JujutsuKaisen | ナノ

両面宿儺を呪った女


「法師様」
_____姫の聲が聞こえる。俺を呼ぶ、こえ。

桜の樹の下、宝相華の表着が広がっている。風が姫の髪を攫い、柔らかな黒髪に桜の花弁が纏わりつく。細い指が耳に掛ける鬢は短く、そこから覗く雪のように白い顔。

争いを知らぬ、この世の美しいものだけを見つめてきたような瞳が、俺を見つけて少しだけ和らいだ。




「法師様、どうか落とさないでくださいませ」

自分から頼んできたというのに、その言葉は酷く不安に揺れている。
波打つ黒髪を掻き分けて、四腕で藤重姫の身体を抱き上げる。片腕に乗せて高く上げると、藤重姫の手が慌てたように俺の袈裟を掴んだ。

「俺のことをどうと口にする暇があるなら、さっさとそれを放ってしまえ」
「はい ああ、もう少し右に」

抱えられているという自覚がないようで、言葉と共に藤重姫の身体が傾く。落とさないでと言いながら、自分から落ちようとする、だからこの姫は質が悪い。藤重姫の長袴をたくし上げ、望む通りに歩を進める。

「落ちるなよ」
「はい、落としません」

お前が落ちるなと言ったのに、その手に包んだ雛を落とさないようにと言われたものと勘違いしているようだった。藤重姫は何かに夢中になると己が身を顧みなくなる、今に始まったことではないが、どうにかならないものかと米神あたりが鈍く痛む。

___鳥の雛が巣から落ちてしまっているから、帰してやりたいという。

放っておけと言ったが聞かない。せめて抱き上げて欲しいという顔は、こちらの機嫌を伺いながらも頑固とした色を滲ませていた。こうなった姫を制するには手間がかかる、だから俺は「さっさと済ませろ」と彼女の要求に従うことにした。

雛を巣に戻すのに四苦八苦している姫を待ちながら、ふと昔のことを思い出す。

まだ姫が、父親の屋敷で暮らしていた時分。東寺の市に用があるので祈祷を終えたらすぐに屋敷を後にするつもりだったが、彼女が着いていきたいと言う。魑魅魍魎の呪いに怯え、屋敷の敷地を超えたことなど数少ないくせに。人が多い場には呪いも溜まる、お前の怯え怖がるものが溢れかえっていると脅しても、「法師様の傍を離れません」と見当違いに決意を固めてくる。だからこの女は、厄介極まりない。

渋々連れて行った市で、姫は解りやすくはしゃいだ。離れないと言った癖に、風呂敷が広がっていれば右へ左へ。ふらふらと移動する藤重姫を人込みで見失うまいと女房が慌てている。俺ほど身丈がない彼女では、この程度の人混みでも容易に藤重姫を見失ってしまうのだろう。その様子に苛立ちが高まる、ただでさえ予定を崩されたというのに。あの姫は、本当に俺の邪魔ばかりする。

「藤重姫、止まれ」
_____姫、と。言っても、この雑踏では反応するのが難しいだろうと口にした名。

ぴたりと止まる市女笠、虫垂衣の向こうで藤重姫振り返るのが解った。朱色の飾り紐が揺れて、その隙間から藤重姫の顔が覗く。出会った頃、何時も御簾越しに怯え泣いていた彼女が、頬を明るめて笑っていた。その喜色に潤む瞳に、なぜか、息が止まるかと。

息を弾ませて俺の下に戻って来た姫が、思い出したように「ごめんなさい」と言う。こんなに楽しいのは初めてだと、軽やかな声で言う。

「姫様、恐ろしくはないのですか」
「ええ、 ええ。大丈夫、法師様が一緒だもの」

当然のように、言う。
顎紐が少し苦しそうに見えたので、虫垂衣の隙間に手を差し込んで。指で紐を緩めてやる、少しだけ触れた肌は今まで触れてきたなによりも柔らかく思えた。俺の手の温度に驚いて、藤重姫が少しだけ目を見開いている。その顔をもっとはっきりと視たくて、差し込んだ腕を払おうとしたが女房が邪魔立てする。

触れてくれるな、名を呼んでくれるなと。後で顔を赤くして女房に戒められた。

「あのお方は、この屋敷で最も尊いお方。一介の僧が触れて良いお方ではないのです」
_____嗚呼、なんと耳障りなこと。

思えばあの頃だ。俺と姫の間に垂れる御簾も、屋敷の敷居も、厚かましい女房も、すべてが疎ましく思い始めたのは。俺と姫を取り巻く、そのすべてが邪魔だった。壊してやりたいと、思うがままに力を揮い呪霊を視ることさえできない塵芥を殺尽くしてしまいたいと。




「法師様、どうなされたのですか」

……少しばかり深く思考に沈んでいたようだ。見上げればこちらを見つめる藤重姫がいた、その瞳が今度はこちらを案じる色で揺れている。その手に雛はなく、枝の先の小さな巣に未熟な嘴が見えた。

「終わったか」
「はい、ありがとうございます」

俺の様子を確かめようとしたのだろう、頬に触れていた指が離れようとする。それが妙に許しがたく、壊さないように掴み取る。____貴族の姫と僧のままでは、この指に触れることすら許されなかった。

名を呼ぶことも、黒い髪を梳くことも、彼女の身体を抱いて眠ることもできない。独りで眠っている間に、几帳なんぞに潰されて死にそうになる女だというのに。

「法師様」
「なら、さっさと戻るぞ」

はあとこぼした溜息は、苦し紛れの誤魔化しだった。訝しむ姫に二の句を紡がせたくない、俺の考えていることなぞ一字一句伝えたところできっと小指の先ほども解することはできないのだから。理解を求めるには、俺と藤重姫では視えている世界が違い過ぎていた。

長袴の裾と髪を寄せ、屋敷へと戻る。彼女の足では何十とかかる道も、俺の歩幅なら直ぐに着く。「歩けます」という藤重姫だが、「また夜刀に斬られたいのか」と脅せばすぐに口をつぐんだ。あの後、毒で苦しんだ日々を思い出したのか静かに体を寄せてくる。

喉に藤重姫の指が触れている。決して他の生き物に許したことのない、急所。もし彼女がそうと望んでいたら、俺は今頃彼岸の向こうにいるかもしれない。今や同朋にすら死んでくれと望まれる俺を、殺すことができる唯一の指。だが悲しきかな、その指は命を慈しむことしか知らない。理不尽にもその身を隠した俺に恨み言ひとつしか口にしない女に、そんな度胸あるはずもなく。

「情けない」

その言葉は、誰に掛けたものだったか。

back

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -