いつものように諸葛亮の室に入ってきた姜維が感じたのは違和感であった。
 おはようございます、と声をかければ、うず高く積まれた書簡の向こうから同じくおはようございます、と返ってくる。なんらおかしいことはない、はずである。
「来て早々申し訳ありませんがあそこの書簡を書庫へお願いします。ああ、今なら馬超殿が室におられるでしょうからそこの書簡もお願い出来ますか」
「わかりました」
 やはり何かが引っかかる。が、何がと訊かれるとわからない。
 首を傾げながらも机の上の書簡たちと、積まれていたものが落ちてしまったのであろう1つを手にして入ったばかりの室を後にした。

 中身を確認しては棚に入れる、という作業をこなしながらもぐるぐると考える。
 先ほどのあの違和感の正体は一体なんだったのであろうか。室の中は特におかしいところはなかった。部屋の主が忙しいのはいつものことであるし、書簡で溢れかえっているあの光景も普段と何ら変わりない。
 しかしやはり何かが違う、ような気がするのだ。
 最後の書簡を正しい位置に収めると馬超に届けるための1つを手に取る。
 そこでふと気がついた。
 そういえば書簡が床に落ちたままになっていたのは初めてではないだろうか。諸葛亮は机の上や棚の中やら上やらに積み上げはするものの、床においたりはしない。あれだけの量があれば落ちることはある。が、落ちたらすぐに拾う人だ。
それをそのままにしているとは。
 首を傾げつつ、それでも言われたことを先に済ませてしまおうと書庫を出ると、目的の人物にばったりと遭遇した。
「馬超殿、ちょうどよかった」
「ん?姜維か。俺に何か用があるのか?」
 足を止めた馬超に、手にしていた書簡を丞相からですと差し出す。
「軍師殿から?特に何も言われていなかったはずだが。なにか言っておられたか?」
「いえ、特には……」
 馬超は書簡を見つめながら首を捻るが姜維だってわからない。
 二人でぼんやりと立ち尽くしていたが、おもむろに馬超が書簡の紐を解きはじめた。からら、と静かな音をたてて開くと中を確認する。
 そして吹き出した。
「馬超殿?」
「くくっ……すまんすまん。そうか、とうとうやったのかあいつは」
 込み上げてくるものをこらえつつ、ひとり何かに納得しているようであるが、姜維にはさっぱり意味はわからない。
 一体何なのだと問おうしたが、馬超が先に口を開いた。
「姜維、これは軍師殿が俺に寄越したのか?」
「え?ええ、そうですけど」
 さっきそう言っただろう。
 そんな言葉を視線に押し込めて馬超を見つめると、ようやく落ち着いた馬超が手にしていた書簡を差し出してきた。中を見ろということらしい。
 渡したばかりのそれをそっと受け取り、中身に目をやる。
「えっ!?」
 思わず漏れた声に馬超が再び吹き出した。
 かっちりとした手本のような文字が並んでいるかと思ったそこには、お世辞にも綺麗とは言い難い文字が並んでいた。勿論諸葛亮の筆跡ではない。
「え!?私渡す書簡を間違えて…!?」
「いや、これで合っている」
 あわあわとしている姜維の手から書簡を取り上げた馬超は、にやりと笑って歩き出す。ついてこいと言いたいのだろう。
 混乱しているうちにも馬超はどんどん歩いて行ってしまう。姜維に残された選択肢は大人しくついてゆくことだけであった。

 前をゆく馬超が足を止めたのは先程姜維が出てきた、そして戻る予定だった場所である。
「あの…?」
「いつも通り中に入れ」
 馬超を見つめるも彼は理由も何も述べず、ただそれだけを言う。
 訊いたところで教えてはくれまい。
 姜維はため息をつくと扉に手をかけた。
「只今戻りました」
「ありがとうございました姜維」
 開けて入る前に一言。それに対して柔らかい声が返ってくる。
 一体何がこんなにも引っかかるのだ、と再び考えこみそうになったその時、姜維のすぐ後ろで空気が震える気配がした。
「馬超殿?」
「くくっ……駄目だ、くっはははっ」
 とりあえず、と馬超を中に押し込んで扉を閉めたのと同時に馬超の限界がきたようだった。傍の棚に片手をつき、もう片方の手を腹に持ってきた体勢でなおも肩を震わせる。
 何なのだと馬超を凝視していると今度はがたたっと諸葛亮の机の方から大きな音が聞こえてきた。

「ばっ何しにきた!!!」
 ぎょっとして振り返った。
 そこにいたのは敬愛する師ではなかった。

「趙雲殿!?」
 ひいひい言い始めた馬超を睨みつける彼の名を叫ぶとしまった、とでもいうかのような表情で姜維へと視線が向けられたのだった。


「つまり、丞相は体調を崩されてその替え玉で趙雲殿が、ということですか」
「普段から働き過ぎなお方だから素直にそう言えば余分に休めと言われるとでも思ったのだろう。幸いそこまで酷くないから今日ゆっくり休めば明日には、」
「失礼します。書簡を届けに参りました」
「ありがとうございます。姜維」
 趙雲が気まずそうに説明をしていると扉を叩く音。趙雲はすぐさま口をつむぐと少し声色を変える。傍の机を陣取っている馬超が肩を震わせて顔を伏せた。
 趙雲の説明をまとめると諸葛亮が体調を崩したため、趙雲が替え玉として彼の代わりになった、ということだった。常に過労気味である諸葛亮が体調を崩したとなれば、大事を取って数日間休みなさい、なんてこともないとはいえない。捌いても捌いてもすることは山積みであるのに何日も休んでしまっては様々なところが滞ってしまう、と危惧したために苦肉の策をとったらしかった。
 ちなみに発案者は机に突っ伏している彼である。以前宴の席で声が似ているから姿さえ見なければわからないのではないか、と言ったことが今回の発端であった。

「もう馬超殿は帰れ」
「断る」
 分かる範囲で書簡を捌く趙雲がげんなりとしながら机に声を投げかけるが、すぐさま投げ返される。もう片手からはみ出るくらいには繰り返されたやり取りである。
「話は大方わかりました。にしてもこの字は趙雲殿だったのですね……」
 馬超に届けた書簡をまじまじと眺めながらこぼすと趙雲の耳に朱が差す。
 先ほど姜維が馬超へ届けた書簡は、自分の代わりに調練を頼むといった内容が書かれたものだった。
「いや、いつもは注意して書いているからそこまでは…。その、馬超殿はどうせ知っているし……」
「こいつの走り書きは読めたものじゃないからな」
「うるさい余計なことを言わなくていい。ちょっと字が綺麗なくらいで、」
「軍師殿に字は綺麗だとお褒めの言葉を頂いたが?」
 今日は変な発見ばかりしているような気がする。諸葛亮と趙雲の声が思った以上にそっくりだったり、趙雲の書く字が恐ろしく汚かったり。

「失礼します、書簡を――」
 とりあえず明日、このことを丞相に報告してみようかな、と考えながら書簡を受け取った。



諸葛亮と趙雲の声が一緒だからっていうネタでした。多分趙雲はしばらく馬超にからかい倒される。

2013/5/23