JujutsuKaisen | ナノ

天香国色腐り墜ちて穢土より芽吹く夷草


(どうしたもんかな……)

ふむ、と考える。俺はいま、平安京を訪れていた。
夜も更けるとあたりは真っ暗な帳に包まれ、視界は常闇に閉ざされる。だがそれはヒトの話、俺達鬼にしてみれば常闇こそが生まれ落ちた世界。力の弱い餓鬼は陽の光に目がくらみ、肌が焼ける。だが、俺達鬼神クラスになれば、昼と夜に大した違いはない。“昼間も夜間なみに目が効く”。

だから、夜であるいま。遠見の呪術を使わずとも、それを鮮明に視ることができた。
上品な屋敷、美しく整えられた庭。雅な几帳のその奥、……銀色の鬼に食われ、純潔の花を散らされる姫の艶姿。

小柄な姫だった、可憐な撫子を想わせる娘だ。そんな非力な貴族の姫が、鬼神のような体躯の男に犯されている。闇夜に跳ねる足は白く、柔らかい肌を我がもののように暴く力の所為で赤く染まった。理性を飛ばしている銀髪の男、その瞳は蒼く深く。ひたすらに姫だけを映して、内に燃える暴力によく似た恋情に身を焦がす。________それは、最高のエンターテイメントだった。

(アレが“五条悟”のご先祖サマ… 無下限呪術の開祖にして、初代六眼保有者ね)

想像以上に、アタマぶっ飛んでるな。
何もしらない無垢なお姫様に説明もせず、いきなりの初夜。…俺そういう気持ちが通じ合う前に、無理やり手籠めにするようなやり方どうかと思うなあ。まあ他人事なら、どっちもドラマチックで面白いけど。イヤー酒がおいしいネ!

にこにこと盗み見していると、ふと知った気配が近づいてくる。
面倒な奴に見つかった、_______いや、今回ばかりは見つかるのが目的だったのだけど。

背を預けていた杉の木を下り、ぱんと衣についた木屑を払う。酒の入った瓢箪を煽り、すべてみ下したころ夜の帳を裂くようにしてその男は姿を見せた。

「大江山の鬼頭目が、我が弟子にどのような御用ですかな」
「よォ 久しぶりじゃん、セーメイ」

初老の男は、しかし俺の挨拶に笑みを崩すことはなかった。
質の良い絹を纏った平然としたたたずまいの老人だった。普通にしていればそこらの貴族老人と見分けは付かないだろう、だが彼が安倍晴明だ。その腹に堪った今にも喉元に食らいついてきそうな呪力が、その証左となることは言うまでもない。

「身内が噂してたもんで垣間見に来ちゃった、可愛いねお前の弟子。ようやく手に入ったお姫さんに身も心も蕩けてるみたいだ」
「大層評価してくださっているようですが、アレもまだ未熟。奥方に溺れあなたの気配にも気づけない若輩ものなれば」
「そんな未熟な弟子にゴホービあげちゃったの? ちょっと坊やには早すぎたんじゃない」
「いえいえ、こればかりは貴方にご理解いただくことは難しいかと。我々は守るものがあるほうが強くなれるのです、…そう大江山の鬼頭目(あなた)の喉元にも爪が届くほどに」

「……そのための贄か」

とろりと。体から滲み出た呪力が、大気に満ちて世界を侵す。
水面に一滴の絵の具を垂らすように、常人なら触れただけで致死をもたらす呪いの酒毒だ。並の術師なら逃げようのない毒沼に悲鳴の一つでも上げようものだが、目の前の老人は眉一つ動かすことはしない。予備動作無し、瞬きの間に展延を纏い領域を中和している。…この俺を、相手に。まったくこの男の豪胆さには脅かされる。

「あの姫はよく役目を果たしてくれました。この世に微塵の興味も示さなかった不詳の弟子の裡を暴き、掻き回して押し並べ、より欲深い感情(もの)だけ拾い集めて熟してくれた。…術師となるには必要不可欠な感情の発露、それだけがずっと足りなかった。あとは待つのみ、ほどなくして我が弟子は“完成”する」
「…あの眼か」
「お分かりいただけたようでなにより。…継がせられるのなら、“つくる”までのこと」

あの六眼は、_______安部清明の術式そのものだ。
近くで見て確認した。決して人間が継ぐことのできない天狐の……母親に刻まれた術式(のろい)と遺宝を……この男はあろうことか、血統の縁もない他人の眼球に直接刻み込んだ。

それは、まさしく術式の人体実験だ。

あの蒼穹の瞳には、今まで安部清明が視てきた世界が広がっているのだろう。
…正常な視力と、寿命を引き換えにして。

「お前みたいな血の縁を持たない術師が、天狐の術式は使えば生命(いのち)を喰われる。嫁をとったばかりの弟子に早死にさせる気か」
「中々に頑丈な子です、3年は持つでしょう。念のために肉体強化の呪いも施しました」
「抜け目ねぇなあ! だあから、お前って嫌い」

えーんがちょ。えーんがちょ。
縁切りチョップを繰り返して見せるが、残念このご時世でこのネタは伝わるか怪しいぞ!

「そこまでして俺を殺したいか もう諦めろよ」
「………」

安部清明は答えない、ただ薄寒い笑みを浮かべている。その瞳は夜に溶けてなお深く、井戸の底を除いているような不気味さを感じる。

「…………たとえ、そうであったとしても。認められるものがあるのですよ…鬼のあなたには、到底理解できないことでしょう。わたしたち人の心なぞ。母親を殺された子の無念なぞ。這い寄る年の重ねに勝てず、怨敵を前に成す術もなく立ち尽くす老人の号哭なぞ」
「逆恨みもいい加減にしてくれ、俺は頼まれたから介錯してやっただけだ。…いくら呪力を使い果たしたとしても千歳天通の天狐(あまぎつね)、首を刎ねてやれる同胞なぞ俺くらいなもんだ」

「だとしても」

だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。だとしても。

安倍晴明は、酒呑童子を呪わずに存在し得ない。

流れる涙は何色か、その瞳は虚だ。まるで井戸の底でも覗き込んだように暗い。
この世でたったひとり、唯一の家族を理不尽に奪われた少年の嘆きが聞こえた気がした。

「あなたが大事に抱えている、すべてを奪い、侵し、踏み躙り、地獄に落ちよう。次に見えるのは黄泉の鳥野辺、潺の辺でお待ちしておりますれば」
「…こわっ、」

零れた言葉は、聊か苦し紛れだったかもしれない。
ずっと頭の隅に残っている記憶が、老人の喉を貫こうとする爪を留める。…あの天狐、とんでもないモン残して逝きやがって。

真に呪われたのは、安倍晴明(おまえ)か酒呑童子(おれ)か。
この問答に応えるものはいないが、繰り返さずには落ち着かない心地だった。

「わたしも遠く飛騨国から噂を耳にしました。胴体ひとつ、顏ふたつ…四腕の緋鬼は、酒呑童子の眷属だと」

業とらしく、思い出したように呟く老人。その背を睨みつけるも言葉は続く。

「確か名を、両面宿儺。諫めの利かない弟子を持つと苦労いたしますな、わたしにも覚えがあります」
「さっさと帰れよ」

思わず言葉がこぼれた。それだけのことなのに、安部清明はにたりと嗤った。
何も言わずに狭間に消えた老人に、知らずに息が漏れる。___最後のはしくった。ヒトの挑発に負けるなど、幾年ぶりか。いや、あれは化生みたいなものだが。







「恋しくばたずね来きてみよ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉」

僧侶が詠うそれが耳障りで、持っていた瓢箪を砕いた。
欠片となったそれを手慰みにしていれば、僧侶はくつくつと笑う。

「機嫌が悪いですな」
「お前が嫌なこと思い出させるからだ、喰われたいのか」
「余命幾ばくもない老僧など、喰うても腹を壊すが精々」
「お前がセーメイにチクった所為で、俺が恨まれた」

放り投げた欠片が庭園を彩る山水に落ちる。人形の式が直ぐにそれを丁寧に拾って見せる。まるで三文芝居、思い出すのはオンナの顔。酷く色の白い女だった、白百合のような佇まいをしていると思った。しとしとと悲しみに暮れながら、血の気のない唇で乞うた姿は良く思い出せる。

______「どうか、どうかおねがいです」
__________「わたしをころして、あの子を_____」

「その子に、今度はあなたが殺されようとしている いやはや、だからこの世は面白い」
「…葛の葉の、天狐の遺した宝珠を、術式と一緒に弟子に埋め込みやがった」
「ほうあの天珠を。なんと豪快な」

僧侶が興奮した様子で感嘆する。

「あれは二具とない極上の呪具、天狐の如意宝珠。なれば、その弟子今や天地万象の理を見透かし、八百万の神々に通ずる鍵を手にしたに等しい。正に現人神(あらひとがみ)、六度彼岸(ろくどひがん)を超えた眼(ひとみ)はこの国に何を見出すのでしょうなあ」
「ダァーーーーーーーーーーー!」

愉快と笑うばかりで、ちっとも問題の解決策を提案しない僧侶に天を仰ぐ。この悪友、昔からこういう性格なのだ。もはや慣れに近い諦めを覚え、四肢をだらしなく放り出してみる。

「五条氏と申しましたか、名はなんと」
「サイ」

『斉』と書く。
お姫様の家に嫁いでからは、名を改め『菅原斉空(センコ)』と名乗っているようだ。安部清明が占んじたというが、趣味が悪い名前だ。

「空(コ)は天(テン)と狐(コ)か…愛弟子に『神に至る』言霊を授けるとは、彼の術師の愛を感じます」
「歪み過ぎてワロタ」
「酒を追加いたしましょう」

柏手に応じて、式が酒をもって来る。わいわいと愉快に揺れて、朱色の杯に甘露を満たした。

「して、どうしてここに」
「…別に、愚痴りにきただけ」
「なるほど、その身に穿たれた呪いを降すためではない」
「…」
「視たところ、三毒の呪い。天狐が貴方を呪うのにこれほど適した容(カタチ)はありますまい」

気づいていなかったわけではない、だが、他人から指摘される心地が悪い。それは体調の不良を指摘された感覚とよく似ていた。

「貪瞋癡(トンチジン)、この世に呪いを生む衆生の根源。いまやその全ての縁(エニシ)があなたに結ばれた。世は穏やかになるでしょう、なにせ魑魅魍魎百鬼妖怪が消えるのですから。___その代償として、遠くない未来にこの国は黄泉へと堕ちる」

呪いをたらふく喰らった毒蛇によって、

「そう簡単に、俺のコントロールは奪えねぇよ」
「呪いは、理性(あなた)ではなく本能に通じております。あなたの起源、…かつて、出雲国の神座(かみざ)を悉く穢した八つ頭の蛇が、理性を喰い破り蘇りましょう」
「ならんわ」
「理屈ではないでしょう、ならばこそあなたはわたしを訪ねてきた」

_____おそらく、シナリオはこうだろう。
三惑三毒に理性を溶かされた俺を障礙(しょうげ)と化し、怨敵として知ら占める。それを天狐の術式を埋め込んだ五条氏を筆頭とする呪術師達で禊祓う。かなりの犠牲者が出るだろうが、それも計算の内だろう。なにせあの男、母親を疎外し村八分にした非術師を心の底では大層怨んでいた。

自分が死んでも、化身たる天狐の術式が酒呑童子を殺す。
そうして、母親の仇討ちをするつもりだ。

「あなたは鬼としては異質、ヒトに好まれ過ぎている。討伐するにも、今のままでは聊か名目が立たない…それ故の三毒。なるほど、清明殿は人が良い」
「うっせぇわ。…負けるつもりはねぇが、あいつの思い通りになるのも癪だ。俺もいくつか保険をかけておきたい」
「ほう、してわたしはなにを」
「呪具を拵えてほしい、依代(よりしろ)はこっちで用意した」

呪力の狭間に収めていたものを取り出し、投げ渡す。僧侶の式がそれを受け取り、丁寧に包みを解いて術者に見せた。

「なるほど…刀、ですか」
「呪いを篭めてほしい。それに逸話もいる、民衆に広げて仮想現実に仕立て上げろ」
「して、題材は」

「_________“酒呑童子の頸狩り”」

僧侶は「心得まして」と頷いた。
それが覚えている限り、悪友・道摩法師と交わした最後の酒だった。








































_______2018年7月14日 PM 23:54


腹部に鈍い衝撃、内臓を鋭い衝撃に抉られる感覚で目を覚ます。
開口一番、喉の奥に夥しい量の水が流れ込む。呼吸が一瞬で機能を失った、おぼろな意識の中でも生存の本能が体を突き動かし…虎杖悠仁はなんとか、呼吸を取り戻す。

「ッガハ …くっそ、ゲロ吐くかと思った」

眼前に広がる薄い水面。それは涙と鼻水で濡れた情けない自分の顔を映した。
袖口で乱暴に顔を拭う、落ち着かせようと握った胸元の制服は濡れていなかった。奇妙な感覚、それには覚えがありすぐさま意識を広げる。しかし、どこにいてもイヤでも解る気配が見つからない。

(…? あの野郎が、いない)

耳につく嘲笑、魂まで底冷えしそうな悍ましい邪悪な気配。
それが感じられない。だがしかし、ここは奴の生得領域だ。

しばし考えた後、意を決して歩き始める。
歩みと共に水が跳ねる音が、静寂を彩る。薄暗い赤と黒の世界、まるでこの世の終焉のように濃厚な死の匂いがするこの場所が、虎杖は嫌いだった。

いや、好む人間などいないか。気色悪い頭蓋骨の山も、悪趣味としか言いようがない。角が生えた獣か、見たことのない猿の骨。…そのどれもが、虎杖の知る生物の生態と合致しない。これも呪霊に関する遺骨なのか。

「…なんの骨なんだよ、これ」
「それは鬼の骨、おそらく猿鬼のものだ」
「へーエンキ! それってなn、」

続く言葉はすぽんとどこかに飛んで行ってしまった。ぐんっと意識が反転する。
理解するよりも先に体が動く。体が跳ねあがり、いつの間にか後ろにいた得体のしれない気配から距離をとった。なんだ、だれだ、いつから、後ろをとられた、死んでない、____まだ動ける。

「警戒するな、と言う方が無理か」
「____お前、だれだ」
「誰だとおもう」

その声は、少年のようにも、大人の男のそれにも聞こえた。
虎杖の言葉に質問で返し、首を傾げる姿は無垢な少年そのものだ。黒い髪、金色の瞳。歴史の教科書で見たことがある古衣を纏っている。小柄な体躯にそぐわない、血のように真っ赤な勾玉の耳飾りが、虎杖の顔を映してちらちらと輝いていた。

「知らねぇ顔だ てか、ここにいる時点で人間じゃねぇだろ」
「ここがどこだか理解ってるのか」
「…両面宿儺の生得領域」
「だ〜いせ〜か〜い」

間延びした揶揄う様な口調で、少年が手を叩く。ぱちぱち、乾いた音が間抜けに木霊した。

「宿儺の仲間かなんだか知らねぇが、ガキの姿してっからって容赦しねぇからな」
「なるほどそういう認識か。まあそれも悪くない、が 時間がないからなるべく誤解がないよう手短に用を済ませたい」
「どういうことだ」
「自己紹介からいこうか。俺は…」

自分から言い出したのに、少年は困惑したように口元を歪めた。

「ンだよ、名乗れよ」
「いやなあ、呼び名がいくつもあるから…どれを名乗ったら良いかと思って」
「はあ?」

理解できない回答に、今度は虎杖が顔を歪める番であった。しばらくぶつぶつと何かを繰り返すと、少年はなにかした着地点を見つけたのか、咳払いを一つして続けた。

「よし、外道丸と名乗っておこう。この姿の時に名乗っていた…というか、勝手に呼ばれていた名だ」
「勝手に呼ばれて…って、あだ名ってこと?」
「似たようなもんかな。 一問一答形式でいこう、君の名前は」
「呪霊に教える名前なんてねーよ」

それは恩師である五条悟に教わった呪術師としての心得でもあった。
安易に名前を名乗ってはいけない、呪霊はそれを縛りに呪いを仕掛ける場合があるから。それにこの場における主導権を握るためにも、すこしでも少年…外道丸の機嫌を損ねて冷静さを奪いたかった。だがそれは失敗に終わる。

「まあ知ってるけど。虎杖悠仁くんでしょ」
「知ってんなら聞くなよ!」
「あはは ごめん、ヒトと話すのは数千年ぶりでな。ちょっと遊んでみたくなったんだ、気を悪くしたらすまい」

腕を振り上げて怒る虎杖に、外道丸はからりと笑って見せる。子どものくせに、妙に大人びた言葉を選ぶ。それに数千年といった、どういうことなのか。情報が少なすぎて次の行動を組み立てられずにいる虎杖に、意外にも外道丸は寄り添うように続けた。

「なにせ色々あってね、保険代わりだってノンちゃんの領域に縫い付けられた時はどうなるかと思ったけど。以外にもバレない、でもおかげで俺は千年もの間一言もしゃべることができずにこのありさま。ねえ、コミュニケーションってどうやってとるんだっけ? とりまLINE交換しとく?」

妙に人懐っこい様子に、一瞬警戒が緩みそうになる。だがすぐに気を取り直した、本来なら虎杖しか介入することができないはずの両面宿儺の生得領域に現れた少年。それがただの迷子でないことは、素人でも解ることだ。正体がはっきりするまで、こちらの情報は可能な限り明かすべきではない。

「ノンちゃんって誰だよ」
「薄情な奴だな、自分に寄生した鬼を忘れたのか。 両面宿儺だよ、ノンちゃんっていうのは俺が付けた幼名だ」

突然叩きつけられた真実は、強大なハンマーとなって虎杖の頭を揺さぶった。
え、あ。そんな意味のない言葉が頭に浮かぶ。混乱していた、いま少年はなんといったのか。

「幼名ってわかるか?子どもの時に呼びならわす名前だ、普通は親が付ける。だが宿儺には親がいない、だから俺が名付けた。かわいいだろう名だろう、鈍間でマヌケな感じがして」
「ちょ、 ちょっと待って! じゃあ、お前はなんだよ 宿儺の親じゃねぇななら、えーっと…」
「一応兄ということになっている。血の繋がりはない義理の兄弟だ」
「…宿儺が、おにいさ」

「いや、俺が兄だ」

堂々と胸を張って、少年は断言した。
…虎杖よりも小さな少年が、どこか誇らしげにそういうものだから、虎杖としては頭を抱えたい心地だ。同期や恩師の名前を叫びたくなる。だがその行為に意味がないことはわかっている、だからぐう〜と癇癪を起した子供の用に唸って、外道丸に噛みつく。

「で、そのおにーちゃんが何の用でここに来たんだよ!?」
「お前に会いにきた」
「そうかよ、てかお前生きてんの?」
「生きているよ、 宿儺がしくじってくれたおかげで、めでたく本体はいまも生き地獄の中さ」
「本体…?」
「お前が見ている俺は、両面宿儺の裡に隠した保険(かりそめ)だよ。三毒の浸食を防ぐために本体との縁(つながり)は切ってあるが、経験と記憶を写したから自律して思考できる。こうして会話していても、現実世界の俺に感知されることはないから安心しろ」

「…お前、何なんだよ。さっきから訳わかんねぇ、」

まるでエライ先生の口舌を一方的に聞かされている心地だった。
ぺらぺらと要領を得ない説明、何を伝えたいのかもはっきりしないセリフ。察することのできないこちらをあざ笑う様な言葉運びは、ひどく不愉快だ。元々の性格なのかもしれないが、無意識にやっているのなら虎杖との相性は最悪だろう。

「簡潔にいえ、俺は頭がワリィんだ」
「…簡潔に言ってるつもりだった」
「さっきから意味不明なんだよ、悪かったな」
「いやいやこっちも悪い。喋るのは久しぶりでな、なんかこう…テンションが上がって」

孫に久しぶりにあったジジイか。
少し照れ臭そうに言う外道丸に、虎杖は解りやすく戦意が削がれるのを感じた。

「ごほん、気を取り直して…。俺の目的はいくつかある、まずはそれを伝えておこう。
 ひとつ、虎杖悠仁が強くなるために協力したい。
 ふたつ、これを本体の俺と宿儺には知られたくない。
 みっつ、できれば俺がここにいることは黙っていてほしい、理由は二つめだ。
口で言葉にしてしまえば、どこから漏れるかわかったもんじゃないからな」
「全部わかんねぇ、俺を強くしてどうなんだよ」
「来るべき時に備える。俺の術式は特殊でね、ヒトの運命をある程度見通せるし、切ったりつないだりできる」

糸を切るような仕草を交えた説明。その手つきは裁縫をしている近所のばあちゃんによく似ていた。

「いくつか回避したい未来がある、それには君の働きが必要不可欠。…俺はこの領域から出られない、だから君に託すしかない」
「…強くしてくれるってんならありがてぇけど。やっぱりわかんねぇよ、それでお前になんの得があるんだ」

「俺を殺してほしい」

正しくは、現実世界にいる本物の俺を(ほんたい)を。
あまりに自然に口にするから、虎杖は一瞬何を頼まれたのか分からなかった。脳がその事実を処理する前に、外道丸は言葉を重ねた。

「安心しろ、手を下すのは宿儺の方だ。君は然るべき時に、すこしだけ宿儺に体を貸してくれれば良い。“俺”の相手するんだ、他の人間を殺している余裕なんて与えるつもりはないから安心しろ。殺した後は、宿儺もタダでは済まん、転生体である君も消耗する可能性があるがきちんと戻れるように魂はここで“俺”が守ってやる」
「…弟に、自分を殺せっていうのかよ」
「そういう約束だ、千年前に誓約させた。本当ならあの時に死ぬはずだったんだが…術師共に邪魔されてな。結局宿儺は封印され、俺の悲願は叶わず、こうして保険まで残す始末だ」

ふざけるなと叫びだしたい衝動が込み上げる。なんてことはないと語る外道丸、だがその口から紡がれる未来は許容しがたいものだった。…両面宿儺、己が身に巣食う最悪。その根源が垣間見えたような気さえする。あの歪みが、邪悪が、憎悪が。

(たったひとり、最愛の家族を奪われたからのものだったら)

初めて、虎杖の思考に芽生えた感情。酷く、宿儺という男が寂しい生き物に感じた。

「君にもメリットはある、俺に協力してくれるのなら…虎杖。その手が届く範囲で理不尽な死を迎える命があれば、その運命を俺が裁断(た)とう。孤独な結末が定められた命があれば、その縁糸(えにし)を縫合(つ)なごう」
「…」

「そしてすべてが終わった暁には、君を転生体の宿命から解放してやる」

カナカナと蜩が鳴く音を幻聴する。蒸し暑い夏に太陽の下に放り出されたような。…心臓がうるさい、呼吸が短くなる、汗で視界が滲む。正常な思考が理性とともに溶かされるようだった。差し出された外道丸の手が、ひどく冷たく心地よいものに見える。違う、これは誘いだ。そんな都合の良い話があるわけない。

そう解っているのに、
解っているのに、

脳裏にチラつく同期の顔、恩師、…迎えられた優しくも残酷な世界。
日常の中でとくとくと生まれ続けた、虎杖悠仁のたったひとつの願いは、思うだけで罪となる。

だけど、だけど、だけれども
完璧な人間などいない、押し付けられた結末を望んで受け入れられるほど強くもない。

「たすけてくれ」

縋るようにしてようやく零れた言葉は、思っていたよりもずっと重かった。
外道丸は少し目を丸くした後、笑って虎杖の体を抱きしめた。

「任せろ」

長いようで短い夢の途中、虎杖は漸く息ができた気がした。

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