唯一を救えなかった安心院なじみ
「きっとなじみにはわからないだろうね」
ぽつんと椅子に座ったひなみが言った。
なじみはそれに答えず、浮かべた微笑も崩さずなかった。
「あたりまえのことだけれども」
「…それは大層な偏見だ。確かに僕は平等なだけの『人』外。だから挫折も苦悩も裏切られた努力もわからないけれど、僕だってそれなりに徒労はしているつもりだよ?」
「素直に認めれば良いのに」
朗々と詠うように、喜劇を演じる舞台役者のように語るなじみにひなみはくすりと笑った。
「ねえなじみ。『人外』というけれど、生物に生まれたからにはこういう経験はかならずしも人生を捻じ曲げるんだよ。動物だって、イジメにあう。悲しみや寂しさで自ら断食し、死に至ることだってある」
「…なにが言いたいの僕にはわからないな」
「嘘ばっかり」
ひなみの目が柔らかい刃となって目の前の『自称人外』に据えられる。
「今この瞬間も、あなたは一京分の一のスキルでわたしの心を、この後に起こる全てを『知って』しているのでしょう」
「…」
「そこがわたしとなじみの、絶対の差だ」
なじみには確かにそういうスキルがある。
人の心を読むスキル、相手の次の行動を予期するスキル、相手の未来を確定するスキル、その他もろもろ。後に精神系スキルあるいは魔法系スキルと呼ばれるそれらは、この時点で既にその数、百を優に超えていた。そして、状況に適したスキルを選出するスキルによって常に一京に及ぶスキルをなじみは自分の手足のように操ることができる。それをひなみは知っていた。そういう意味で、ひなみは誰よりも安心院なじみという人外を知り尽くしていた。
「人生に平等であることを今更期待なんかしないよ。それこそ、なじみと出会った時点でそんなこと諦めている」
「…賢明だね」
「人であるかどうかは関係ないの、あるのはスキルの有無___才能とは違う、それこそがこの地球上の有機物を二分化させる要素だろうね」
「つまり君曰く、僕たちは生物ですらないと?」
ぴんと指を立てていうなじみに、ひなみは小さく首を振った。
「いいえ、生物でしょう。でないとわたしはなじみとこんなに一緒にはいられなかった」
「…君の言いたいことは支離滅裂だね。心を読ませられている僕の身にもなって欲しいな。まあ『心を読むスキル』と『思考を整頓するスキル』を『スキルを併用するスキル』によって使っているから、今の僕は君よりもずっと君のこころを理解しているつもりだけれども」
「そんなことできるはずがないわ」
「どうしてだい」
「だってあなたに『心』なんてないもの」
瞬間、世界が凍りついた。
なじみがあらゆるスキルを使った上で『絶対にひなみが口には出来ない』と確信していた言葉が、彼女の口から毀れた事実。それが、なじみの中で演算されていた未来に歪ませる。
「それなのに理解できるわけがない。わたしの苦悩も、葛藤も、悲しみも怒りも、…虚しさだって、わたしだけのもの。わたしたち人間の感情だもの」
「…」
「人外だと嘯き、不平等なんて歌っているかぶき者のあなたにわかるわけがない。いいえ、わからせない。そんな人間気取りの道化などに、わからせてやるものですか」
「…ひなみ、」
「スキルでいくら着飾ったって無駄。ダメよ、ぜんぜん足らないわ。なんにもなっちゃいない。いい加減認めなよ、あなたはそうやって自分を過信しすぎている。長すぎる時間と生のなかで、あなたという在り方は大きく歪んでしまったんだね。積み上げられた矜持はもう誰にも折れない。あなたにだって、」
「ひなみ、」
「驕っているのはどちらだろうね、なじみ」
「あなたはどうあがいても『人(わたし)』を理解することなんてできやしない」
「黙れっつてんだろうがっ!!!」
吐き出される獣の怒号。まるで竜でも相手取っているようだった。
目の前で歪む友人の顔、いつも飄々とした笑みか伽藍洞の無表情を浮かべている彼女からは想像もできない…彼女に唯一相対できる彼の英雄を髣髴とされる、鬼の顔。それに曝されてなお、ひなみは笑った。
「この世に、あなたができないことなんて沢山転がっているのよ」
「だからなに」
「些細なそれらを認めることが、あなたの積み上げられた矜持が許さないのはわかっている」
「違う。できてる、僕にできないことなんてない」
「それが驕りなのよ、なじみ」
鬼の沈黙に、ひなみは思う。きっとこうしている間にも、きっとこの身はいくつものスキルに曝されているのだろう。プライバシーもなにもあったものじゃないが、こうして今生きていられるということは、なかなかどうして、不思議なものだ。安心院なじみのまえで、ひなみにプライバシーは認められない。だけどこうして、生きて、語ることは、認められているのだ。
その現実が、痛い。
「わたしはもう…疲れたよ、」
_____それは、ひなみという人間が初めてこぼした弱音だった。
家族にも親友にも、…なじみという神の似姿をとった人外にも絶対に自分の口からは語らなかった本当の言葉。なじみはそれを知っていた。何時だってスキルをもって、その声を聞いていた。だけどなじみは、彼女の声でつむがれた『こころ』になぜか息が出来なくなってしまった。
「なじみ、この世界はどうして人間に優しくないんだろう。どうして人間は人間に優しくできないんだろう。…いいえ、優しくなんていっている時点で、わたしがわたしを驕っているのね。わかっているの、全部『わたしが悪い』って」
「…、」
「わたしが不出来なのがわるい、わたしが及ばないのがわるい。だからみんなわたしを怒るし、わたしを疎うのね。知ってるの、それはちゃんとわかっているのよ、」
力なく笑うひなみに、この時もしもなじみが感情的になっていれば何かが変わったかもしれない。スキルを持つ人間の思考と感情で、それでも彼女を慮っていることを証明できれば、何かが、変わっていたかもしれない。でもそれはできなかった。結局は、それがなじみとひなみの差なのだ。絶対にこえられない、壁なのだ。
「でもそれがどうしようもなく、むなしい」
吐き出された言葉は、すでに色を失っていた。
「どうして人は、気持ちや思考を共有できないのだろうね。だから人は人であることも、そうすれば人でなくなることもわかっているわ。でも思わずにいられないの、そうすれば戦争もなにもなくなるのにって思う。でもやっぱり、ダメなのよね。そうするとこの世界のいろんなものが可笑しくなっちゃう。人は独り。人は一人、複数の人格を保持することなんてできやしない。受容できない、そういう風にできている」
「…」
「ねえなじみ。どうしてわたしはあなたと一緒にいられたんだろう。不思議よね、あなたとわたしはなにもかも違うのに、どうして一緒に笑って、走って、食べて、そうして時間を共有できたのだと思う?…それも、わたしが一方的に感じていただけのものかもしれないけれど」
「…」
「…わたしとあなたで差がないとしたら、それは『好き』という気持ちだけかもしれないね」
なじみにとって。
人間なんてただの背景だ。世界に意味なんてない。人道に価値なんてない。だから、ひなみにだって意味はない。なじみにとってなんの取り止めもない二次元だ。そのはずだったのに、そのはずだったのに。
ひなみが静かに、自らの首に死神の鎌を添える。一瞬でそれは彼女の命を絶命させるだろう。彼女はだって、か弱い人間だから。なじみとは違う、なんのスキルももたないただただ普通の女。それだけしかないなじみの背景。
「ねえ、なじみ。どうしてわたしとあなたは一緒にいられたんだとおもう」
なじみは答えない。否、答えられなかった。
喉が詰まる。心臓が妙にうるさくて、視界が脈動しはじめている。ぶれる世界。耳の奥で木霊している言葉。ことば、ことば。その波にいまにも感情の咎が外れそうでどうにかなってしまいそうだった。混乱とも困惑とも違う道の感覚の中で、なじみはただ沈黙していることしかできなかった。
「…わたしはね、なじみもわたしのことが…ほんのちょっとだけ『好き』だったからだって夢を見ていたよ」
「っ、…あ、」
「さようなら、なじみ」
さようなら、世界。
____ひなみが、背景になった。
目の前に広がる白と黒。ああ、またなじみの世界が戻ってきた。
…もとより、ゆがみばかりの気まぐれだった。なじみにとってひなみという存在は、最初から最後まで予想外の存在だったのだ。二次元の癖にしゃしゃり出てきて、僕を友だちだなんて嘯いて、特別だなんて歌っているかぶき者。いつの間にか今までみた数多の絶景よりも鮮明に、どんな英雄よりも麗凜と。なじみの世界に溶け込み始めた背景は、気づけばなじみと同じ三次元になっていた。なんともおこがましい。生意気な生命、
それでも、それでも。
なじみのもつスキルを使えば、こんな結末どうとでも変えられる。ひなみを生き返らせることも、ひなみの運命そのものを、因果をいじくる事だって簡単だ。そうしてひなみという人間の尊厳を奪って、仮初のまま生かす事だってできた。でもそのひとつだって、その時のなじみはできなかった。できるはずがなかった。
たったひとりの、きっと最初で最後の『最愛』を失った彼女にできるはずがなかった。
「それでも…君は僕を、人間じゃないなんていうのかな」
ぽつぽつと、なにかがこぼれる音がする。どうやら雨が降り始めたようだ。
あいかわらず、世界はモノクロだけれど。
『____ねえ、なじみ』
彼女の今際を思い出す。回想する、最後まで彼女に使っていた心を読むスキルがなじみに届けた、彼女の遺言。
『もし、あなたが少しでもわたしを哀れんでくれるのなら…もし、生まれ変わるなんてことがあったなら……そのときは、』
『もう一度、友だちになってね』
今となっては、なじみに残る唯一の『色』。
それだけを記憶の奥深くに閉まって、なじみは色のない死体をその胸に抱いた。そんなことに意味なんて、あるはずがなかった。