大きな被害を出すこともなく、そして予想よりも早く決着をつけて帰ってきた趙雲の軍のための酒宴。その宴も半ばになった頃、馬超は馬岱に酔いを覚ましてくると告げ、ふらりと人気のない中庭に足を向けた。
 酔い覚ましは口実だ。馬超の酒に対する耐性に関しては若の枠には網目がない、と馬岱が言うくらいだ。きつい酒ならまだしも少し(あくまで馬超の基準であるが)飲んだくらいでは酔いはしない。 それでも素直に頷いたのはおそらく言っても無駄だということを経験から学んでいるのだろう。物分かりのいい奴だ。

 そんなわけで馬超は人気のない廊下を一人で歩いている。
 昼間の喧騒とは打って変わって静まり返っているが嫌な空気ではない。むしろ飲んで語ってと少なからず興奮していた気を静めてくれた。
 意味もなく遠回りしてようやく中庭に着くとそこに人の気配。それもよく知った気配である。まさかここにいるとは思っていなかった馬超は内心で首をかしげた。
 そこにいたのは趙雲だったのである。今回の討伐軍の総大将は彼、趙雲である。つまるところ彼が今回の酒宴の主役のようなものであり、まだ劉備をはじめとした皆と飲んでいるものだと思っていた。
 実際馬超は少し前に劉備と何やら語っている姿を目にしている。しかしその彼は今、ぺたりと草の上にあぐらをかきぼんやりとした様子で欠けた月を見上げている。どうやらこちらに気づいていないようであった。

 常ならぬ趙雲の様子を心配したわけではない。
 だいたいにして普段から彼は考えすぎなのである。そういうものだ、と納得してしまえば楽に生きることができるのに、彼はそうしようとはしない。
 ひとつひとつを拾い上げて、心を砕き、心を痛める。 随分と不器用な生き方であると馬超は考えている。
 趙雲に言わせると馬超の生き方もまた不器用であるらしいが自分にはよくわからない。きっと他人の姿のほうがよく見えるのだろう。よくあることだ。

 話が逸れたが心配しているわけではないのだ。
 確かに考え過ぎではあるがそれでも彼は彼なりに答えを出し、それを受け止めてしっかりと感情その他もろもろを処理していく。今の彼もきっと答えを出そうとしているところなのだ。
 つまるところ今の馬超の足を趙雲の方へ動かしているものは、世間では好奇心と呼ばれるものである。
 しっかりとした足取りで趙雲に近づくと、そのすぐとなりに彼と同じように腰を下ろす。さすがにこちらに気づいているだろうが月に向けた視線をそらすことはなかった。

 時間だけがゆるりと過ぎてゆく。趙雲はやはり月から目をそらさない。
 馬超は目の前に視線をやりながら思考は隣へと向ける。何を考えているのだろうか。
 趙雲は何も言わない。そのため、その心の内を馬超が知る術はない。
 そのうえ馬超は相手の心の機微といったものを掴むことが得意ではなかった。あの軍師殿か、あるいは馬岱だったならば何かを掴むことができたであろうか。詮無い考えだ。

「……部下を一人、目の前で失った」

 そんなことをつらつらと考えていたものだから、思考が咄嗟に趙雲の言葉を理解することができなかった。
 しかし数瞬遅れてその言葉の意味を飲み込む。部下を失った。そのままの意味だ。

 ぽつりとこぼした趙雲の視線は月から草へと移っていた。馬超も無意識にそこへと視線をやる。かすかな月明かりは頼りなく、ひっそりとした空気がふたりを包む。
 宴の喧騒はやけに遠いところにあった。
「この乱世だから、失うことはある意味、仕方ないのかもしれない。それは、私も武人だからわかっているつもりだ」
 ぷちぷちと趙雲は草をむしる。雲は馬超からの返事は欠片も期待していないようであった。
 それくらいは馬超もそれとなく気づいたので、ただ黙って草をむしる趙雲の手を見つめる。 槍を握り続けた手は無骨で、自分のものと同じようにあちこち皮膚が硬くなっているのだろう。
「……私をかばって死んだというのに、何も感じないんだ。悲しみも悔しさもなにも。まるで……そうだな、こんなふうに、草をむしるような」
 趙雲の手が草を鷲掴んで一気にぶちぶちと引きちぎった。開いた趙雲の手からぱらぱらと落ちていく草が暗闇の中でもやけにはっきりと見える。
 ある程度落ちたところで趙雲は掌を目の前に持ってくるとへばりついていた草をひとつひとつ丁寧に取っては落としていった。
「こうやって人の死にも慣れていくものなのかもしれない。それは、」
 つ、とあがる趙雲の顔。まっすぐと馬超を見据える瞳にはなにも混じっていなかった。ただ痛いほどに透明だ。

「それは……それはきっと、寂しいこと、なのかもしれないな……」
 静かにこぼされた言葉は溶けるように消えた。
 馬超はただ黙って虚空を見つめた。

 趙雲の話は、それこそ乱世ではよくあることだった。
 戦を起こせば人はしぬ。
 誰かを守ろうとすれば、それはすなわち誰かを殺めることになる。
 それは殺めるべき敵も考えていることだ。
 勿論この男もそれはよくわかっているだろう。わかっていてなお、悩んでいる。
 やはり馬超に言えることは何もなかった。彼もそれを求めていなかった。

 そのかわり右手で趙雲の右手をがっしりと掴んだ。驚いてばっと顔を向けた趙雲に構わずぎゅっと力を込める。
 自分よりも温度の低い手。けれど自分と同じごつごつとした、皮の厚い手。
 多くの命と引き換えに多くの命を守ってきた手。
 たとえ何も感じなくなってしまったとしても、その手には残るものがある。それをこの男ならば守ってゆける。

 そして自分はその手の中には決して入らない。入ってなどやるつもりなどない。守られる存在ではないのだから。

 ゆっくりと離した手は指の跡が白く残っていた。
 暗い中庭でも目を惹きつけるそれから視線を引き剥がして馬超は立ち上がる。
 趙雲はたった今馬超が掴んでいた己の右手をじっと見つめていた。
「体が冷えぬうちに中へ入れよ」
 他にはなにも言わず、それだけを残して馬超は中庭を後にした。

 欠けた月がやわらかな光を落としていた。


2013/3/19