「もうやめにしないか」

 月の姿がない、しめやかな夜。
 ともに酒を、と馬超に誘われて趙雲の邸で二人は飲んでいた。いい酒が手に入ったと馬超が酒を持ち込み、ならばと趙雲が肴を用意した。馬超の持ち込んだ酒は彼の言うとおりとても美味しいもので自然とすすみ、それに釣られるように肴も減っていく。
 そんないつもと変わりない、しかし少し特別な時間を過ごしていた。


 だからだろうか、馬超がぽつりとこぼした言葉を趙雲は理解することができなかった。
 いや、わかっていて理解したくなかったのかもしれない。

「………なにを?」
 ようやくその意味が頭の中を巡った時には、あれだけ心地よく趙雲を満たしていた酔いは引いてしまっていた。絞り出した声は囁くようなほどに小さく掠れている。
 手にしていた杯を卓の上に置くと視線を馬超の方に向けたが、馬超は視線を逸らしたままこちらを見ようとはしない。
「何を、…やめにすると?」
「…ただの同僚で、いいだろうということだ」
 少し暗い部屋にやけに大きく響く声は趙雲の逃げ道をあっさりと潰す。
 つまり、全て無かったことにしようと馬超は言っているのだ。

 好きだと伝えたのは趙雲からだった。半ば押し切るように始まった関係ではあったが、拒否はされなかった。言葉では伝えない人であるからはっきりとした言葉をもらったことはない。しかしその分、態度や仕草が伝えていた。
 少なくとも趙雲はそう感じていた。
「それは私のことが嫌いになった、ということか…?」

 そう思っていたのは自分だけだったのか。わかっていたつもりで、彼のことを何一つわかっていなかったのか。
 思わず震える手を伸ばして肩をつかむ。振り払われるかと思われたその手は、しかしそうされることはない。いつものように、趙雲の好きにさせるように。馬超は拒むことをしなかった。
 この手はまだ受け止めてもらえる。それなのに、
「、…そういう意味じゃない」
「ではなぜ、」
「そうじゃない、そうじゃないんだ。だが、一緒にはいられない」
 決してこちらを見ようとはしない馬超は、血を吐くような声を絞り出し、手にした杯を握りしめていた。
 関係の終わりを告げられた趙雲より、馬超の方がずっと傷ついているように感じられる声だった。
 自分の言葉で深く傷つき、血まみれになりながらも致命傷を避けるような。今の馬超はまさにそれだった。馬超は何かを恐れ、避けようとしている。
 趙雲は卓の上に置いていた手を白くなるほどに握りしめた。ぶるぶると震える程に握りしめ、そして力を抜く。

「…………私との関係をなかったことにすることで、孟起は何かから救われるのか?」
 その言葉にいらえはない。しかしそれが答えだった。



「わかりました。受け入れます。……情人としてではなく、貴方の同僚として隣に立ちましょう」
 長い沈黙の後、趙雲ははっきりとした声で馬超に告げた。
 すっと馬超が趙雲に視線を向けると趙雲は微笑んでみせる。それを見た馬超は初めて、刺されたように表情を歪めた。それが趙雲に深く突き刺さる。
「…帰る」
「ええ、もう遅い時間ですから気をつけて」
 立ち上がり部屋から出て行く馬超を追うことは、今の趙雲には出来なかった。

 泊まっていけばいい、といつもならば口にしている言葉は言えるはずもなかった。


―――――
 気づいたら朝日が差し込んでいた。
 趙雲は頭の中の霞を振り払うように頭を振る。顔をくすぐる自身の髪が酷く鬱陶しかった。
 今まではそんなことを考えることなど滅多になかった。むしろ馬超がこの髪をいじるのを密かに気に入っていたことを知っていたから、趙雲もまたそれなりに愛着を持っていた。
 視界に垂れてきていた髪の束を摘んで眺める。戦場に出るたびに塵と土埃、時に返り血に塗れる髪はばさばさに傷みきっている。
 こんなものの何がよかったのだろうな、と趙雲は笑う。笑うしかなかった。


 重苦しい気分を押し固めて思考の隅の隅に押しやり、いつものように笑みを浮かべて挨拶を交わすことは趙雲にとって造作のないことだった。
 思ったことが顔に出やすいとよく馬超に言われる趙雲ではあるが、こうして笑みを浮かべることはもはや無意識にできてしまう。そういう意味では本心を隠してしまうことは馬超よりも上手いと言えた。
 笑み一つにも馬超が絡んでくることにまた苦笑を一つ。




 無心で捌いていた書簡から顔を上げると首を回す。がちがちに凝り固まっている肩を少し揉んでみるがそれしきではほぐれない。目の奥にもしっかりと疲労は蓄積されているようだった。
 しかしながらいつもより進みはずっと早い。出来上がった書簡は趙雲が想像していたよりもずっと多いようである。その集中力に自分でも驚いてしまった。
 調練をこなしている時や、こうして書簡と向かい合っている時は考えずにいたことも、筆を止めただけでするりと戻ってくる。
 何故、なぜ。
 誰よりも近くにいるつもりだった。けれど、近くにいたはずであるのに馬超の考えていることがわからない。いくら考えてもわからないのだ。

 嫌いになっていないと馬超は言った。嫌われたわけではないのに離れる理由はあるのだろうか。
 何故、あんなにも苦しい、痛そうな表情をしたのだろうか。
「、駄目だな」
 趙雲は目を伏せて筆を置いた。考えるとそれだけで昨夜の痛みが蘇る。それがどれだけ馬超のことを好きだったのかを思い知らせてきて苦しい。
 息抜きをした方がいいかもしれない。椅子にかけてあった上掛けを羽織ると、机の上に積まれていた書簡の山の中から諸葛亮へ提出するものを腕に抱えて回廊に出た。
 室から出てしまうと回廊と歩く人々と顔を合わせることになるため、自然と馬超とのことは奥の方へしまい込まれる。諸葛亮の室に到着する頃にはいつもの笑みを浮かべたいつもの趙雲であった。
 扉を叩くと中から返事。姜維のものだ。
「趙雲です。書簡を届けに」
 名を告げるとすぐに扉は開いた。
「趙雲殿でしたか。お疲れ様です。どうぞ」
 差し出される腕に書簡を移すと、姜維はうず高く書簡が積み上げられている机の脇に回り込み、諸葛亮を呼ぶ。
「趙雲殿からです」
「趙雲殿本人がわざわざこちらまで運ばなくとも良いのですよ」
「息抜きですのでお気になさらず」
 諸葛亮は筆を置き、趙雲が持ってきた書簡のうち、ひとつの紐を解くとちらりと中身を確認して元のように紐で留める。
「これは急ぎではないと伝えていたはずですが」
「ちょうど他にやることもなかったので」
 諸葛亮の言葉に趙雲が穏やかにいらえると、諸葛亮は少し考えるような間のあと姜維のことを呼んだ。そして返事をした彼の腕に次々と書簡を重ねていく。
「…これを、書庫に戻しておいてください。今はそこまで忙しくはないので急ぐ必要はありません。では頼みましたよ」
 突然の諸葛亮の頼みであったが、聡い姜維は何かを察したらしく素直に頷く。
「では失礼します」
 姜維は趙雲にも軽く頭を下げると、開けたままになっていた入口から出て、両手がふさがった状態で器用に扉を閉める。気配が遠ざかっていったところで諸葛亮がひとつため息をついた。
「何があったのですか」
 なにも、と答えようとしたところで、諸葛亮の纏う雰囲気が先ほどと比べて緩んでいることに気づく。軍師ではなく、趙雲の旧い友人として尋ねているらしかった。
 何故気づいたのかと疑問に思ったが、彼の観察眼は誰よりも鋭い。趙雲自身にはわからないような些細な事がきっとどこかに表れていたのだろう。
 机の傍の椅子に腰を掛けると苦笑を漏らす。諸葛亮はただじっと趙雲を見つめているだけだ。

「馬超殿に、ただの同僚に戻ろうと言われた」
「………嫌いになったと?」
 静かな声に首を振る。
「いや。そうではない、と。だが一緒にいられないと言っていた」
「それで趙雲殿はなんと答えたのです」
「了承した」
 了承するしかなかった。
 絞りだすような趙雲の声に諸葛亮は眉を寄せる。それを目にして趙雲はまた苦笑して右手の掌を眺める。
 この手で何度も彼の手を掴んだ。そのたびに彼は仕方ないな、とでも言いたげな笑みを向けるのだ。
 彼らしいあのどこか不遜な笑みを。
 けれど今は掴むことすらできない。見えない何かが趙雲の手を拒む。
 延ばす先を失ってしまったその手を閉じたり開いたり繰り返してこぼした言葉は、諸葛亮に向けてというよりほとんど独り言のようだった。
「私よりも馬超殿のほうがずっと、苦しそうだった。別れを切り出された私よりも、ずっと傷ついていた。言い訳になるかもしれないが、だからだろうな。これ以上彼に苦しい思いをさせたくない。あのような顔を、させたくない」
 多くのものを失い苦しんできた彼が苦しむくらいならば、自分が苦しんだほうがずっといいと思ったのだ。馬超が笑うことができるならば隣にいなくてもいいと、そう考えた。

 諸葛亮の視線がどこか責めているように感じるのは、後ろめたい何かがあるからなのか。
 結局はやはり言い訳にしかならないのかもしれない。自分に言い聞かせて離れても、馬超の隣にいたいと思う自分が存在することだって確かなのだから。
 それでも。
 趙雲は諸葛亮に努めて穏やかな笑みを見せた。
「もう決めたことだ。それにたとえ同僚として彼のそばにいたとしても、私が彼に向ける感情は変わらない。だからこれでいい」
 はっきりと口にすると趙雲は立ち上がる。少し長居し過ぎたかもしれない。
「少し楽になった。ありがとう孔明殿」
 退出する時、再び諸葛亮のため息が聞こえたような気がした。




―――――
 あれから傍目からは趙雲と馬超の関係は変わらなかった。ばったりと会うことがあれば挨拶をかわし、たまに開かれる宴会では杯を手に親しげに話す。
 しかしそれは表だけである。少なくとも趙雲は、馬超に笑みを向けられるたびに胸の奥が軋む感覚をおぼえた。共にいる時間は以前とほとんど変わらないのに、心はずっと遠いところにある。
 以前が向かい合っていたとしたら、今は背を向けられているような状態だ。

 今日は劉備が直々に開いた宴会だった。劉備と少し会話したあと一人抜けだして、中庭に面した回廊で酔いを覚ます。宴会もそろそろお開きに近い頃合いだったので問題なかっただろう。
 空にぽっかりと浮かんでいる月を眺めながら失敬してきた水を飲む。冷えた水は喉を滑り、酒でぼんやりとしていた思考をすっきりとさせる。
 ここに独りでいても浮かぶのはやはり馬超だ。彼はちょうど趙雲が立っているここで柱に背を預けていることが多かった。ぽつんと佇み中庭の中央にある闇を湛えたような池を眺めていたり、何もない虚空を睨んでいたりしていたものだ。いろいろなところを眺めていたが一人で月を眺めていることはなかったな、と今になって思う。
 そんな場所に今度は趙雲がぽつんといることがなんだかおかしかった。
 ここで馬超が来たら逆になるのか、と考えながらまた一口水を含んだ趙雲だったが、ふと人の気配を感じて月から視線を外した。そして目を見開いた。

 回廊の奥から現れたのは馬超だった。
「貴殿は一人でいるのか。せっかくの宴会だ。楽しまなくては損だろう」
「これでも楽しんでいましたよ。それにそろそろお開きになりそうでしたから」
 動揺を押し殺し、穏やかな笑みを意識して隣を勧める。また奥底が軋んだ。

 何故、馬超はこんなにも平然と接することができるのか。今日までの様子を思い出してみても、趙雲の目にはあの日のような表情は一切映らない。今の馬超もいつものどこか不遜な笑みを浮かべて何やら次々と話している。それを適度に流しつつ相槌を打っていた趙雲だったが次に続いた言葉がやけに大きく聞こえた。

「岱がよく訊いてくるのだ。お前と何があったとな。そもそもなにもないというのにおかしな奴だ」

 それは弾けるようなひらめきを趙雲にもたらした。
 なかったことにしていたのだ。
 唐突に趙雲は、何故馬超が平然としていられるかを理解した。
 馬超の中では趙雲が情人であった事実はなくなってしまっている。初めから同僚だったことになっている。だからこそああも平然と趙雲と接することができたのだ。
 そうやって目を逸らし、忘れたことにすれば記憶は風化してしまう。
 馬超はいつかそれが本当になる時を待っていたのだ。

「趙雲殿、どうかしたのか?」
「私は、私はそうやっていなくなってしまうのですか…?」
「なんのことだ。今ここにいるだろう?」
「貴方を愛した私は、貴方のなかにはもういないのですか?」
 首をかしげていた馬超の顔が強張った。自分の鼓動の音が煩い。
「私の感情すら、なかったことにされてしまっているのですか…?目を逸らして忘れて、そして、」
「やめろ」
 遮る低い声にいつの間にか下がっていた視線を上げた。馬超は趙雲から視線を外してもう一度、やめろと絞り出した。
「終わったことだ。俺は貴殿を好いてはいない。貴殿のそれも勘違いだったのだ」
「ふざけるな…!」
 趙雲の怒声が閑散とした中庭に響き渡った。
 あれ以来、趙雲は初めて焼けるほどの怒りを感じた。別れようと言われても、親しげに会話されても感じなかった感情があっという間に趙雲を満たした。

「孟起が私を好いていないというのはかまわない。貴方の感情だからな、私がどうこうできることじゃない。けれど私の感情を、貴方に向けているこの感情を勝手に決め付けることだけは許さない!私の感情は私のものだ…!」
 馬超が目を見開く。
 くそっ、と吐き捨てて目元を乱暴に拭った。怒りと悔しさと悲しみと、幾つもの感情がごちゃごちゃになっていて自分が制御できない。
 何故自分ばかりがこんなに必死なのだろう。自分ばかりがもがいて、けれどどうにもならない。
「私は孟起が好きだ。それだけは絶対に譲らない。絶対に、絶対に…!」
「し、」
「失礼します」
 おそらく呼ぼうとしたのであろう馬超を趙雲は礼をすることで封じた。

 呼んで、それでどうするつもりだったのか。
 また突き放すのか。ならばいらない。
 そんなものは、いらない。


 背を向けて暗い回廊を歩く。再び視界が滲んできて、また同じように吐き捨てて拭った。



―――――
 去っていった趙雲の背中が見えなくなっても馬超は視線をそらすことができなかった。
 趙雲のあのような表情も、泣いているところも初めて目にした。
 好きで好きで仕方なくて、けれど辛くて苦しくて、どうしたら良いかわからないような、見ているこちらの胸を引き裂くような悲痛な表情。
 あんな表情を自分は趙雲にさせたのだ。
 泣いているところなど、情事の最中ですらみたことはなかった。


 あの時の言葉の通り、馬超は決して趙雲を嫌いになったわけではない。だからこそ怖くなったのだ。
 馬超は基本的に永遠なんてものを信じていない。それはおそらく趙雲も同様であろう。大切なものを明日にだって失ってしまうかもしれないような世の中だ。現に馬超は馬岱以外の大切なものをすべて失った。
 もうこれ以上大切なものを増やさないと血を吐く思いで決意したはずなのに、馬超はまた大切なものを手にした。
 馬超の癒えない傷にそっと手を当てて癒し、存在をまるごと包んでくれるような。じんわりと沁みこんでくる趙雲はいつの間にか馬超の中に入り込んでいた。
 趙雲に好きだと言われた時には馬超もまた、すでに趙雲へ恋愛の情を向けていた。言葉にしたことはなかったが、趙雲はいつだって嬉しそうに笑っていたから察していたのかもしれない。
 そうやって趙雲を大切にすればするほど、馬超の中の恐怖は大きくなってしまう。結局は大切なものを失う恐怖に耐え切れなくなったのである。
 これ以上何かを失う痛みに耐えられない。ならば出来る限り痛みを軽減しようと取った行動があの日の馬超の言葉だった。
 適度な距離を保っていれば、いずれ記憶は風化してはじめからなかったことにできる。馬超はそう信じていた。



「馬超殿」
 静寂の中に響く自分を呼ぶ声にバッと馬超は振り向いた。去っていった彼とよく似た、しかし彼よりも幾分か落ち着いた声。
 いつも持っている羽扇を手にした諸葛亮がそこに立っていた。
「軍師殿か」
「私は彼と長い付き合いですが、あのような表情は初めて見ましたよ」
 「彼」が誰を指しているのかは訊かずとも分かる。静かな諸葛亮の声はここでの一部始終をしっかりと見ていたことを教えていた。馬超は奥歯を噛み締める。
「……覗き見とはあまり褒められた趣味ではないと思うが」
「私の室はその先にあるのです。進行方向にいたのでやむを得ず、ですよ」
 しれっと答える諸葛亮に、そういえばこの回廊の先に諸葛亮の室があったことを思い出す。
 馬超は長くため息をひとつ吐くと柱に寄りかかった。
「これは俺と趙雲殿の問題で軍師殿には関係のない話だ」
「そうでしょうね。これは二人の問題であり、私にはそこへ立ち入る権利はない」
 しかし、とはっきりとした声のあと諸葛亮はまっすぐと馬超に向き直った。
 その目はいつも馬超が見ている諸葛亮のものではない。馬超にも分かるほどに、はっきりと感情が浮かび上がっていた。
「しかしそれを承知で、軍師としてではなく、趙雲殿の旧い友人としての立場から言わせてもらいます。目を逸らすことは一概に悪いことだとは言えないでしょう。そうしなければ潰れてしまうこともある。しかし、そうして目を逸らし、彼の苦しみも全てなかったことにしてしまうのならば私は黙っているわけにはゆきません」
「軍師殿、」
「そんなこと、絶対に許しません」
 言いかけた馬超を睨んで制すると馬超の背後、諸葛亮の室へと歩き出す。 振り返って見つめたその背中はどこか趙雲のようで馬超は目を背けた。



―――――
 あれからどうやって帰ってきたのかを馬超はよく覚えていない。気づいたら自邸の扉の前に立っていた。
 ぼんやりとしたまま中に入ると、一足先に帰ってきていたらしい馬岱が奥からひょっこりと顔を出した。
「おかえり。思ってたより早かったね……って若?」
 いつもの笑みを浮かべていた馬岱であったが、馬超の様子にすぐに怪訝そうな表情に変える。
 その様子を目にしながら馬超はその場に立ち尽くしていた。ここまで馬超を動かしていた何かが跡形もなく消えたように馬超の体はうごかない。
「……とりあえずほら、そんなところに立ってないで部屋に行こうよ。ね?」
馬岱はそんな馬超に近づくと、いつもの笑みで声をかけて隣に立った。促され、いつもの倍は時間をかけて自室に入ると後から入った馬岱が扉を閉める。
「馬岱?」
「今日は若と一緒に寝ようかなって」
 戸惑う馬超が返事をする前に、馬岱は馬超を寝台に押しこむと自分も中に潜り込む。
 狭い寝台に背中合わせで横になる。こうして同じ寝台に入ったのはいつぶりだろうか。まだ馬超と馬岱が幼く、故郷にいた頃にはよく一緒に寝たものだ。
 接している背中からじわじわと伝わってくる熱が馬超の強張りを少しずつ解していく。胸に溜まっていたものを吐き出すように静かに息を吐き出した。

「…あいつから離れたことは、悪いことなのか?趙雲を失いたくないだけだったのに」
 囁くような声は暗い静寂の中に溶ける。
 嫌いになったわけではない。隣に立つなと言ったわけではない。むしろ隣に立って欲しい気持ちはあの時となんら変わりない。
 ただ、立場が情人か、同僚か。その違いだけで。
「悪いこと、ってわけではないかな。誰だって逃げたい時とかあるしさ。ただ、やっぱり趙雲殿にとってはすごく辛いことなんだと思うよ。わけのわからないうちに離れていっちゃっただろうから」
「…………」
 そっと、穏やかに言葉を紡いでいく馬岱の声は柔らかい。するりと馬超の中に入ってきて沁みこんでいくようだった。
 馬岱の言葉はいつもそうだ。馬超がいくら聞く耳を持つものかと思っていても、そんなものは初めからないかのように入り込んでくる。
「若、考えてることは黙ってちゃ相手に伝わらないんだよ。趙雲殿は若のことよくわかってるみたいだけど、それでもわからないことっていっぱいあるんだ。若だって俺のこと全部の全部わかるわけじゃないでしょ?だからさ、一度趙雲殿と話してみれば?」
「話したところで…」
「でもやってみないとわからないよ。それに若だって趙雲殿のことを全部理解してるわけじゃないでしょ。何か見えてくるかもしれないよ」
 そう言われてもなお渋る馬超だったが、馬岱はさっさと話を切り上げるとそのまま寝入ってしまった。残ったのは悶々とした踏ん切りの付かない悩みだけである。

 言ってしまうのならあの時に言ってしまったほうがいい。あの時に言わなかったのならずっと仕舞いこんでおくべきだと馬超は思っていた。
 しかし、しかし―――――


『私の感情は私のものだ…!』
『私は孟起が好きだ。それだけは絶対に譲らない。絶対に、絶対に…!』

 あんなにも激しく訴えてきたのは初めてだった。
 いつも穏やかに笑う趙雲があれだけのものを胸に抱いていたと初めて知った。

 あんな顔をさせて、泣かせて、ただ受け入れるという選択肢を選ばせて。そこまでしてしまっておくものなのか、と思う。
 趙雲の感情から目を逸らしてまで秘めておくものなのか。

 そのあとも馬超はいつまでも悩んでいてなかなか寝付くことができなかった。



―――――
「休みです」
「はあ…」
「ですから貴方は、今日、休みです」
 ぽかんと間抜けな返事をした趙雲に諸葛亮はいちいち言葉を区切ってはっきりと繰り返す。
 その日の朝、城に入った趙雲へ、すぐに諸葛亮のところへという連絡が来た。それに従って彼の室に赴いたところ、開口一番が先ほどのあの言葉である。
「私の休みはまだ先だったと記憶していますが…」
 休日を入れた覚えも変更した覚えもない。そもそも趙雲が自ら休日の日にちをいじること自体が稀だ。
 戸惑いながらも告げたが、諸葛亮は何食わぬ顔で休みにしました、ととんでもないことをのたまった。
「貴方のところの調練は馬岱殿が引き受けてくださるので心配には及びません。書簡も最近の貴方の仕事ぶりのおかげで急ぎは特になかったはずです」
「いえですがそんないきなり、」
「いきなりだろうとなんであろうとすでに決定したことですので。貴方がすることは、このまま私の室を出たらまっすぐ城門へと向かうことです」
 さすがにそれは馬岱に悪いと言い返すも、そもそも口で諸葛亮に勝てるわけがない。
 あっさりと言葉を遮られ、趙雲が止める間もなく話はするすると進んでしまう。
「…何故城門なのですか」
「休日ならこのまま街に出るか邸に帰るかするでしょうから不都合はないかと思いますが?」
「……」
 何か問題でも?と首を傾げてみせる諸葛亮にがっくりと肩を落とす。
 負けた。趙雲はため息を吐くと諦めた。
 休みをくれると言っているのだから素直に受け取っておくことにする。休日が増えて困ることはない。
 渋々了承すると諸葛亮はよろしい、と満足気に頷いた。
 そんな彼に礼をしてから室を後にすると早速来た回廊を引き返す。本当はこのまま自分の室にこもって書簡整理だけでもしようと考えていたのだが出鼻をくじかれてしまった。おそらく趙雲の考えを読んでの事だったのだろう。
 思わず漏れそうになったため息を飲み込んで趙雲は足を速める。

 さほど時間もかからずに城門のところまでやってきた趙雲であったが、そこにいる人物に思わず足を止めてしまった。

「来たか」

 彼の声はおろか、姿を目にしたことも数日ぶりであった。ほとんど一方的に言いたいことを吐き、しまいには泣き顔を見せるなどという醜態を晒せばさすがの趙雲でも避けたくなる。

 少し不機嫌な顔で腕を組んでいる馬超であったがしかし、こちらに背を向けている雰囲気はない。
 あの日以来、初めて正面から向き合ったような気がした。

「ば、ちょう殿……」
「貴殿が今日は休みであることは聞いている。俺の邸に来てくれ」
 まっすぐと射抜くその視線に趙雲の足は地面に縫い付けられる。有無を言わせない強い目。
 何も言わず突っ立っている趙雲にしびれを切らした馬超がつかつかと寄ってきて腕をつかんだ。
「何を固まっている。さっさと行くぞ」
「え、しかし…!」
「悪いが貴殿に選択肢はない」
 そしてそのまま引きずられることとなった。



 そのまま宣言通り馬超の邸に半ば無理やり連れて来られた。あれから一度も来ていなかったからか、とても懐かしいような心地がする。
 馬超がさっさと椅子に座ったのをみて趙雲も仕方なく正面に座る。
 無言の時間が流れた。

「……俺は、ここに至るまで多くのものを失ってきた」
 どれくらいの時間が経ったのか。ようやく馬超はぽつりとこぼした。卓の上で組んでいる手を睨みつけ、淡々とした声で続けられる。
「俺の手に残ったのは馬岱だけだ。これ以上失いたくなかった。ならば大切なものを作らないと心に誓った。…………誓ったはずだった」
 ぽつぽつと短い言葉で語られることが何処へつながるか察した趙雲はただ黙って耳を傾ける。

「……だが、だがお前が現れた。お前ができてしまった」
 ただ、お前が大切だった。
 絞りだすような告白に趙雲は馬超を見つめた。
 今まで言葉にして貰ったことはなかった。いつも態度で伝えるからわからないところは自分で想像するしかなかった。
 それなのに、今目の前にいる馬超は言葉を選びながら伝えようとしている。
「これ以上失う痛みを味わいたくなかった。子龍を失うことが何よりも恐ろしかった」
「だから…?」
「遠ざければ、情人でなければ…そう考えた。失いたくはなかったから、遠ざけた」
 最後の言葉を吐き出して馬超は深く、深く息を吐いた。視線はこちらには決して向けられなかったが、意識はこちらに向いていることが伺える。
 趙雲の言葉を待っているのだ。

「私から離れて、孟起は、救われたか…?」
 そっと尋ねる声に答えはない。しかし卓の上の手に力が入った。
「私は、大切なものならば、そばにおいて、大切にしたい。大切な人と離れたくない」
 簡単に人は目の前からいなくなってしまう世の中だからこそ。だからこそつながりを断ちたくない。
 今まで少なくないものを失ってきたからこそ趙雲はそう思う。
「明日も平穏に生きることができるかわからないからこそ愛したい。手放したくない。そばに、いてほしい」
 そこまで言って言葉を切り、趙雲も馬超から視線を外した。そしてきつく目を閉じる。
「……さびしい。さびしいんだ。孟起がいないと、さびしい」
 かすれるほど小さな声でもれた言葉、それが飾り気の無い趙雲の本心だった。
 隣にいても、笑っていてもさびしかった。
 趙雲にも失う恐ろしさはある。今目の前にいる馬超が1年後、1か月後、生きているとは限らない。しかし、それでも大切にしたいのだ。

 趙雲は馬超に向き直り、少し伸び上がってそっと馬超の手を掴んだ。自分の手よりも温度の高い彼の手。それをぎゅっと握り締める。
 もうこの手を放したくない。そう言外に告げる。

 そのまま黙ってその半ば縋るように握っていた手を見ていた馬超だったが、ゆっくりと手を動かしてそっと外した。
「あ、」
 やはり一緒にはいられないのか。
 じわりと込み上げてくるものを必死でこらえて見つめる趙雲の前で馬超は立ち上がる。
 そして趙雲の横に来ると腕を伸ばしてそのまま抱き込んだ。とくとくと伝わる音が染み渡り、こらえていたそれは馬超の胸元に染み込んでいく。
「俺も、さむかった」
 掠れた声が降ってくると同時に趙雲を抱き込む腕に力が篭る。

「温かいな、子龍は」
 直接響いてくる声はただあたたかくて趙雲は馬超の背中に手を伸ばして鷲掴んだ。


―――――
「なんか雰囲気変わりましたよね、あの二人」
 回廊でたまたまばったり会った姜維と話していると、遠くに馬超と趙雲の姿。それに目をやった姜維がふいにそうこぼした。
 あちらもたまたま会ったようで、趙雲が言った何かに対して馬超が優しげな笑みを浮べている。あの表情は馬岱もなかなかお目にかかれない。
 幸せなんだなぁと心のなかで呟いて、姜維にはそうだねぇと同意しておく。
「んー、倦怠期を乗り越えて進展したって言うのかな、そんな感じ?」
「以前よりは距離は近くなっていると感じますが……その言い方はどうなんですか?男女の仲じゃないのですから…」
 馬岱の言葉に姜維は呆れたように笑うと、そろそろ行かなければと礼をして去っていた。
 あちらの二人も言葉をかわして離れていく。あとに残ったのは馬岱のみだ。

「その男女の仲、みたいなものなんだけどねぇ…」
 馬岱の苦笑は誰にも聞かれずにそのまま消えてしまった。




当初の予定よりもかなり長くなった…。
相変わらず丞相がめっさ出張る出張る。趙雲殿と旧い友人だったらいいなという

2013/4/22