暖かくも寒くもない場所。その足元、地面のずっとずっと下には生きた人々が暮らす世界がある。もう自分たちには関係のない世界、現世だ。
 現世の上の世界、そこの静かな森の中には底があるのかわからないような、不思議な湖があった。
 その湖のぎりぎりのところで胡座をかき、中を覗き込んでいる2人がいる。しばらくこれ以上ないほどに真面目な顔で二人は覗き込んでいたが、唐突に二人同時に顔を上げた。
「来たな」
「ああ、迎えにゆこうか」
 生前見せることはなかった穏やかな優しい笑みで男が一言こぼせば、生前から変わらない穏やかな笑みで隣の男が頷く。
 湖にはひとつの光景が浮かんでいた。それは、ふたりの柔らかい笑みには似つかわしくない凄惨な光景だ。
 人間だった肉塊の山と夥しい量の血痕。ここまで臭いが届いていたならば、思わず顔を顰めてしまうような血臭で満たされていたに違いない。そんな光景を目にしていたのにもかかわらず、二人の男は笑みを浮かべていた。
 二人はすっと立ち上がると湖に背を向ける。そしてそのまま歩き出した。





―――――
 その瞬間には、後悔と悔しさと悲しさと憎悪、それらの感情すべてを坩堝の中に叩き込んだような絶望だけが残っていた。
 振り上げられた刃が自分に食い込むまで、その脳裏には先人たちの笑みが浮かんでいた。自分でも何をこぼそうとしたのかわからず口を開いた途端、ばつんと視界が途切れる。

 そして木々に囲まれた静かな空間にぽつんと立っていると気づいた瞬間に、自分が死んだのだと理解した。
 震える手に視線を落とすと、己と敵兵の血で染まっていたはずなのに綺麗になっていた。体のどこにも傷みが走らないことから傷も残らず消えているとわかる。
 手から視線を引き剥がした姜維はふらふらとひときわ大きな木の前に移動した。背を預けると、途端に体中の力がどろりと溶かされてしまったかのように力が抜け、ずるずるとしゃがみ込む。とす、と尻が地面についてから膝を抱えてそこに顔を埋めた。

 いつでも不遜な笑みを浮かべていた男から、未来を託された。
 その隣に立っていた穏やかな男から、成し得なかった仁の世を成し遂げてくれと託された。
 彼らが、先人が、ついぞ見ることができなかった世を託されて進んできたはずだった。それだけが自分の生きる原動力であり、理由だった。
 しかし結局はこの有様だ。
 そこへ辿り着く前に自分はここに来てしまった。

 ぎゅっと力を入れた右手の爪が左手の甲に食い込む。噛み締めた奥歯が耳障りな音を立てる。自分に対する激しい憎悪が姜維をこれ以上なく責め立てていた。
 このまま消えてしまえばいい、と考えたそのとき、ふと懐かしい気配が近づいてくるのを感じて姜維の息は止まってしまった。
 どこにいても誰よりも存在感があった彼の気配。それを間違うはずもない。全神経をそちらに向けて様子を探る。その気配は離れたところでしばらく静止していたが、やがて早足に離れていった。それに詰めていた息を吐きだしたが、すぐに今度は二つの懐かしい気配が迷いなく近づいてきた。
 どくり、と一度大きく脈打ったように感じる。さくさくと草を踏んで近づいてきた二人分の足は姜維のすぐ前で止まった。
 一拍の空白。先に動いたのはもちろん相手だった。
「おい、姜維」
 すっとしゃがんだ気配が生前聞いたことがないような、優しい声で己を呼ぶ。ざっくりと心を斬りつけられたような錯覚。心のなかでただ謝罪を繰り返し、黙って首を振った。
「姜維、どうかしたのか?」
 こちらは昔から変わらない声。同じようにしゃがんだ彼は心配するようにそう尋ねるが、それにも姜維は首を振った。
 答える言葉など持っていなかったし、答える資格すらなかった。
 彼らとの約束をなにひとつ守れぬままここに来た。言い訳すらも許されるわけがない。許されてはいけない。
 ますます右手に力がこもり、鋭い痛みが走る。皮膚が破れたのだろうか。かまうものか。もっと痛めばいい。これくらいの痛みなど罰にすらならない。
 ますます力を込めて左手の甲に爪をたてていく。が、それを咎めるようにそっと覆いかぶせるように手が重ねられた。自分と同じくらいの温度のそれは、きゅっと姜維の右手を包むと指の腹でゆっくりと甲を撫でる。そしてそのまま姜維の隣に腰を掛けた。反対側にも同じく、姜維を挟むようにくっついて座る。
「私達に会えて、嬉しくない?」
「……、そうでは、ないのです。そんなわけない、嬉しくないわけがない…」
 そっと、尋ねる声に首を振る。寂しさと悲しさをほんの一滴ずつ混ぜたような苦笑を含んだ声に、思わず姜維は答えていた。そして一度せきを切ったら、姜維の意思などに関係なく流れるように言葉は溢れてくる。
「私は、私は……皆さんに託されたことを、何一つ実現することができないまま、この場所へ来てしまいました。仁の世も、蜀の未来も、すべて、すべてすべてすべて……っ」

「みっ…皆さん、に、合わせ、る顔が、ありません……っ!」
 最後はぐすぐすに湿ってつっかえて、はっきりとした言葉にならなかった。

 全く進むことができなかった。皆の分まで自分が前に進むとそう誓ったのに。約束したのに。
 より一層膝を胸に引き寄せて小さくなる。ごめんなさいと息だけで呟いた。
 しかしそんな姜維の頭が突然熱に柔らかく包まれた。左手に重ねられた手よりも温度が高い。心臓の音はどれほど探してもなくて、ああ、死んでいるんだなと場違いに思った。
「大丈夫だ。俺達はお前が託されたものを実現させようと、どれだけ死力を尽くしてきたかを知っている。先人たちの言葉を抱え、ただひたすら進もうとしてきたことを知っている」
 ゆっくりゆっくりとあたたかな言葉が響いてくる。まるで子どもに言い聞かせるような、優しい声。
 その言葉は姜維が心の奥底から一番欲していた言葉だった。
 姜維がやってきたことにいい顔をしない人間のほうが多かった。憎悪の言葉を吐かれたことさえあった。しかし、それでもやめることなどできなかった。それは姜維という存在が消失してしまうことと同義だった。
 どれだけ頑張っても、決して貰うことのできなかった言葉。ひくっと喉が痙攣したような音を漏らす。ぐっと奥歯を噛み締めた。

「だからもういいんだ姜維。お疲れ様。ありがとう」

 しかし、そのどこまでも穏やかな声が最後のせきをぶった切った。
 膝から勢いよく顔を引き剥がし、驚く男に構うことなく今まで姜維の頭を受け止めていたその胸に自ら顔を押し付ける。
 ぼろぼろと溢れる涙は止まることを知らない。彼の着物が濡れるのもかまわずに、姜維は声を上げて泣いた。
 すべてをゆるされた気がした。ここにたどり着くまでに背負ってきた数えきれないその罪を、すべてゆるされた気がしたのだった。姜維を胸に抱くその腕に、姜維の頭を何度も撫でるその手に。
 この人達が自分に託した夢を実現できなかったことがどうしようも哀しく、そして悔しかった。
 しかしもう己に対する憎悪は綺麗さっぱり消え失せていた。


「もう少ししたら皆のところに行こう。心配していたぞ」
「孔明殿なんか見ているこちらが声をかけるのを躊躇うほど落ち込んでいたから」
「姿を見せてやるといい。安心するだろうからな。ま、死人だから安心も何もないかもしれんが」
 あたたかな言葉は姜維の中にしつこく残っていた負の感情を残らず溶かしていく。しゃっくりを上げながら、彼の着物をぎゅっと掴む。
 なんとか涙を止めようとしている姜維に気づいたのだろうか。だが、と胸に押し付けられる力が少しだけ強くなった。
「今は我慢せずに全て吐き出しておけ。俺達はずっとお前のそばにいる」
 その言葉に新たな涙が溢れてきた。
 それは先程までのかなしさやくやしさが滲んだそれではなかった。

 嬉しい涙だった。




姜維が出てる無双は6しかやってないのですが、晋のストーリーでの姜維が見ているこちらがつらくなるほど真っ直ぐで、救いが欲しかったので。
このあと丞相にお疲れ様とありがとうを言われて再び大号泣

2013/6/10