PKMN | ナノ

Love dies only when growth stops.




「守ってあげてね」

そう言って、頬を撫でる母の手が落ちる。母の肉が焼ける匂いがした、真っ赤な舌が森を舐めとり、俺たちの先祖が築いた歴史を、守って来た命を、何もかもを奪っていく。

(____どうして、)

弱きものは排他される、今思えばそれが父母どちらの教えだったのかは覚えていない。幼き俺にそういって生き方を解いた人たちは、だからこそ強きものには守る義務があると笑った。フスベの里でも屈指のドラゴン使いと呼ばれた2人は、確かに“強きもの”であったはずなのに。

それが故に、死んだ。
弱きを守るために、その生きてきた尊厳ごと悪しきものに踏み躙られたのだ。






「地獄に落ちろ」

警察に取り押さえられた男が、そんな恨み言を吐いて俺を睨みつけている。人生の全てをかけた研究を台無しにされたことを恨んでいるのだろう、自らの怨敵の姿を脳裏に刻み付けようする顔に今更何の情も湧きやしない。憎しみと怒りで満ちた瞳には、その証拠であるように無感情の俺の顔が映っていた。

(___いまさらなにを)
そんな二束三文の恨み言は、聞き飽きている。



「死ね」「お前さえいなければ」「どうして俺たちが」「家族はなにもしらない」「もうすこしで」「どうか見逃して」「ごめんなさいごめんなさい」「そんなつもりは」「どうして!」「死ね」「殺してやる」「どうしてお前なんかが」



___「お前は、不幸な子どもだ」

今際の折に、そんなことを俺に囁いたのは誰だったか。研究成果の全て破壊した俺に、泣き叫ぶでもなく恨みつらみをぶつけるでもなく。ただただ憐れな生き物を見るような目で、男は俺にそう言った。

あの時俺は、なんと返したのか___ああ、これは無意味な反芻だ。
なぜなら俺が不幸になることなどありえない。

(……も知らないのに、不幸になどなるはずもない)

恨み言を吐き散らしながら男が護送車に詰め込まれる。それを聞いていたカイリューが威嚇の声を上げて、土に尾を叩きつけた。喉元を撫でて落ち着かせれば、まるで寄り添うように山吹色の鱗に覆われた頬を寄せてくる。

「大丈夫だ」

それは誰にかけた言葉だったのか。
赤い光が明滅する向こうから救命医が駆け寄ってくる、そういえばと腹の辺りを抑えていた腕を緩める。忘れていた痛みが蘇ってきて、ずきりずきりと耳元で音がした。

「ワタル様、どうかご無理をなさらないでください!すぐに治療します」
「俺より他の負傷者を先に診てやってくれ」
「他に負傷者はいません、あなたが守ってくれたおかげです」

ならばと、素直に傷を診せれば、パートナーのラッキーたちも駆け寄ってきた。彼らはとても優秀で、ポケモンの傷と同じように人間の傷も瞬く間に癒してくれる。

「あなたはご自分の身を蔑ろにしすぎている」
「そうだろうか」
「そうです! どうかご自分のことも大事にしてください、皆が生きていてもあなたが死んでしまった意味がない」

言葉は耳に入って脳に届く、理解はできた。だが共感はできなかった。
そう言えば彼の気を損ねるだろうから、俺は物分かりの良いふりをして「善処する」とだけ答える。感情が伴っていないことが解ったのか、ラッキーが怒ったように頬を膨らませた。

ポケモンたちは何時でも鋭敏に人間の心理を読み取ってくれる、それに助けられていることの方が多いが。こういう場面では知らないふりをしてくれと思う。

弱きを守るのは、強きものの義務であり。存在理由そのもの。
___例えば、父母がフスベの森を守ろうとして焼かれたように。違法組織というものは後を絶たない、まるで底なしの沼から這い上がってくる悪鬼が如く、この美しい世界に蔓延っている。

彼らは決まって弱きものを獲物にして私腹を肥やした。最初に犠牲となるのはポケモンだ、四肢を裂かれ薬物漬けにされ、そうして自由も尊厳も奪われた成れの果てをいくつも目にしてきた。そうしてポケモンでは足りなくなったとき、彼らは同族にも悪意の手を伸ばし始める。

それを摘むのが、俺の役目。チャンピオンの肩書も、その役目に最適だったから手に入れた。昇りつめることは容易ではなかったけれど、やり甲斐はあった。

画して、俺はセキエイの象徴となり、在るべくをして“強きもの”の最足るとなった。
…だがこの手は、いまだすべてを抱えるには足らず。

狩り尽くしても足りない、悪の芽は。俺の目が届かないところで根を生やし、雑草のようにこの地に蔓延り続けている。それを暴くことを苦に思ったことはない、だが終わりのない繰り返しに時折酷い虚しさを感じた。

____いつまで、
こんなことを続けるつもりだ。

歳を追うごとに、ひとつまたひとつと悪を摘むたびに見えてくるものがある。それは俺の頭上に天井にように張り巡らされていて、上へと上へと歩き続ける俺を阻む。

「そんなこと理由にならない、歩き続けろ」

赤い髪の少年が言う。それは母の血か父の慟哭か、俺が歩みを止める度に後ろから囁いて早く行けと叫ぶ。まるで泣叫ぶように、脳裏に響く声が止まない。



「ワタルさんよ、三年前の事件を覚えているかい」

警視庁を訪ねた日、顔見知りの刑事からそんなことを言われた。どれのことかと摘発した事件を上げれば、呆れ顔でバインダーを手渡される。開いて見れば、ああこの事件のことかと思い至った。

「ポケモンを利用した違法薬物の実験と、保護地区の違法伐採ですね」
「ああ、その時しょっ引いた研究者の一人がな、事件への関連性が低いとして一年で釈放されている」
「…覚えています、連行する時も脅されたと主張していた男がいました。彼が何か」

「いま結婚して、子どもがいるんだと」

その言葉は、小さなトゲのようにして俺の心臓に刺さった。








「見て、今日スクールのテストがんばったんだよ」
「本当だ、すごいな! ママ見てくれ、うちの子は天才だ」
「はいはい わかったからみんな席について、ご飯ができわよ」
「はーい!」


「_____、」

四角い窓から見える情景は、まるでテレビでも見ているような感覚で。理想的な、温かい、普通の家族がそこに在った。人もポケモンも笑顔で溢れ、そこには目に見えない多くの感情に溢れているのを感じた。

不意に、脳裏に蘇る声がある。
憐れむような瞳、すべてを破壊されてなお悠然と立ち、まるで言うことを効かない子どもに囁くような声。

___「不幸な子どもだ」

俺が不幸だというのなら、真逆の世界にいる彼は幸福だというのか。
息を忘れて、その光景に見入った。彼女たちは男が犯罪者であることを知っているのか、どういうことをしてきたのか知っているのか、知っていてあの女性は結婚したのか、子どもは親のしたことを、嗚呼。

(俺は、いつまで____)
この世に変わらないものなどない。すべてが時間の流れと共に移り行く、あの男もそうだ。それなのに俺だけが、俺ばかりが____ここから、動けないでいる。

進んでいる筈なのに、置いて行かれている。右にも左にもいけない、続いていく目の前の道に果てはなく。俺はその道を突き進むために命を燃やす、皆がそれを望んでいる。外ならぬ俺自身も、そうであることに疑念を抱いたことはない。

ただ、ただなぜか… 少しだけ、苦しい。

(息が、)  できない。





「大丈夫ですか」

それは星のように、俺の世界に落ちてきた。

顔を上げた先で、ウィンドブレーカーから覗く俺の顔が見えたのだろう。女性は少しだけ息を呑んで「チャンピオンの…」と囁いた。それが、俺と…シノノメ ミシャの出会いだった。

ミシャはトキワシティ住まいの、普通商社に勤めるごく一般的な女性だった。その日はなんとなく外に出て散歩していたのだと聞いたのは後のこと。先ほどまで蹲っていたくせに、リーグへの連絡を拒み黙ってトキワの森に向かおうとした俺は、ひどく危うい存在に見えたのだろう。黙って踵を返した俺の手を、ミシャは慌てた様子でつかみ取った。

「実はパートナーを家に置いてきぼりにしてしまって、この夜をひとりで帰るのが怖いんです。だからお家まで送って行ってくれませんか、」

お願いしますと、俺の手を掴む手は白く。俺の知らない世界の香りがした。

ずるい女だと思った、頭が空っぽそうな見た目に反して賢い女だとも。こんな夜に、いつも看板みたいに背負っている服装でもなく黙って森にいる俺は、傍から見ても怪しいだろうに。チャンピオンとしての肩書がそうさせるのか、ミシャは自分の家が知れることになるというのに警戒も疑念も抱いていない。

_____魔が、差した。
チャンピオンとしての体裁がそうさせたと言い訳をして、俺は彼女の提案を受け入れた。「わかった」と頷いた俺に、ミシャは漸く安堵したと言うように笑って見せた。

そうしてはじまったミシャとの交流は、特段珍しいものではなかったと思う。これまでの人生、異性との交流がまったくなかったわけでもない。捜査のために必要があれば、それらしく演じることもある。だがそのどれとも、ミシャといる時間は違ったように思える。

「君のとなりは息がしやすい」
「……フシギダネのお陰ですかね?」

ミシャが不思議そうに首を傾げて言えば、隣にいた彼女のパートナーが誇らしそうに胸を張った。確かにフシギダネは光合成により周囲の空気を清浄化する機能が備わっているが、そうではなくて。…訂正しようとした言葉は、なぜか彼女とフシギダネを見ていると言葉にできなかった。

無粋だろう、別に何かを伝えたかったわけでもない。何を伝えたかったのか自分自身解らなかった、____でも解ることもある。あの夜、流星のように現れた君は、当たり前のように俺の内側の深い所に落ちてきて。いつしか当たり前のように、俺の世界に在るようになったということ。

セキエイに買った広いばかりの自宅よりも、行く先々で用意される豪奢なホテルよりも。少し錆びれたマンションに住むミシャの家にいたい、狭いベッドで互いの吐息を感じる距離で眠りたい。

「おかえりなさい、ワタルさん」
「ただいま」

口慣れない言葉が、いつしか当たり前になって彼女に恋をした。
それは出会った時から定められていたように、俺にぴたりと当てはまって人生を満たしてくれた。

ミシャの手が好きだ。俺の手とは違う、柔らかくて暖かいキズひとつない手。俺が守りたかったものの象徴のように思えた、この手がありのまま俺に触れてくれることがどれほどの喜びであろうか。俺が今までしてきたことは間違いではないと、ミシャだけがそう教えてくれている。

ミシャがいてくれるから、俺は漸く十全な人間になれた。
それなのに_______、




(____どうして、)

視界を覆い尽くすほどの白、呼吸する端から喉が凍り付きそうなほどの極寒に思い出す。真っ赤な、情景。皮膚を焼く劫火の熱、内臓が悲鳴をあげるほどの命が焼ける匂い。

記憶は繰り返す、時間は過ぎゆくだけなのに、胸の内を巣食う伽藍洞は始まりの喪失と酷く似ていた。

「ワタル様、こちらの方角とのことです!」
「先行部隊が既に向かっておりますので合流を、___ワタル様?」

「…ああ、いま行く」

眺めていたポケナビを仕舞い、リーグスタッフの後に続く。目的地はもうすぐだ、この事案は自分のせいで少し遅れがでている。早く片を着けてしまった方がいいだろう。

(ここは、…息がし辛いな)
はやく凍える体を抱きしめて、俺は君の隣で眠りにつきたい







サイドテーブルに置かれたネックレスと書置きに眩暈がした。
あれからどうやって、ホテルに移動したのか覚えていない。ただホテルのベッドで、ずっと抱きしめられていたのを覚えている。まるでどこにもいかないようにと、小さな子どもがポケモンを抱きしめるように___ワタルさんはわたしを抱きしめて、死んだように眠った。

(…で、目が覚めたら。いないと)

振り回すだけ振り回して自分はいつも通り勝手にどこかに行ってしまう。何時ものワタルさんといえばそうだが、今回ばかりは呆れて言葉もでない。

何も言わず帰ってしまおうか、パジャマのままなど今更気にしたことか。そう思ってベッドから下りて寝室を出ると、突然目の前に山吹色の山が現れた。

「っ! か、かいりゅー…?」
「ウオン」

カイリューはわたしを見ると、楽しそうに笑って鼻先を擦りつけてくる。久しぶりに会えたことを喜んでいるような仕草だ、…ワタルさんがどんな思惑があってカイリューを残していったかは想像に難くない。それを思うと憎らしくて堪らないが、カイリューに罪はない。

「…久しぶり、元気だった?」
「ぱう!」

鱗を少しだけ撫でれば、カイリューは嬉しそうにぱっと腕を広げて。そ〜うとわたしを抱きしめた。ぎゅううと加減しながらも抱きしめてくれる彼には悪いが、いまあの…あなたのトレーナーと喧嘩の最中で。

だがそんなのカイリューも知ったことではない。彼はわたしの持っていたモンスターボールを勝手に開けて、フシギダネと一緒に楽しく遊び始めてしまった。寝転がったカイリューの手足でころんころん転がされて、楽しそうに笑うフシギダネに…もう、頭が痛い。

「…、」

リビングの大部分を占めているソファに座る。ぼんやりと考えるのは彼のことだ、今度はいったいどこを飛び回っているのだろうか。危ないことはしてないのだろうか、わたしなんかの所に大事な相棒を置いて行ってしまって、もしものことがあればどうするつもりなのか。

(わたしが心配するまでもないと思うけれど)

つきんと、胸が痛む。こんな思考に意味はない、ワタルさんは強い人だ。わたしには思いも及ばないほどの人脈があり、同じくらい強いトレーナーたちが常に彼の傍にいる。

(わたしと違って)

膝を抱えれば、気付いたフシギダネが傍に寄ってくる。どうしたのという風に首を傾げて、短い足で一生懸命ソファに上がろうとしている。見かねたカイリューが手伝ってくれて漸く上がると、ぴったりとわたしの隣に寄り添ってぐいぐいと体を擦り付ける。

「ダンネ!」
「ふぉおう」

カイリューもずりずりテーブルを押し退けて、頬をわたしの頭に擦り付けてくれる。慰めるような二匹の様子に、何時までもそうしているわけにはいかない。顔を上げて「ありがとう」と笑う。

「困った人だね、ワタルさんは。わたしをどうしたいのかな…、わたしと」

どうなりたいのだろう。
呟いた言葉に、カイリューは困ったような顔をする。それを見ていたフシギダネが立ち上がると、背の蕾からツルを伸ばした。それを寝室まで伸ばすと、何かを巻き付けてするすると戻す。

「ネックレス?」
「ダ!」

銀色の光るネックレスと書置き、ツルに手渡されたものを受け取るとツルの先でちょいと首元に触れる。「着けろって?」訊けば、フシギダネはそうだというように頷いて見せた。

一粒光るダイアモンド、それを細かな銀細工の月が囲むように包みこんでいる。無粋だと分かっていながら調べたら、同じデザインのネックレスはどのブランドも扱っていなかった。…おそらく、ワタルさんがわたしに贈るために特別に作ってくれたものなのだと、あの時は天に舞い上がるほど嬉しかった。

クラスプに施された花の刻印を指でなぞる。思い出すのは、わたしを抱きしめてくれるワタルさんの腕。身を裂かれたような声、縋るような言葉たち。

___もっと、わたしが我慢すれば良かったのだろうか。
少なくともあの時まで、その関係や在り方を不満に持っていたことはなかったのだ。誠実な人だから、浮気を疑ったこともない。何時も忙しい合間を縫って会いに来てくれていたことは知っている、例えすぐに眠ってしまっても無防備な寝顔にわたしの傍が安心できるのだろうと誇らしく思っていた。

夜中に呼び出しがあって、目が覚めたらいないということだって珍しくなかった。それでも何時も書置きを一枚残してくれる、筆不精の彼らしいぶっきらぼうな言葉が多かったけれど。どれもこれもわたしにとってかけがえのない宝物で、

「…」

すこし潰れた紙を開く。ワタルさんの字はどこか古風で、ハライやハネがはっきりとしている。ワタルさんは自分の字はあまり綺麗でないと言っていたけれど、わたしの丸っこい潰れた字とは違う力強い筆跡にいつも憧れた。

_____『出かけてくる、ここに居てくれ』

「……ここにって、いつまで」

そもそも直ぐに戻ってくれる案件なのかも書いていない、ここの居ろというが仕事や食事はどうしろというのか。カイリューを見れば、彼も困ったように顔を手で覆って天を仰いだ。パートナーにも伝えていないのか、本当にどこまでも、

「本当に、もう」

呆れているはずなのに、気付けば笑みがこぼれていた。
クスクス笑うわたしに、カイリューとフシギダネが顔を見合わせる。だがすぐに嬉しそうに笑って楽しそうに体を揺らすから、どうにもおかしくてわたしは声をたてて笑った。

本当にどうしようもない、不器用な男だ。
人の家のガラス戸は割るし、そのことを詫びもしない。パジャマのまま連れてきて自分はさっさとどこかに行って、残したものと言えばこんな書置きとネックレスひとつだけ。

わたしが怒ってどこかにいってしまうことは考えなかったのか。いや、そうなったとしても、彼はどこにいようとわたしのことを見つけるのだろうけれど。…その執念すら、なぜだろう。今は可愛らしく思えた。

「____うん、ちょっとすっきりした。ワタルさんが戻ってきたら、仲直りしないとね」
「ダネッ!」
「でも今回のことはワタルさんも悪いから、そこはちゃんと話し合わないと。…フシギダネだって、勝手にボールに戻されて怒っているでしょう」

訊ねれば、昨日のことを思い出したのか。フシギダネが顔にぎゅうと力を込めて、ぷんぷんと足踏みをしながら怒りの声を上げた。

「…ひとりだとまた言い負かされちゃうかも。一緒に怒って、謝るときは傍にいてくれる?」
「ンネ!」
「カイリューも、ワタルさんが怒ったらわたしの味方してくれる?」
「ふぉん!」

任せろというように、頷く二匹に勇気づけられる。まあ三対一になったらワタルさんはずるいと怒るかもしれないが、こっちは一般人なのだ。チャンピン相手にするのだからこの位のハンデは許して貰わなければ。

ぷちんとクラスプを外す。首に下げようとネックレスをかけた瞬間______ずぐんと、頭が痛む。





____『不幸になるよ』




蘇る老婆の言葉、全身を包む悪寒と込み上げる嫌悪。
弾かれる様にして立ち上がって、気付いたらネックレスを放り投げていた。フシギダネとカイリューが驚いている、その顔を見たいのに視界が明滅して視点が定まらない。呼吸がどんどん荒くなって、心臓がバクバクと波打っている。

苦しい、辛い、怖い、嫌だ、____不幸に、なりたくない。

思考を塗り潰していく、強迫観念。ワタルさんとの思い出を食いつぶして、違うものに上書きしようとしている。止めてやめて、それはわたしの大事な、わたしの    大事な 

____『不幸になるよ』
「やめ、 て」


____『あの男は、お前を不幸にする』
「いや、 ちがう」


____『不幸になりたくないだろう』
「やめて!!!」

そんなことない、ワタルさんはそんなことを望むような人ではない。それはわたしが一番よく知っている筈なのに、どうしてそんなことを言うの。

近づいてくる二匹を払いのけて、見えない何かに怯えるように逃げた。ホテルの壁に体を叩きつけて、痛みで正気を戻そうとするけどうまくいかない。涙が零れて止まない、漠然とした不安だけが体の中を巣食って幸福な感情の全てを食い漁ろうとしている。

(おかしい、こんな、 こんなの)

視界の隅で、ぼんやりと灯る赤い光が見える。揺らめく姿はまるで蝋燭の火のよう、ぐらぐらと視界が揺れる。塗り潰されていく理性、本能に誰かが囁いている。


_____ あの男から、離れろって。





「_________、」

「ダ、ダネッ…」

ぴくりとも動かなくなってしまったミシャに、フシギダネが心配そうに近寄った。だがその手が届く前に、ふらりと力のない体が持ち上がる。目が覚めたことに喜び近寄ろうとしたが、フシギダネを見るミシャの瞳は____暗く、赤い光が灯っていた。

「いか、ないと」

それはミシャの、フシギダネの大好きなパートナーの瞳ではない。
まるで何かに囁かれているように立ち上がり、ふらりと客室ドアへと向かうミシャ。呆然としているフシギダネにカイリューが吼える。

行かせるなと、カイリューも同じく異変を感じたのだろう翡翠色の羽根が広がり周囲を警戒するように触覚が揺らめいている。大柄な彼はこの狭い部屋で自由に動けない、自分がどうにかしなければ。

フシギダネは慌ててツルを出して、ミシャの身体を絡め捕った。いつもそうして、寂しい時は彼女の出勤を留めることもある。簡単に止められるはずの身体は、しかしそれでも歩みを取めない。

ミシャらしくない強引な力で、前に進もうとしている。自分の足が床の上を滑ろうとするのを堪えて、フシギダネは懸命にそれを止めようとした。

「…邪魔、しないで」

ミシャの手がツルを握る。フシギダネをツルにミシャの爪が食い込む、ツルを引きちぎろうとしているのだ。そんなことをすればミシャの手もただでは済まない。

フシギダネは咄嗟にツルを放してしまった。その隙に、ミシャがすり抜けて行って____カチャリとドアのカギを開けてしまう。

「___」
「ごくろうさま」

開いた先には、見知らぬ男が立っていた。
ホテルの従業員の服装をしているが、彼の纏う独特な雰囲気がそうではないことを知ら占める。吼えたカイリューが尾を叩きつけて、ホテルのテーブルを破壊する。

ドラゴンの威嚇を真正面から受けながら、男はひとつも狼狽えず部屋の中へと身を滑らせる。…その腕に、ミシャの身体を捕らえて。

「グルルルルッ」
「おっと、暴れるなよ。この女が、どうなってもいいのか」

男がモンスターボールを投げると、閃光の中からポケモンが繰り出される。迷彩力の大きな頭、そこに模様のようにして浮かび上がる目が周りを見渡し、赤い触手で近場の柱に巻き付くと___鋭い葉状の触腕をミシャへと突き付ける。

それを見たカイリューが飛び掛からんとしていた体を堪えた、その様子を見て鋭い歯が並ぶ二枚貝のような口を開いて、マスキッパがケタケタと嗤った。

「ダネ! ダネダネダ!」

フシギダネが叫んでも、ミシャは答えない。ぼんやりと宙を見て、大人しく男に拘束されている。その様子にしびれを切らしたのか、ミシャに駆け寄ろうとするがマスキッパのつるのムチがそれを許さない。

真横の壁へと叩きつけられずるりと倒れたフシギダネは、それでも懸命に立ち上がろうとする。その様子を見て、男は呆れたように笑った。

「健気なことだな、マスキッパ」
「ギャラケタケタケタ」

口の端から甘ったるい匂いのする毒液を吐きながら、マスキッパが小刻みに体を震わせた。そうして体内で生成した物質をがぱりと開いた口から一気に噴出させる。眩く光る金色の粉は、特殊な電子信号が組み込まれており、触れた先からフシギダネとカイリューの身体の自由を奪っていった。

全身を襲う痺れに抗い立ち上がろうとしたカイリューに、続けざまにマスキッパの赤い触手が伸びた。カイリューの身体に絡みつき、締め上げると足にツルを絡ませる。動きを封じられたカイリューの身体があっけなく床に転がるのを見ながら、愉しそうにマスキッパが笑った。

男が「行くぞ」というと、マスキッパはカイリューから離れる。同じく男に従い、部屋を出ていこうとするミシャに途切れそうになる意識の中、フシギダネは懸命にツルを伸ばした。ツルの先を、そうして大好きなトレーナーの背を撫でて____意識が、遠のく。

ホテルの従業員が異変に気付き、部屋を訪れた際には。伏せたカイリューとフシギダネのみが残されており____その部屋にいたはずの女性は、どこかに消えてしまっていた。

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