諸葛亮からのちょっとしたお使いで姜維は街へと訪れていた。
 この時期の成都は暑さが厳しい。気温よりもその敵は湿度である。息も詰まるような湿気ではろくに汗をかくこともできないから辛いものを食べるのだ、と聞いたことがある。
 今日もむしむしとした暑さであるが、街はその煩わしさを吹き飛ばすほどの活気に満ちていた。
 相変わらず人で溢れていて、あちこちから威勢のよい声が聞こえてくる。他にも取り留めもない会話や、笑い声などに満ちていて、その中にいるだけで自然と足取りが軽くなる。もしかしたら姜維の師はここ数日、ずっと机と向かい合っていた己に気を使ってくれたのかもしれない。よく考えてみれば、この役目もわざわざ姜維が来なくても済むような、本当に簡単なものだった。現にその用事はすでに済ませており、あとは諸葛亮の元へ帰るだけである。

 何かささやかなものを土産に買って帰ろう、と心に決める。
 姜維以上に諸葛亮は机に向かっている人だ。常に過労気味だと言ったほうが早いか。そんな師に何か、心が軽くなるような物を贈りたい。自分が雑踏の中で張り詰めていた気が緩んだように。
 そうなれば何にしようかと考える。ゆるりと歩きながら店を眺め、気になったところでは足を止める。それは食べ物を扱う店だったり、雑貨を扱う店だったりとさまざまである。
 ある程度見て回り、最終的には何か食べるものを買って帰ることにした。諸葛亮はさり気なく気を使ってくれたのだから、自分もさり気なくおまけに買ってきたふうを装うのがいいと思ったのである。
 そうと決まればあとは早い。果物を扱っている店に近づくと何がいいか見て回る。特になにか、と決めていたわけでもなかったので今が美味しい時期であると勧められた水蜜桃に決めた。一つ手に取ると、店の主は二つほどおまけしてくれた。若いのだからもっと食べろ、だそうである。それに礼をすると、ぜひご贔屓にと返ってきた。こういうのを商売上手というのであろうか。
 笑って店を離れると、あとはどうしようかと考える。おまけに肉まんも買って帰ろうか。
 先程から漂っている良い匂いが実は気になって仕方がなかったのだ。自然と足がそちらに動いてゆく。
 買おう、と決めたちょうどその時、よく知った声が耳を掠めて姜維は足を止めた。
 この人混みの中なのでしっかりとは聞き取れなかったが、あの声は間違いない。趙雲と馬超である。さすがに内容までは聞き取れなかったが確かにあの二人であった。

 たしか二人は休日だったはずだ。姜維は首を傾げた。不思議な組み合わせのような気がする。しかし、すぐにそれは馬超が一緒にいる相手はほとんどが馬岱であるからだと気づいた。
 趙雲は普段の様子からも誰と一緒にいてもおかしくないのだが、馬超はあまり誰かと共にいるということをしない。一人か、もしくは馬岱とかの二択である。そんな彼が趙雲と一緒にいることが珍しい。
 休日に二人で出かけるくらいには仲が良かったのか、あるいはたまたまばったり会ったのか。
 少し気にはなったのだが、せっかくの休日に声をかけるのは如何なものか。しかしせっかく見かけたのだから声だけかけていこうと姜維は声のする方に足を進める。
 人混みをかき分けていくにつれて趙雲の長髪と馬超の短髪が見えてくる。普段着を纏った二人が立っているのは雑貨屋であった。なにやら品を見ながら会話しているらしい。店の主人は別の客と話し込んでいた。
 こちらに背を向けて話し込んでいる二人は姜維に気づかない。いつもならばすぐに気配を感じて振り返る二人である。珍しいな、と思いながらも二人の背後に立ち、声をかけようとしたまさにその時だった。


「うるさい馬超死んじまえ」
 ぼそっとこぼされた言葉に姜維はびしりと硬直した。
 今のは誰が言った言葉だ。誰の口からこぼれ出た言葉だ。
 勿論誰かはわかっている。この至近距離で間違えるはずもない。それを受け止められないほどには驚愕したのである。

 姜維の知る趙雲といえば普段は穏やかに笑っている事が多い。上にも下にも礼儀正しく、誠実で信頼も厚い人物、それが姜維を含めて皆が趙雲に抱いている印象だ。
 それが、その彼がだ。その彼の口から死んじまえ、だなんて。

 何も言うことができず、目を見開いて突っ立っている姜維に先に気づいたのは馬超だった。
 ん、と首をかしげてくるりと振り返り、姜維の姿を認めるとおお、と軽い調子で声をかけてきた。それに続いて振り返った趙雲は、姜維の表情を見るなりうげ、といかにもやばいという表情を浮かべる。勿論こんな表情も見たことはない。通常の趙雲を予想するに、困ったように眉を下げるはずだ。
 初めて見る趙雲に姜維が完全に固まっていると、趙雲と姜維を交互に見た馬超が姜維の混乱を把握したらしい。趙雲を親指で指した。
「こいつ、実は喧嘩っ早いわ我が儘で我を通してくるわでどうしようもない男だぞ」
「え、」
「余計なこと言うな」
 ベチン、と馬超の頭を叩く趙雲はしかし否定はしなかった。つまり、そういうことらしい。
 温厚で通っている趙雲が。謙虚と言われている趙雲が。にわかには信じられない話である。
 ぽかんとする姜維の前で二人はじゃれあいのような会話を続けている。その趙雲の言葉もやはり普段の丁寧からはかけ離れてしまっていた。

 しかしこのまま二人のやり取りを眺めているわけにもいくまい。いつの間に近くに来ていた店主が困った顔で姜維を見つめている。どうにかしてくれないか、ということだろう。
 姜維もそろそろ戻らないといけない。
「お二人とも、買うならばさっさと買ったらどうですか?私はそろそろ戻ります」
「ああ、すっかり話し込んでしまったな。で、趙雲、お前これ買うのか?」
「いらん!」
 にやにやと馬超が趙雲に問うと、瞬時に爆発しそうなほど赤くなった趙雲は踵を返して雑踏の中に紛れてしまった。ぽかん、と姜維がその後姿を見つめていると馬超はくつくつ笑ってからこれをくれ、と言った。
「あの、趙雲殿は大丈夫なんですか?」
「心配いらん。ちょっとからかい過ぎたな。いちいち躍起になって反応してくるものだから面白くてな」
 店主が品を巾着に入れている間に馬超はおかしくてたまらないというように笑う。馬超が買ったのはどうやら硯滴らしかった。細かい装飾はあまりないものの、形が丸っこい小鳥を模したもので面白く、可愛らしい。色合いも美しい。
 しかし馬超が使うような雰囲気ではない。こういう可愛らしいものは彼の印象にはなかった。
 馬超も姜維の疑問に気づいたのだろう。代金と引き換えにそれを受け取りながら「これは俺のではない」と言った。

「誰か差し上げる女性でもいるんですか?」
 姜維としては至極真面目な質問であったのだが、それを聞いた途端馬超は吹き出した。そして遠慮無く笑うと、しまいには姜維の肩に手をおいて俯き肩を震わせる。
 姜維はといえば再びぴしりと固まっていた。あの馬超が爆笑しているのである。先程から普段と比べて雰囲気が柔らかいな、とは感じていたがこれはさすがに予想外であった。
 とんでもないことが起こる前触れだろうか。
「あ、あの……?」
「ん?ああすまない。本人のためにも秘密だ。ではな」
 ひとしきり笑って満足したのだろう。いつものようなにやりとした笑みに戻った馬超はぽんぽんと姜維の肩を叩き、そのまま趙雲のときと同じように雑踏の中に消えてしまった。
 後に残されたのは水蜜桃を抱えた姜維。
 しかしいつまでも突っ立っているわけにはいかない。肉まんを買うことは諦めて戻ることにした。


 戻ってから土産の桃を諸葛亮に渡すと、珍しく休憩することになった。内心で驚いていると「私も人ですから休憩くらいしますよ」と言われて顔を赤くする羽目になる。しっかり表情に出ていたらしい。
 人に頼んで剥いてもらった桃を二人で食べながらそういえば、と姜維は口を開いた。
「街に出た時に趙雲殿と馬超殿にお会いしたのです」
「二人とも今日は休みですからね」
「そうしたら、その趙雲殿が……」
 その後のことはもごもごと曖昧になってしまった。未だに信じることができないのだ。しかし諸葛亮は言いたいことをしっかりと理解したようであった。ああ、となんでもないことのように声を漏らすと桃を一つつまむ。
「昔からああですよ趙雲殿は。あれでかなり意地張りな方ですから普段はしっかりと隠しているようですが」
 意地張り。趙雲殿が。
 今日何度目になるかわからない驚きに諸葛亮はくすりと笑った。これもまた珍しいことである。本当に明日何か起こるのではないだろうか。
「それよりも馬超殿と一緒にいたのですね?」
「え?あ、はい、そうですが……」
 最後の桃をつまんだ諸葛亮は口に入れるとゆっくりと咀嚼する。しっかりと飲み込んだ後、器を下げさせた。
「次からは無視するのがいいかと思いますよ」
「それはなぜ…?」
「蹴られたくないでしょう?馬に」
 馬、と姜維は繰り返すが考える前に休憩の終わりを宣言され、そのことは追いやられて結局意味はわからずじまいであった。

 その意味を正しく理解するのはずっと先、姜維が趙雲の執務室で丸っこい小鳥の硯滴を発見した時である。




デートを目撃される二人…(笑 そしてさり気なくそれを知ってる諸葛亮という。彼の情報網はどうなっているのか…
というか二人の邪魔すると文字通り馬に蹴られそうで。馬超の愛馬に(笑 
ちなみに硯滴とは硯の水を入れておく容器のことです。いわゆる水差しですね。いろいろな形があって面白いですよ

2013/6/29