OTHER JUMP | ナノ

尾形百之助は巣立たない


くつくつと鍋が煮える音、台所に捨てられた肝の生臭い匂い。口を縫い付けられた彼のような祖父母、自分の背の幽霊と喋る母。囲んで食べるあんこう鍋は、喉をつるりと通り胃にたまる。まるで石でも食べているような心地だった。だけどこの時ばかり、何時も空を見て一言も紡がない母が少女のようにはにかむから____これが正しいのだと、腹にたまる鉛の数を数えながら鮟鱇を噛み切った。

「こーんにーちは」

夕暮れを背に現れた娘は、あどけなく笑う。
片田舎に戻っても尚、虫に食われた芸者の衣装を纏い紅を指し。とろりと甘い声で男の名を呼ぶ母を、気が触れたのだと噂した。村八分とは言わないが、この村で尾形の家に好き好んで近づく者はいない。だから、彼女は酷く異質な存在だった。

少し前に越してきた家の娘で、二つの脚で漸く歩き始めた年頃か。その瞳は好奇心が溢れかえっており、退屈に辟易しているのが一目でわかった。大人が持つ猟銃を抱えて、独りで宛もなくふらつく俺は、彼女にとってカッコウの獲物だった。「まちです」と半纏を掴むから、逃げることもできず「…百之助」と名乗る他なかった。

「ひゃくのすけおにいちゃんのおかあさん こんにちは」

するりと自分の横を通り過ぎ、土間に上がるまちの姿に身の毛がよだつ。制止の言葉が喉に張り付いて言葉にならない。恐ろしいとおもった、何を。いけないと思った、何が。”泣かれる”と思った、何で____?

ゆるりと、ついぞ俺の言葉に耳を貸さなかった母が、まちを見る。母の唇が動く「コウノスケさま」。ああ止めろ、止めてくれ。見たくない、聞きたくない、叫んでこの場から逃げ出したい。それなのに足は根を下ろしてしまったように固く、言う事ひとつきいてくれない。

「まちです、このまえこしてきたのです」
「コウノスケさまは、どこ」
「しらないひとです…」
「…そう」
「あのね ひゃくのすけおにいちゃんとあそびたいです、よいですか」

母は、こてんと幼子のように首を傾げる。
痩せこけた頬に乗せられた白粉がはがれて落ちた。理解しているのかも解らない頷きのあと、まちに興味が失せたようにゆらりとどこかに向かって歩き出す。それを許しとでも思ったのか、まちはとんと俺の方に飛びついてくる。

「あーそびましょー」
「 、 !」
「まあ、あせびっしょり」

言われて気づく。信じられないほど汗がこぼれていた、拭おうとするけど指先が震えて上手くできない。ぼとりと片手で握り締めていた鴨が落ちる。余程の力で掴んでいたらしい、手に血と羽根がこびりついて気持ち悪かった。

「きょうはかもごはん」
「っ、 あ、…別に、」

なればと撃ち落としてきたが、母が俺の言葉に耳を傾けることはなかった。今日もきっと祖父母が母のために鮟鱇をもらってくる。そうして何時もと同じように母は幽霊の名を呼んで、鍋を作る。この鴨は、腐るだけ。

___鴨が腐る様子を思い出して、頭が冷えてきた。戻ってきた呼吸を繰り返す。まるで冬の湖に突き落とされたように寒いのに、まちが触れている所だけが暖かい。風邪を引いた時のようにぼんやりとしていた、だからだろうか。そんな読迷い事を口にしたのは。

「…食べる、?」
「わーい」

「かも!」とまちが両手をあげて喜んだ。
…ああ、そうだ。喜んでいる。素直な娘だから、俺のように感情を偽るなんて所業できるはずもない。その笑みは、声は、偽りのないものだと確信がある。

(よろこんで、くれた)

俺の獲物を。

(うけいれた)

俺を。

ぶわりと感覚が広がった。生まれて初めて、世界を見た。土の感触、イグサの香り、鴨の羽ばたきと、日暮れの風。小さなまちの指先が、俺の手を握り締めて「こっちだよ」と家に案内してくれる。その向こうに極楽があるのだと言われても、今の俺は疑うことをしない。例えその先が地獄でも、まちが望むがままに歩いていくのだろう。

奇妙な感覚だ、こんなに足が軽いのはいつ以来だろう。
ずっとこの手に引かれていたいと、本気で願った。そうして生きていたいと、生まれて初めて望んだのだ。

俺はきっとこの日に、生まれ変わったのだ。






「________ン」

脈絡がなかったといえばウソになる。
きっと何かしら予感はあったのだ、いまそれを思い出せないだけで。

「…ン?」

明治時代だなここ、平成じゃないぞ。
どどどど、どういうことだ。ぼうとしていると、隣で湯につかっていたおばさんに「早く出な、湯あたりするよ」と急かされた。心ここにあらずで衣服を整えて、髪を乾かして。へ、ヘアドライヤーがない…だと。タオルもぺらぺらの布で、水分が吸われない、だと。

ぼーと湯屋を出る。家に帰らないと、いやでも。あれ、わたし茨城出身だっけ。街灯ないぞ、え、くらいくらい。明治くらい!

「オイ」
「ワー!」

後ろから肩ぽんされた。びっくりして振り返れば、彼も驚いたようで瞳孔がネコみたいにひゅんってなっていた。

「お、おにいちゃ…ん」
「その呼び方は止めろと何度言わせるつもりだ」
「そうだった、ごめんねおに… えっと、百之助さん」

「…ン」

満足そうにうなずいて、わたしの頬に張り付いた髪をさらってくれる。耳にかけて、厚い皮の親指が目元をなぞった。まるで大切なものに触れるみたいな仕草がくすぐったくて、「くすぐったい」と眼を瞑れば、「俺を待たせた罰だ」とくつくつ笑う声がきこえた。

「寒くないか」
「ん、百之助さん寒いでしょう わたしは身体暖かいから平気です」
「やかましい」

綿を詰めた外套をわたしに着せて、釦を止める。彼のサイズが大きくて動きづらい。もぞもしている間に冷たい手が忍び込んできた。それは器用にわたしの手を絡め捕って、つないで。

「帰るぞ、まち」

当たり前のように、同じ道を歩く。____そんな尾形百之助の後ろ姿に、わたしの心臓は焦燥のビートを刻む。

ヤバイ、この尾形百之助。ぜんぜん巣立ちそうにない。

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