カコン、とゆったりと一定のリズムで刻まれる温かい音。それが趙雲の意識を水面近くまで引き上げる。石に木か何かが当たるような、何処かで聞いたことがある音である。正確には木ではないと分かるのだが、ならば何なのかと訊かれるとわからない。常日頃から耳にするような音ではないような気がするのだ。
 再び音が控えめに響く。今度はゆるりと意識を沈めようとする。
 緩慢な動きで寝返りをうつと、頭を支えているやわらかな枕の感触が心地よい。本格的に二度寝を決め込もうとしたところでふと違和感を覚えた。
 まず枕。そもそも趙雲は枕を使わずに寝るタイプだ。百歩譲って使うとしてもこんな高そうな柔らかいものなど選ぶはずがない。そして趙雲が身を横たえている敷布団もおかしい。普段使っている布団は年季が入っているから一言で言うと薄っぺらい。布団の下の畳の感触が伝わってこないくらい柔らかいものなど、購入した覚えがなければこれから先購入予定もない。
 かこん、と再び温かな音。
 と、唐突に音の正体がわかった。木ではない。竹だ。一定のリズムを刻んでいるのは鹿威しだからだ。

「っ鹿威し!?」
 思わずがばりと跳ね起きた。飛ばされた毛布はやはり自分のものではない。というか趙雲が寝ていたここは自宅であるボロアパートではない。畳の色は緑であることを初めて知った。
 ではなくて。
 先ほどのまどろみはどこへやら、慌ただしく立ち上がるとぴっちりと閉めてある障子をたーんっと開け放つ。眼の前に広がるのは、テレビの向こうでしか見たことがないような日本庭園。視界の端でかこん、と竹の尻が石を打った。
「ここは、どこだ…?」
 こんな立派な庭を初めて見た、と現実逃避してみるも目の前の景色が変わるはずもなく。趙雲はぺたりとその場に座り込んでしまった。と、ここで初めて今自分が身に着けているものが着流しであることに気づく。言うまでもないことだが趙雲は着流しを持っていない。もうわけがわからない。
 混乱の極みに達している趙雲は、ただ美しい庭を眺めることしかできない。

「騒がしいと思ったら…。起きたなら顔を洗ってきたらどうだ」

 と、その時呆れたようなため息と、そのため息と同じ雰囲気をまとった声が聞こえてきて趙雲はぼんやりと庭に向けていた視線をそちらへ向けた。自分と同じように着流しを身に着けている男が歩いてくるところだった。
 金というよりも色素の薄い髪を目にした途端、趙雲の脳裏に昨夜の記憶が弾けるように蘇ってくる。
「その…すみません。おはようございます…」
「洗面所はそこの突き当りを左に行けば分かる」
 なんとか絞り出した趙雲にこの家に住む馬超はそれだけ伝えて背を向けた。


 そもそもの原因は趙雲が現時点でまだ住んでいるボロアパートである。床は軋む廊下の手すりは塗装がすべて剥れているそしてとうとう雨漏りが発生したらしい。台風に遭ったら真っ先に潰れそうなそのアパートは取り壊しが決定した。となると取り壊す前に新たな住処を探さなければならない。しかしなかなか条件が合わず、探し続けているうちにどんどん期日は迫っていく。
 そんな中、昨夜の帰りに出会ったのが彼だったというわけだ。
 説明すると長くなるうえに趙雲としては記憶の奥底に埋めておきたいことなので省くが、最終的にはおそらく酔ったところを彼に持ち帰ってもらったことになるのだろう。酔うまで飲んだのは初めてだ。
 のわりには特に二日酔いもなく、趙雲は出された味噌汁を啜る。かなり美味しい。というか自宅の朝食ではここまで品数があったことは未だかつてない。鮭の塩焼きにご飯に味噌汁に卵焼きにひじきの煮物その他もろもろ。なんだか箸をつけるのも申し訳なく感じてしまうくらいには豪勢であると趙雲は思う。
「食べないのか?もしかして嫌いなものがあるのか?好き嫌いは良くないぞ」
「嫌いなものはないです、けど……いいのですか?こんなにたくさん」
「何を今更…遠慮するな。腹に収めたほうが岱たちも喜ぶ」
「岱?」
「馬岱だ。俺の従弟で朝食を作った者のひとりだ」
 そう言って馬超は綺麗な仕草で卵焼きを食べる。食べるときだけでなく彼の仕草はいつでも綺麗だ。礼儀作法がきっちり身についているらしい。
 それからしばらくは無言で朝食に手を付ける時間だけが過ぎてゆく。今まで食べた中で一番美味しいと思う朝食をほとんど食べ進めたところで馬超が趙雲を呼ばった。
「あ、なんでしょうか」
「昨日、住むところを探していると言っていたな」
「ああ、私その話したんですね……。まあ、なかなか条件が合わなくて」
 仕事場に近くても家賃が高すぎたり、逆に家賃はよくても仕事場から遠かったりとこれという物件が見当たらない。引越しの準備のことを考えるとそろそろ時間に余裕が無いのだ。
「つまりまだ決まってないわけだな?」
「そうですけど……それがどうかしたんですか?」
 確かめるように問う馬超に趙雲が首をかしげてみせると馬超は箸を置いた。いつの間にか食べ終わっている。

「趙雲がよければここに住めばいい」
「……え?」

「昨日聞いた話ではここは仕事場から近いらしいしな。おまけに想像できると思うが部屋は余っている。消費もぐっと抑えられると思うが」
 父上からはすでに承諾をもらっている、と続けられて我に返った趙雲は慌てて首を横に振った。確かに部屋を探している。しかし起きてから過ごしている限りでは、この家は豪邸といえる規模だ。そんなところにお世話になるなどとんでもない。
 混乱しながらもその旨をなんとか伝えると馬超は「そんなことか」と笑った。
「まあ、確かに豪邸なのかもしれんが……、別に家賃ぼったくろうなどと考えているわけではないぞ?というか俺の友人だと言ったらそんなものいらんと父上も笑っていたしな。住み心地も悪く無いと思う。…というよりもう遅いかもしれんな」
「え、それはどういう……」
 きょとり、と首をかしげたところで今大丈夫かと声が割り込んできた。馬超が促すと障子が開いて一人の青年が入ってくる。
「若、伯父上からなんだけど今日は出なくても大丈夫だってさ。趙雲さんのこともあるだろうからって」
「そうか、助かる。父上にはお礼を言っておいてくれ。俺も後から行く」
「あ、はじめまして。俺は馬岱。若の従兄弟だよ」
 これからよろしくね、と手を差し出されて思わず素直にその手を握る。しかし手を放したところではっとした。
「あ、いえ、私はここでお世話にはならないので、」
 しかし馬岱はぽかんとして馬超の方を見る。
「あれ、若まだ言ってないの?」
「これから言うところだった。そこにお前が来たんだ」
「あらま。俺ってばいいタイミングで来ちゃったんだね」
「あの……」
 目の前でぽんぽん交わされる言葉に置いていかれそうになったところで再び馬岱の視線が趙雲に戻ってきた。そして一言。
「もう運び込んじゃったよ?」
「え、なにを」
「お前の荷物をだ。たったさっき全部運び終わったと言っていたな」
 馬超が馬岱の続きをなんでもないことのように言う。しかしそれは強力な一撃となって趙雲にぶち当たった。
 荷物、とはまさか。というか全部?
「明らかにゴミだとわかるものはまとめて捨てたがいらんものはわからないからな。電化製品も含めて空いている部屋にまとめておいたから分けておいてくれ。少しずつで構わない」
「え、え?」
「もう趙雲さんここに住むって決まっちゃったよぉ」
 伯父上が今夜はご馳走だって張り切ってたから楽しみにしててね、とのんびり続けられ、趙雲は手にしていた箸をぼろりと取り落とした。





 結局趙雲がここに住むということは最後まで覆らなかった。
 襖をすべて外した大広間に通され、人の波に歓迎され、馬超の父に不自由があれば遠慮せずにと言われてしまえば言い出せるわけがない。

 なぜここまで歓迎されているのだろうと恐ろしいまでに美味しい煮物を頬張っていると、若にはあんまり友達がいなかったからとこっそり馬岱が教えてくれた。あまり人を寄せ付けないタイプらしく、一族以外の人間とは付き合いが殆ど無いらしい。
「でも私達は昨日が初対面ですよ。あっさり拾ってもらいましたが」
「え、そうなの?珍しいねそりゃ。あ、でも昔からよく動物拾ってくるような人だから」
「私は犬猫と同じですか」
 一体何故馬超が趙雲のことを拾ったのかは拾われた本人にもよくわからない。気まぐれにしてはやけにこちらのことを気遣ってくれる。考え込んだ趙雲に馬岱はともかく、と酒を継ぎ足した。
「俺としてはすごく嬉しいよ!これからもよろしくね」
「ええ、まあ、よろしくお願いします」
 にこっと満面の笑みを浮かべた馬岱につられて趙雲も笑みを浮かべる。そして馬岱は誰かに呼ばれてそちらの方へと去っていった。残された趙雲はよく味の染み込んだ大根を口に運びながら大広間を見回す。
 はじめはそれぞれがきっちりと座っていたものの、ほどよく酒が入った今では最早無礼講である。きっとこれがここの常なのだろう。賑やかだが煩わしくない。
 最後の大根を腹に入れると箸を置いた。もうお腹がいっぱいだ。ふう、とひとつ息を吐くと、隣の空いている座布団に誰かが腰を掛けた。
「あ、馬超…さん」
「別に馬超でいい。昨日散々そう呼んでいたんだ、いまさらだろう」
「…そうなのですか」
「お前の素はばっちり見せてもらった」
「………」
 昨日の醜態をほとんど覚えていないから恐ろしい。思わず頭を抱えるとからからとした笑い声が聞こえてきた。
「明日仕事はあるのか?」
「普通に朝から」
 素を曝け出してしまっているならばわざわざ取り繕う必要もあるまい。拗ねたような心境でそれだけ答えると趙雲はグラスの酒を干した。それに馬超が眉を寄せる。
「お前、また醜態晒す気か」
「日本酒や焼酎ならいくらでも飲める。洋酒は体質的に駄目みたいだけども」
 現に趙雲は目の前で酔いつぶれている者たちよりはアルコールを入れている。それを告げると馬超はため息をついてほどほどにしろと言った。勿論趙雲もこれ以上飲むつもりはない。グラスを置くと立ち上がった。
「すまないがそろそろ私は失礼させてもらうよ。部屋はあの部屋で大丈夫か?」
「いや、別に用意してある。あそこではいろいろと不便だしな」
 案内する、と立ち上がった馬超に趙雲は礼を述べると、馬超の父にも改めて礼を述べた。ゆっくり休むといい、という言葉に軽く頭を下げると大広間を馬超と二人で出る。賑やかな大広間から一転、しんとした空気が二人を包んだ。
「こっちだ」
 歩いてゆく彼の後ろを無言でついていく。板張りの廊下が素足に心地よい。
 しばらくその感触を楽しんでいた趙雲であったが、ふと脳内に先ほど馬岱と交わした会話が蘇ってきた。

 珍しいと、馬岱は言った。彼が自ら誰かと関わろうとすることが珍しいことだと。
 彼と初対面であることは間違いない。
 始まりは単純で趙雲が居酒屋から出てぼんやりし歩いていたら、彼の背中に追突したのである。驚いて振り返った彼に頭を下げて、その時の彼の顔を見て思わずお詫びに1軒どうですかと誘っていた。
   素面だったならば決してしないだろう誘いに何故か彼はあっさりと承諾し、共に店に入って飲み始めたのだがそこからは記憶が無い。飲み過ぎて潰れた趙雲を馬超がここまで運んできてくれたのだろう。
 やはり何故馬超が自分をここに持ち帰ってきたのか、というより何故あそこで承諾したのかさっぱりわからない。
 ひっそりと静まり返る庭に視線をとばしながら歩いていたが、とうとう趙雲は目の前の彼に声をかけた。
「ひとつ聞きたいことがあるのだが」
「ん?」
「馬超は何故私を連れ帰ったのだ?面倒なだけだろう」
 勿論ありがたいと思っているが、と続ける。しかし馬超は黙ったままだ。まさかこれだけ静かなところで聞こえなかったはあるまい。
 それでも黙って馬超の答えを待っていると、ようやく彼は口を開いた。
「お前が……、」
「…私が?」
 躊躇うように、言葉を探すように再び黙りこむ。
 と、そこで馬超が立ち止まった。突然のことに一歩分彼のことを追い抜かしてしまう。どうしたのだ、と馬超を振り返ると彼は襖を開けた。
「ここがお前の部屋だ。昼間荷物の部屋を案内した時に教えておけばよかったな。隣が荷物の部屋だ」
「あの、」
 馬超は中に入って電気をつけると隣の部屋との間の襖を開けてみせる。確かにそこは昼間案内された部屋だった。ありがたいのだが聞きたいのはそれではない。
「馬超、」
 言葉を続けようとして、しかし言おうとした言葉は出てこなかった。
振り返った馬超の浮かべた表情は記憶の中で一番綺麗だといえるものだった。
「お前のことを気に入ったからだ」
 言葉を失う趙雲におやすみと告げるとそのまま部屋から出て行く。
 姿が見えなくなっても趙雲はしばらくそこから動くことができなかった。



「何故、か……」
 未だに喧騒が収まっていないであろう大広間へ戻らず、自室のある方へ足を向けながら馬超はぽつりと呟く。
 自分もまさか拾ってくるとは思わなかったのだ。そもそも一緒に飲むことになることすら予想外である。しかし、あの目が。
 どうですか、とこちらの目を覗き込む彼のあの目があまりにも柔らかく、そして馬超の心の奥にある何かを刺激するものだったから。だから気づいたら承諾していたのだ。
 それともうひとつ。しかし忘れているようなので教えてやらない。知りたいならば自分で思い出せばいいのだ。

 歩きながら馬超は思わずくつくつと笑みをこぼしていた。







お坊ちゃん馬超のおうちは大家族みたいな感じだと信じている。極道とかじゃ、ない、ですよ…

2013/7/13