机仕事の息抜きに、と中庭に面した人通りの少ない道を馬超はぶらりと歩いていた。長い時間文字と向き合っていた目はじわじわと疲労を訴えてきている。それを揉みほぐしながら中庭へと足を向けた馬超であったが、目に飛び込んできたその光景に、目の疲れも忘れてぽかんと口を開けて立ち尽くしてしまった。 静かな中庭。そこにある大きな木の前で劉備の子、阿斗がぼんやりと上を見上げている。周囲には誰もいなかった。 「阿斗様!」 「?ばちょうか」 しばし固まって阿斗を見つめていた馬超であったが、すぐ我に返ると阿斗の方へと早足に歩く。 馬超の声で視線を移した阿斗はのほほんと笑いながらとてとてと近づいてきた。 「なぜお一人でこのようなところに」 「てんきがいい。はっぱのあいだからみえるそらがきらきらしてる」 焦る馬超をよそに阿斗は馬超へと手を伸ばす。 なんでここに、とか他のものは何処にいるのか、とか訊きたいことはあったが、態度で抱っこをせがむ阿斗にそれらをすべて放棄した。自分がいれば護衛に関しては問題ないであろうし、何より誰かすぐに探しに来るだろう。ならばここでじっとしている方がいいかもしれない。 馬超は一言ことわりを入れてから阿斗をよいせ、と抱き上げた。 子供らしい体温と重み。それは無条件の安心と、いつまでも治らぬじくじくとした火傷のような痛みをはこんでくる。おもわず阿斗をぎゅっと抱き込んでしまった。 最後に抱いたのはどれくらいの時だったか、何を感じたのか。それはもう覚えていない。記憶は確かに過去へと変わったが、 傷が消えることはないだろう。 そうしてそのままどれほどの時間立ち尽くしていただろうか。不意にふわりと左右の頬に己より高い温度を感じて馬超は阿斗に視線を合わせた。阿斗はその透明な目を真っ直ぐに馬超へと向けていた。 「どこかいたいところがあるのか?なんだかいたいことをがまんしてるかおだ」 「え、」 「どこがいたいのだ?はらか、それともあたまか?いたいところに手をあてるといたくなくなるとちちうえがおしえてくれたのだ」 そして、そう言うとその幼い手がとどく範囲の箇所をあちこち触っては撫でてゆく。 温度の高い、自分とは違う柔らかな手。 馬超は何も言うことができなかった。阿斗を落とさぬようしっかりと支えることしかできなかった。しかしそんな馬超をお構いなしに阿斗はどこが痛いのかと重ねて問うてくる。 痛いところ、どこだろうか。このぬくもりを抱き上げた時、何処が痛かったか? 「……胸、でしょうか」 どうにもならないことを諦めるとき、大切なものが手からこぼれていくとき。程度や感覚は違えど、痛むのはいつも同じところだった。 小さな手がそっと馬超の胸に置かれる。 とくりとくりと脈打つところ。心臓の真上。 「ばちょうのいたみ、なくなるといい」 柔らかな声が阿斗の掌を通してじわりと染みてくる。 言葉では言い表せないが決して不快なものではない。そんなこと今までありえなかった。感じたことがなかった。 傷は消えなくても癒えていくものなのかもしれぬ。 その言葉がすとんと自分の中に収まるのを感じながら馬超は阿斗に礼を言ったのだった。 顔色が悪いですよ、休憩なさった方がよろしいかと思います。 姜維に心配されて一度は筆を置いたものの、手持ち無沙汰になって無意識に筆を手にしたら彼に室から放り出されてしまった。曰く「風にあたってきたらどうでしょうか?」 言葉は丁寧であったが、常にはない抗いがたい何かを感じて大人しくこうして外に出てきたというわけだ。 羽扇を手にゆるりと回廊を歩く。宛もなく歩いていたのだが、どうやら自分は中庭の方へと向かっているらしい。 あの辺りはひと通りが少なく、いつでも静かな空気で満ちている。休憩するにはこれ以上無いほど良い条件だ。行き先はそのままゆっくりと歩き続ける。 やがて中庭が近づいてきたところで、ふと人の気配を感じて諸葛亮は足を止めた。どうやら中庭に誰かいるようである。嬉しそうに笑う声。これには諸葛亮も覚えがあった。誰かが阿斗をここに連れてきているらしい。 それにしても阿斗があんなに声を上げて喜んでいるのも珍しいことである。わりあい静かな性格であるから、声をあげて笑う姿をあまり見たことはない。柔らかく微笑んでいることが常である。 一体何があそこまで歳相応な笑いを引き出したのかと諸葛亮は止めた足を再び動かしたのだが。 からん、と足元で軽い音。それは手にしていた羽扇が床にあたった音であった。 「おお、軍師殿か」 「しょかつりょう!」 そんな諸葛亮に暢気に声をかける馬超。そしてその肩にまたがっているのはたった今諸葛亮の名を呼んだ阿斗であった。周りには二人の他は誰もいない。この現状に諸葛亮は驚愕するもすぐに我に返ると二人に近づいた。 「他に誰もいないのですか?」 「ああ、俺がここを通った時すでに阿斗様はお一人でおられた。なぜお一人だったのかは俺にもわからぬ」 「なっ…」 彼の言葉に声も出ない。ということは馬超が来るまでの間、どれくらいであったかはわからないが、ここで一人ぽつんといたことになる。もしものことがあったらどうするつもりであろうか。 世話係には後できっちりと灸を据えることを決めてからようやく諸葛亮はしげしげと馬超を見た。 嬉しそうな阿斗を肩車する馬超の雰囲気は危なげない。それどこか手馴れているとすら感じる。諸葛亮が勝手に抱いている印象としては、子どもの相手が苦手そうだったので少し意外であった。 そんな諸葛亮の視線に馬超は気づいたらしかった。ああ、と肩の阿斗の方へと視線をやるとひょい、と軽々その体を持ち上げて腕に抱く。やはりその動作も危なげなかった。 「妻子がいたことは軍師殿もご存知だろう?」 「子どもがいてもその相手が苦手な父親はいると思いますよ」 「道理だな」 落ち着いた諸葛亮の返事に馬超はなんでもないようにいらえる。その声は驚くほど柔らかい。ぎゅっと阿斗を腕に抱く馬超の表情はその声と同じであった。 阿斗を通してもう遠くなってしまった過去を見ているのだろうか。妻がいて子どもがいた、そんな西涼での暮らしを。 諸葛亮にしては珍しくそんなことをつらつらと考えていたせいで、次に起きたことに反応が遅れてしまった。 「っ!?」 「しっかりと支えないと落ちてしまわれるぞ」 「え、あの、ちょ、」 「なかなかめずらしい表情をしているな」 ほら手を、と言われ阿斗様を落としてしまっては大変だと咄嗟に手を出して阿斗の体を支える。しかし馬超と違って子どもを抱く経験など皆無に等しかった諸葛亮の雰囲気は少し危なっかしい。阿斗の手も諸葛亮の首にしっかりと回されている。 支える手はこうで、こっちの手はここで、と細々教えてもらい、ようやく阿斗の手から力が抜けた。それでも馬超と比べるとやはりぎこちないものであったが。 「軍師殿はなんでもできる印象が強いからな。なかなか見れない光景じゃないか?」 からからと笑う馬超をじとり、と睨みつけるがもちろんそんなものが馬超にきくはずもなく。 「しょかつりょうもあったかいな」 とりあえず今回は阿斗様に免じて許してやりますけど、と心の中で吐き出した。 書簡片手にふらりと回廊を歩く。これを提出するために諸葛亮の部屋を訪ねていたが、そこには姜維しかいなかった。逆ならばそれなりに目にする機会があるが、これは珍しかった。 訊いたことを一言で言うならば放り出したとの事だった。またいつものように根を詰め過ぎたのだろう。 そういえば遅いですねぇとこぼす姜維に、ならばこれを手渡すついでに探してこようと笑いかけて部屋を出た。が、そもそも諸葛亮の行動範囲は書庫と彼の部屋の往復だけなので探す宛がない。真っ先に書庫へと足を運んだがそこに彼の姿はなかった。 さて、どこにいらっしゃるやら。 口の中だけでこぼしながらあてもなくあちこち歩きまわる。そして中庭に面した回廊に差し掛かろうとしたところでふと人の気配を感じた。もしや、と足を速めると予想通りそこには諸葛亮が立っていた。 しかしさすがに馬超と阿斗がいるとは思いもよらなかった。 「阿、斗様…?」 しかも諸葛亮の腕の中にいる姿は初めてみた。 「ちょううん!」 諸葛亮の腕の中でこちらに手を伸ばす阿斗をごく自然な動作で諸葛亮から受け取ると、馬超が趙雲の手から書簡を取り上げる。それにお礼を言ってから阿斗を抱き直した。その仕草は独身だとは思えないほどに手馴れている。 と、その様子を見ていた馬超がいきなり笑い出す。諸葛亮はといえば馬超の笑みの意味を正確に理解したらしくあさっての方に顔をそらした。 「あの、どうかしましたか…?」 「いや、貴殿は妻を娶ったことはないだろう?」 「何を言うかと思えば…。そんなこと馬超殿もよくご存知でしょう」 そしてこの唐突な質問である。縁談が来ては断る趙雲はある意味有名で、馬超がそれを知らないはずもない。なのに何故わざわざ訊いてくるのか。 抱きついてくる阿斗が落ちないようにと背中に手を添えるとまた馬超は笑う。趙雲は思わず眉間に皺を寄せた。 なんなのだ、と無言で伝える。 「貴方があまりにも子どもの扱いに慣れていることを言っているのですよ」 正解を口にしたのは諸葛亮の方だった。 趙雲はぽかんとして二人に目をやっていたが、馬超の先ほどの質問と諸葛亮の言葉がしっかりとつながるとああ、と納得した。 「子どもを持ったことがない私が、ということですか…」 趙雲は阿斗がまだ言葉を話すこともできない頃から何かと世話をしていた。こうして抱いたことも数えきれない。それを考えるとここまで慣れていることも当然だといえる。 「長坂の英雄の特技が子守だと考えるとどうにもおかしくてな」 「別にいいではありませんか。得意で困ることもないでしょう」 「子どもができたとき慌てずに済むな。というより妻よりも慣れてそうだな貴殿は」 むすっと言い返せばニヤリと返される。おもしろくない。 「将来母上と呼ばれたりしてな」 「なっ!」 挙げ句の果てにはこんなことを言い始める始末である。諸葛亮も何も言わないあたり似たようなことを考えているのかもしれない。失礼な話だ。 さすがにかちんときて馬超に詰め寄った趙雲だったが、たしかにという声に口をつぐんだ。 「いわれてみればちょううんはははうえのようだな」 「阿斗様……」 うんうん、と納得するように頷いて趙雲に笑いかける阿斗。それを聞いてほらみろと言わんばかりの笑みを浮かべる馬超に顔を逸らしたまま肩を震わせる諸葛亮。 三対一。味方はいない。 趙雲にできることはがっくりと肩を落とすことだけであった。 趙雲が子守将軍なのは周知の事実だけど馬超も子どもいたし慣れてるかもしれないよねってところから。 丞相は慣れてなさそうだけど接し方はちゃんとわかってるってイメージ。 2013/3/22 |