら、それでいいの。
『どうしても行かなくちゃいけないんでしょ?夕食支度しながら待っててもいい?』
「………いいのか?」
『くすくす。そんな自信無さげなトシの顔、なかなか見られないわよね?』
残念だし納得いかないけど……そんな顔されたら何にも言えなくなっちゃうわよ。
「お前にゃ敵わねぇな……なるべく早く戻る」
『帰れるようになったら、電話貰える?お料理を仕上げるタイミングをはかりたいから』
笑顔でそう伝えると、トシは私の目を見つめて大きなため息をつく。
「ありす………ありがとう…な」
ぎゅっと抱き締められて、トシの鼻の頭が首筋を行ったり来たりしてる。
『トシったら……もう……くすぐったいわ……』
「行ってくる。帰ったら可愛いがってやるからいい子で待ってろよ」
もう……反則だから!それ!
その声とその顔、凶器だから!
『もう……そんなこと……』
「行きたくねぇけど行かなきゃな……」
『お仕事大変だと思うけど、がんばってね』
そう言って微笑む私の顔を、トシも優しい瞳で見てくれる。
私の頬にそっと触れて、顎を持ち上げてキスしてくれる。
「キリがねぇからこれで終いだ。行ってくる」
ビジネスマンの顔になって玄関のドアを開けるトシの背中が頼もしく見える。
『行ってらっしゃい。気をつけてね』
振り返ったトシは軽く手を上げて応えてくれた。
閉められたドアと遠ざかっていく靴音。
そして……私の顔から笑顔が消える。
思わずため息と涙が溢れそうになる。
いけない。
商社に勤めるトシにはこんなこと日常茶飯事なんだから。
泣いちゃだめ。
夜までには充分時間がある。
買ってきた食材を冷蔵庫に入れて、お掃除を始めた。
この選択は間違ってなかった。
夢中で拭いたり擦ったりして汚れを落としていれば、気持ちも明るくなってくる。
プライバシーを侵さないように気をつけてお掃除をする。
普段からキチンと片付いているお部屋だけど、時間と手間をかけたからとても綺麗になって嬉しい。
夕方からは夕食の下ごしらえにかかる。
時間はたっぷりあるから丁寧に、トシのために心を込めて準備する。
でも……9時をすぎてもトシが帰って来ない。
私からは連絡できないし……
何かあったのかな……?
食事済ませてくるのかな?
キッチンに並んでいる仕上げを待つばかりのお料理たち。
どれもトシが好きなものだから、喜んでくれると思う。
美味しそうに食べてくれる顔が目に浮かぶ。
自惚れなんかじゃなく、トシに愛されてると思う。
ビジネスマンが一歩外に出たら、どんな試練が待ち受けていても不思議じゃない。
多分、今も私のことなんか忘れてお仕事をしてるはず。
私だって、ホワイトデーに急な案件が入るかもしれないし……お仕事をしていればこういうことは当たり前だから。
トシと私の気持ちさえしっかりしてれば、それでいいんだから。
そんなふうに自分を励ましながらトシを待っていたけれど……
もうすぐ日付けが変わっちゃう。
………はあ。
ねぇトシ。
お仕事なんだから仕方ないよ。
そんなの私が一番良くわかってる。
お料理だって、明日食べればいいんだし。
でもね。
電話……ううん。
LINEで様子くらい教えてくれてもいいんじゃない?
たったひとことでいいの。
入力して送信する時間もないの?
待たせてること……
気にならないのかな……
あーあ………
バレンタインデーが終わっちゃった。
さすがに……これは……
ちょっと……ね。
私なら電話する。
わかる範囲での予定を伝えて、ちゃんと謝る。
どんなに忙しくても。
トイレにスマホを持ち込んでメッセージだけでも送る。
どうしてトシは……連絡してくれないの?
確かに……私『待ってていい?』って言ったよ。
だから……勝手に待たせておけばいいって思ってるの?
こういうこと平気で出来るひとだったんだ……
なんか……ちょっと……ガッカリ……?
結婚して妻になった途端「釣った魚に餌は必要ねぇ!」っていう扱いを受けるかも。
男にまもってもらうだけの江戸時代の女性じゃないんだから。
私は、平成のこの荒波を自ら乗り越えて生きてる女なんだから。
「黙って後からついてこい」なんて言われても嬉しくないの。
お互いを尊重しあって、同じ目線でものを見て、いたわり合えなくちゃ死ぬまで一緒にいるなんて絶対ムリ!
トシがお仕事リタイアするまで何十年もコレの繰り返し?
なんだか……テンション急降下。
『もう……帰ろう』
コートを着て荷物を持つ。
お料理はそのままにして、チョコレートは持ち帰ることにする。
リビングの電気を消して玄関に向かう。
ブーツに足を入れようとした瞬間、チャイムが鳴る。
ドアの外にトシがいる……そう思ったとき咄嗟にブーツを持って隠れることを思いつく。
どうしよう……どこに?
目に入ったのは、リビングのソファの裏のカーテンの陰。
身体を滑り込ませて息を殺す。
パッと明るくなるリビング。
「ありすっ!ありす………」
走って来たのか、リビングに入って来たトシの息が上がっている。
「帰っちまったのかよ………」
すごくガッカリした声はまるで少年みたいに聞こえる。
「待ってるって……言ったじゃねぇかよ……」
泣き出すんじゃないかと思うくらい弱い声に、胸が締め付けられる。
「畜生……」
表情は見えないけど、トシの困ってる顔が想像つく。
かわいそうなことしちゃったかも……そう思ったとき。
ピリリリリリ………
うわ!
サイレントにしとけば良かった!
トシが駆け寄って来る。
カーテンを開けて慌てる私を見つけたトシの顔は泣き出しそうだった。
「遅くなっちまったな……連絡しねぇですまなかった」
『もう……いいよ。隠れたりしてごめんなさい。私、帰るね』
無事に帰って来てくれて嬉しいのと、子供みたいな真似をしたのが見つかって恥ずかしいのと、なんだかいろんな感情が入り乱れて素直になれない。
「おい!」
玄関に向かう私のあとを追ってくるトシを無視して歩く。
「おい……待てよ」
『私の名前は「おい」じゃありません』
「チッ……ありす……そんなに怒んなよ……」
『怒ってません。あきれてるだけです。でももう謝らなくていいです。さようなら!』
「おい……ありすっ!」
背中から抱きしめられて立ち止まれば、トシは私の肩に額をのせている。
「頼む……ありす……行くんじゃねぇ……明日も出てくれって言われてよ。冗談じゃねぇから全部片付けてきた」
『…………………』
「連絡ひとつしねぇで放っておいたのは俺だからな……その……なんだ……本当にあきれちまったのか?嫌いに……なっちまったか?」
『…………………』
「なぁ……ありす……答えろよ。頼む……帰るなよ……」
トシの腕の中で身体の向きを変えて、綺麗な瞳を睨みつける。
『たとえお仕事が理由でも、反省してる?』
「ああ」
『待たせて悪かったって思ってる?』
「ああ」
『次はちゃんと連絡してくれる?』
「ああ」
『帰って欲しくない?』
「ああ」
『私のこと……すき?』
「ああ」
『チョコレート……欲しい?』
「ああ」
『さっきから「ああ」しか言わな……』
「もう黙ってろ……」
昼間の続きを強引に始めるトシ。
私の名前を繰り返し呼んでくれる。
【愛してる】と【離れるな】を何度もなんども耳元で甘く囁いてくれる。
んもう………
しょうがないんだから………
許してあげる。
fin.
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