「知っているか姜維、この国には龍がいるのだぞ」
 その言葉は不思議な魅力を持って姜維の中に響いたのだった。





 討伐戦から帰還した将たちへねぎらい、ちょっとしたお祝い事、楽しく騒がしく酒が飲みたいからなどなど。君主の義兄弟を筆頭にして、酒好きな将が多いためか宴はよく開かれる。
 今回は何が理由なのかもう忘れてしまったが和やかな宴だった。もとから堅苦しい雰囲気にならないが、更にくだけた酒宴だ。位の上下など関係なく入り乱れて座り、笑いながら盃を交わしている。
 姜維はこのような宴が好きだった。好きと言っても酒を飲むことが特別好きなわけではない。宴の最中に皆の表情を観察したり、酒が入っていなければ話さないような、そんなちょっとした話を聞いたりするのが好きだった。

 今回姜維の隣に座っていたのは馬超だ。彼の座る場所はたいてい決まっており、従兄弟である馬岱か、あるいは彼の同僚の趙雲のところが多い。馬超と姜維が一緒にいる時は姜維の方から近づいて隣に座ったためであることが常である。
 それが今回は珍しく逆転していた。一体どうしたのだろうか、と内心で考えながらも、他愛もない話を続けていた。酒のおかげか口は滑らかに動き、次々と話題は流れていく。が、唐突に馬超が黙りこむ。どうしたのかと見つめると彼はにやり、と笑う。

 少し声の質を変えてとっておきの秘密を教える子供のように話し始めたのは、この国にいるという美しいいきものの話だった。


「龍、ですか?」
 手にした杯を傾けながら馬超に聞き返すと、彼ははっきりと首肯する。その仕草には酔った雰囲気は見られない。恐ろしいほどに酒に強いひとであることはこれまで開かれた宴で把握済みだ。
 酔いにまかせてとんでもない話をしているのではなさそうである。だとしたら何故なのか。
 しかしいくら考えたところでわからない。
「とても美しい龍だ。それがこの国にはいるのだ」
 こちらの困惑などお構いなしにおかしくてたまらない、とでも言わんばかりの表情で、馬超は続ける。
 姜維は空になっていた杯に酒を注ぎながら馬超の話に一応耳を傾けた。


 美しく、そして強い龍がこの国にはいるという。
 その鋭い眼差しは澄んでまっすぐと先を見据え、しかしその鋭さとは裏腹に性格は穏やかな春の海のよう。そしてその龍がひとたび本気を出して戦おうものならば、圧倒的な強さをもって敵を屠っていくのだと。
 血を纏ってもなお、その美しさを凄絶なまでに見せつける、そんな龍だと。

 姜維の脳内には美しい鱗を持つ龍が天をのびのびと飛翔している姿が浮かぶ。
 龍と言えば、その鳴き声で嵐を呼ぶと言われており、水神としても有名である。その龍がいると馬超は言っているのだろうか。
 彼にしては珍しいな、と姜維は内心で首をかしげた。姜維の目に映る馬超はどちらかというと目に見えないものは信じない。すべてのすべてを信じていないわけではないのかもしれないが、少なくとも今回のような話題を持ってくるような人ではないと姜維は思っていた。

 そんな姜維に気づいているのか、それとも気づいた上で無視しているのか馬超は龍についてのあれこれを話す。
 それにはあ、とかはい、などともかく適当な相槌を打っていたが、馬超がお前ならば会えるかもしれんな、とこぼした言葉をおざなりに流しかけて、しかしぽかんとしてしまった。

 会える、というのはその龍にか。
 現実には存在しないはずの、そのいきものにか。

 それは現実からかけ離れた話であった。あいにく姜維は御伽話を無邪気に信じる時期はとうに終えている。その事実を当然馬超はわかっているはずである。ではなぜそんなことを口にしたのか。おおよそ馬超らしくない。やはり少し酒が回っているのかもしれない。顔に出ないだけなのだ、と姜維は己に言い聞かせる。
「会う、とは、龍にですか?」
「ああ、そうだ」
「……その、本気で仰っているのですか?」
「俺が冗談を言っていると思うのか?」
 まっすぐと見つめてくる馬超に口を閉ざす。思わないから困るのだ。
 しかしやはり馬超はそんな姜維のことなど気にも留めずに酒を煽る。それが姜維の困惑を助長するなど気づいていないのか。
 酒の力は恐ろしい、と姜維は再び己に言い聞かせた。

「あの、何故、私ならば会えると…?」
 たっぷりと時間を掛けて半分以下になっていた酒を飲み干し、ようやく馬超に尋ねる。酒を注ぎ足そうとし、馬超の杯も空になっていることに気づいて注ぐ。軽い礼にこちらも軽く返すと自分の杯にも注いだ。
 ゆっくりと杯を満たす。いっぱいになったところで馬超に視線を戻す。
 彼は杯から口を離して笑ってみせた。
 しかし先ほどまで見せていた笑みとは違って、悪戯っぽいどこか無邪気な笑みだ。
 いくらかその見た目を幼く見せるような、子どものような笑みである。
「お前は龍に好かれる人間だからな。きっと会えるぞ」
「好かれますかねぇ…」
 バシッと背中を叩かれて、酒をこぼしそうになりながらもぼんやりと返事をする。
 そんなことを言われたのは当たり前であるが初めてである。真面目な性格が好ましいとか、ちょっとした好意は時々もらうのだが、龍に好かれるというのはどの辺りなのだろうか。
 というより姜維は馬超が龍の好みを知っていることのほうが不思議だった。それを告げると馬超はなんでもないことのようにあっさりと会ったことがあると告げた
「え、」
「だからわかる。お前は龍に好かれるような人間だ」
「……はあ、そうですか」
「何だその気のない返事は」
「龍に好かれると言われましても……。あ、馬超殿は好かれているのですか?」
「さあな。嫌われていないことは確かだ」
 まあ、酒の席だ。よくわからないことを言うこともあるだろう。それがたとえあの馬超だったとしても。
 姜維は己の中で無理やりそう結論づけるとさり気なく矛先を自分の話題からそらす。
 馬超もしつこく熱弁したかったわけではないのだろう。あっさりとそちらに乗ると、話はそのまま関係のない方向へと進み、結局そのまま帰ってくることはなかった。
 しかし何故か姜維の中にその龍は不思議な存在感をもってかすかに残ったのだった。






 それからゆっくりと、しかし確実に姜維の中から馬超と話した会話は奥へと沈んでいった。
 毎日が忙しく過ぎ去り、やらねばならないことは次から次へと山積みになる。いくら姜維が記憶力のある人間だったとしても、すぐに開けることができる引き出しは限られているものだ。
 引き出しの中身が増えたり、新たな引き出しが出来たりしているうちに馬超との他愛もない会話は奥深くに隠れてしまっていたのだった。



 だからこそ姜維は現在の状況にしばし言葉を失っていた。
 どこまでも続く何もない、柔らかな光に満ちた世界。瞳に映るのは、まるで水面のような地面がどこまでも続いている空間だった。空も地面も言葉では表せないような、澄んだ色をしている。

 そんな姜維の視界静かに佇むのは龍だった。
「貴方が、龍ですか…?」
 口を開かずとも思考は音となって響く。
 それだけでも十分驚くべきことであったが、姜維の視線は龍に釘付けでそれどころではなかった。
 空と翡翠を混ぜたような鱗、凪いだ水面のような青みがかった宝玉のような目。するどい爪は水晶のよう。

 言葉で現すことができないほどに美しい龍。

 足や、すらりと伸びた長い尾は沈むことなく水面と接しており、呼吸に合わせてなのか微かな波を生む。
 その龍は静かにゆっくりと頷いた。
「そういう貴方は麒麟ですね」
 穏やかな、まるで頭の中に直接響いてくるような不思議な声で相手は尋ねる。
 姜維は天水の麒麟児と言われていたので、そのような表現も確かに間違っていないだろう。素直に頷くと龍はそうではなく、と首を横に振ってみせる。その背後で尾の先がぺたりと水面を一度叩いた。微かな波がそこを中心に広がってゆく。
「黄金色の毛に五色の背毛、そしてその角。貴方の姿のことですよ」
「へっ?」
 苦笑を混ぜたような声に告げられ、姜維の思考は間抜けな声となってもれた。そして慌てて水面についている両手に視線を落と、
「えっ、ええっ!?」
 まず当たり前のように両手両足――この場合は前足後ろ足というべきだろうか――で立っていることに違和感を覚えなかった自分に驚愕した。
 続いて視線を落とした先にある両手もとい前足に思考が真っ白になるほどに驚く。
 馬の蹄を持つ黄金色の前足はしっかりと水面を踏みしめていた。
「っ!!!わっ私は…!?」
「どう見ても麒麟でしょう?私が今まで見たどのいきものよりも美しい」
 混乱する姜維をよそに龍は暢気とも言える態度でそう告げてくる。
 水面に映る己の姿は何度まばたきしても変わらない。空想上のいきものだと思っていた麒麟に変化していたのだった。
 焦り両手を目の前にかざそうとするも、後ろ足だけでは人間のように上手く立つことができない。それにまたより一層の焦りを覚えるが目の前の龍はまあまあ、などとこれまた暢気に姜維を宥めてくる。暢気にしている場合ですかっ!と半ば八つ当たりにぶつけた言葉が半泣きに近いものだったことに本人は気づいていない。
「大丈夫ですよ。死ぬわけじゃないんですから」
「そういうことではっ!」
「まあまあ落ち着いて。焦っても現状は変わりませんよ」
「だからっ!」
「深呼吸ですほら、吸って、吐いて」
 畳み掛けるように、しかし穏やかな声で促され、思わず言うとおりに深く吸って深く吐く。
 澄んだ空気が入り、ぬるく淀んでいるような空気が出て行く。もう一度、という言葉に従って吸って、吐く。冷えた空気が全身に、四肢の先まで巡る。余計なものが吐いた息とともに口から出てゆく。
 すると、あれだけ熱が上がっていた頭が不思議なほどスッと冷えた。数十秒のできごとだ。思わずぱちぱちと瞬きする姜維を龍はやはりのんびりと眺めていた。
「落ち着きましたか?」
「え、あ、はい…」
 穏やかな声に戸惑いながらも頷いてみせる。
 程よく冷えた頭は瞬時に働きだし、奥底で忘れられていた引き出しを探し当てて開く。
 その中身はいつかの宴での会話。


『知っているか姜維、この国には龍がいるのだぞ。』
『その眼差しは澄んでまっすぐと先を見据え、しかしその性格は穏やかな春の海のよう。』


 馬超が話していた冗談のようなあの話。
 もしかして、あれは。
「あの、」
「どうかしましたか?」
「馬超殿を、ご存知でしょうか」
 ゆっくり、確かめるように龍に尋ねる。すると龍はぱちくりとひとつ瞬きをしたあとに首肯した。
「ええ、貴方も彼を知っているんですね」
「はい、では貴方が馬超殿の言っていた龍なのですか……。本当に美しい姿ですね」
 ああ、あれは本当のことだったのか。
 そんな思いで姜維は何気なく言った言葉だったが、目の前の龍は再び瞬いた。え、と意味のない言葉を漏らす。姜維の方もその反応に戸惑い、同じく意味のない声をこぼすがそれで意味がわかるわけもなく。
なんと聞いたのです、とどことなく焦って尋ねてくる龍に馬超から聞いた話を丁寧に話した。
 姜維が話している間はおとなしく聞いていたが、話し終えると彼はため息をついて鋭い爪を持つ手でぱしりと顔を覆った。その仕草がやけに人間臭くて、思わず姜維は笑みをこぼす。
「あまり言いふらすなと言っておいたのですが、まったく……」
「でもおそらく知っているのは私だけだと思います。それに龍がいるだなんて、言ったところで皆は信じませんよ」
 龍がいる、などという話をまともに信じる者がいるとは思えない。せいぜい喩えだと解釈する程度だろう。事実、姜維もあの時は万が一本当だとしても、馬超を錦だと喩えるように誰かのことを喩えたのだと考えていた。
「では、貴方は私を信じませんか?」
 姜維の言葉に穏やかな声で返事代わりの質問が投げかけられる。
 しかしそれは意地悪な質問だろう。じとり、と彼を睨みつけるとその瞳から面白がっていることがわかる。返ってくる言葉が予想できているにもかかわらずに訊いている。
 しかし姜維の中のどこかでこの龍には勝てないと早々に白旗をあげていて、しぶしぶながらも口を開いた。
「今でも信じられません。龍を目の前にしても、夢だと思っています」
 無限に広がるこの光景も、うつくしい龍も、現実にはありえない。

 けれど、

「これを嘘にしたくないような気がするのです」

 夢で片付けるにはもったいないような気がしたのだ。人に話せば笑い飛ばされるに違いない。いや、もしかしたら頭の心配をされるかもしれない。
 それでも今、目の前には確かに龍がいて、自分は麒麟で、言葉を交わしているのだ。
 きっぱりとした姜維の言葉に美しい龍は、その瞳に嬉しそうな色を浮かべてこちらを見つめていた。




「……?」
 気がつくとそこは自分が日々書簡を片付けている部屋だった。自らの腕を枕にして寝こけていたらしい。まだぼんやりとしている頭を起こすように頭を振った。目をこすってこじ開け、改めて机を眺めて姜維は首を傾げる。
 途中で居眠りしてしまったにしては筆はきっちりと邪魔にならないよう寄せてあるし、書簡もいつものようにすべて処理未処理わけて積まれている。
 そもそも居眠りする前のことがやけにおぼろげだ。通常通り書簡を片付けていたのだろうことはわかる。が、腕を枕にした覚えはないし睡魔に襲われた覚えもない。ただ気づいたらあそこにいて、そして居眠りしていた。
 再び首をかしげてみるも、当たり前だが目の前の光景は変わらなかった。

 やはりあれは、夢だったのだろうか。
 馬超が言っていた龍と会話したあの時間は。

 姜維はまた軽く頭を振ると、書簡を引き寄せて筆を手にとった。頭をすっと切り替える。
 しかし酷く残念に思うその感情はいつまでもしつこく残っていた。







 姜維は武将である。
 しかしながら馬超や趙雲と同じかというとそうではない。諸葛亮に教えを請う立場であるため、若干文官に寄った武将であると姜維自身は考えている。
 そんな理由から姜維が筆を持つ時間は馬超たちよりも少し長い。そのため文武両道を貫くためには時間の使い方が重要になってくるのである。

 普段は執務の間にある時間を使って調練場におとずれている。しかし今日はその執務を通常よりも短い時間で片付けることができたため、姜維は普段よりも早い時間から調練場にやって来ていた。
 はじめのうちは人がいた調練場も、気づくと姜維だけになっている。もうすっかり遅い時間だ。気付かなかった己に苦笑すると張り詰めさせていた集中の糸を解して息を吐いた。

 ここのところはここまで纏まった時間を取ることができなかったため気分は軽い。手巾で汗を拭い、この場を後にしようとしたところでふと入り口に人の気配を感じた。今からここに来ても時間などない。
 この時間に誰なのか、と足を止めると、ふらりと入ってくる。

「おう」
 軽く手を上げて入ってきたのは馬超だった。上げたのと逆の手には、棒の先にきつく布を巻いた訓練用の槍。姜維の手にあるそれと同じものを肩に担ぐようにして持っていた。
 今から身体を動かすのか、と内心で首をひねる。が、すぐにそうではないと気がついた。馬超の視線だ。
 彼の視線は姜維の顔からなぞるようにおりてゆき手に、正確には手にした得物に到達する。にやり、とした笑みで次の言葉は容易に理解できた。同時に心臓がひとつだけ強く胸を内側から叩く。
「手合わせ、お願いできますか?」
「俺も同じこと考えていた」
 先手を打って言葉を発すれば、即座に返ってくる了承。姜維の前に歩いてくると、間合いをとって馬超は構える。姜維も同じく得物を構えた。
 空気は一瞬で張り詰め、己の呼吸の音と一定の拍を刻む心臓の音だけが耳に入る。
 余計なものが残らず頭から消え去り、余計な力が抜ける。


 一呼吸、姜維が先に動いた。

 繰り出した突きを馬超は横から弾き、薙ぎ払うように反撃する。
 それを上体を逸らすようにして躱し、すぐさま体勢を戻すと同時に足元を狙う。が、馬超は素早く足を地面から離して間を通過させる。
 その動きを確認する前に、反射的に頭を下げるとその上を裂くように横に薙ぐ。すかさず姜維が低い位置から突き上げると馬超は弾いて飛び退った。
 すぐさま追撃すると、さらに畳み掛けるように攻撃を繰り出す。突き、薙ぎ払い、突き上げる攻撃を馬超は避け、弾き、いなす。

 その合間に細かくねじ込まれる反撃を姜維はすべて捌き、なおも攻勢を貫く。そして鋭く息を吐き出すと同時に繰り出した低い突きは、短い声とともに上から地面に押し付けられた。本能のまま槍を抜いて飛び退ると、地面に打ち付けた反動を活かした攻撃がもといた場所を下から縦に切り裂いた。そしてすぐさま地面を蹴り短く鋭い息で突き出された攻撃に、今度は姜維が守勢にまわる。
 馬超の攻撃は容赦がない。それでも勿論負ける気など姜維にはない。

 そのまま攻守を奪い合いながら打ち合いを続ける。
 が、馬超が繰り出した重い一撃を姜維はまともに受け止め奥歯を噛み締めた。殺し切れなかった衝撃は得物から手へと伝わり、強烈なしびれが次の動作への動きを一瞬遅らせる。
 しまった、と思うがもう遅い。僅かな隙を馬超は厭味のように的確に突いてくる。
 それでも十合までは凌いだが、無理な体勢では長く続かずに手の中にあった得物を弾き飛ばされてしまった。

 まっすぐに先端をつきつけられる。
 カラン、と馬超の背後に弾かれた得物が音を立てて落ちた。

「……、参りました」
 抑えた声を絞り出す。
 馬超は一拍置いて、そして得物の先をおさめた。こちらに背を向け、先程まで姜維の手にあった得物を拾い上げ、こちらに差し出す。
「俺の勝ちだな」
 にやりと口角を上げてとどめの一言。思わず苦い顔をしてしまう。
 さすがに噛み付くことはグッと堪えて睨んだ。それを見た馬超は楽しそうに笑う。
「次は負けません」
「楽しみにしている」
 差し出されたそれを受け取ると、姜維はその場に腰を下ろした。動いていた時には感じなかった熱が体中にじんわりと広がる。
 両手を尻の横につき、仰け反り上を向くような体勢になると、隣に移動した馬超もすとんと座った。片方だけ立てた膝の上に腕を置くその体勢はすっかり気を緩めている。

 しばらくは二人とも黙って身体の熱が引いてゆくのを待っていたが、そういえば、という馬超の声で静寂は破られた。
「姜維、龍に会っただろう。誰彼なく言いふらすなと文句を言われたぞ」
「はぁ、………え?」
 今日の天気を話すような気軽さで言った馬超の言葉をさらりと受け流しかけ、しかし数瞬してからそれのおかしさに気づいた。
 しかし馬超はそんな姜維を置き去りにしてどんどん話を進めていく。口を挟む間もなく次々とそれは美しいと言っていたことや、馬超の話をしたことなど並べる。だが今の姜維はそれに反応できる状態ではない。
 一度言葉を切ったあとに再び口を開こうとしたところで、なんとか頭が働き始めてすかさず声を割りこませた。
「ちょ、ちょっと待ってください!なぜ馬超殿が知っておられるのです!?」
 あれは夢の中での出来事であったはずだ。いくら姜維が夢にしたくないと思ったとしても夢であると認めるしかないのだ。実際気づいたら眠っていたのだから。
 そしてその夢の中での出来事を姜維は誰にも話していない。勿論馬超にもだ。

 姜維の剣幕に驚いたのか少し身を反らした馬超だったが、すぐに何を言っているんだ、と言わんばかりの視線を向けてくる。しかしそう言いたいのは姜維の方だ。
「何故って……龍から聞いたに決まっているだろう。お前から聞いた覚えはないぞ」
 答えてくれるのはありがたいが若干論点がずれている。そうではないとじれったさを隠さずに言えばますますわからないという表情をされてしまった。
「それは私が夢に見た出来事です!なのに何故馬超殿が、」
「なんだお前、信じてないのか?」
 姜維の驚愕と焦りの理由を馬超は今度こそ正しく理解したようだった。
 姿勢を正した馬超にまっすぐと視線を向けられ、姜維は思わず口篭る。言い返そうと口を開け、しかし何かを言う前に結局口を閉じてしまった。
 答えられなかったのは図星を指されたからではない。自分で自分の考えがよくわからず、答えとなる言葉を持っていなかったからだ。

 あの出来事は夢であるはずだった。自分でそう口にしていても、本当にそうだったのかと念を押されると自信を持って頷けない。龍とともに過ごしたあの時間が現実であって欲しいという願いがそう思わせているのかもしれない。だから夢であると断言できなかった。

 床に視線を落とし、しばらくしてからチラリと馬超をうかがう。するとしっかりと視線が合ってしまって気まずくなった。再び穴を開けんばかりに床を見つめていると馬超が一つため息をついた。
「夢ではないぞ。現実というわけでもないが」
 矛盾している言葉に姜維は首をかしげる。現実ではない時点で夢なのではないだろうか。
 じっと馬超を見つめると彼は眉間にしわを寄せた。顎に手を当ててうんうんと考えている彼を辛抱強く待ちながらも、馬超の言葉を反芻する。
 夢ではなく、現実でもないのならばあれは一体何なのか。

 しばらくして、馬超は手で自分の髪をかき混ぜながら迷うように口を開いた。
「つまり、実際あったことだが、それは現実でのことではない。だがしかし、夢のように、いわばお前の想像の産物でもない。わかりづらいことは承知の上だが、なんと説明すれば的確に伝えられるか……俺にはわからん」
 それはまるで謎掛けのような言葉だった。普段からはっきりとした答え方を好む馬超の言葉だとはにわかに信じ難い。しかしたしかに目の前の馬超が言ったことであった。
 再び二人の間には静寂が満ちる。ただひたすらに考えていた。姜維はその意味をなんとか理解しようとするために、馬超はよりわかりやすい例えをひねり出すために。
 しかしそんな努力も第三者の声に中断することとなった。

「馬超殿に姜維、こんなところに座り込んで何をしているんだ?」
 背後からかけられる声。振り返ると趙雲がこちらに歩いてくるところだった。その彼の格好は槍を振り回すにはあまり向いていない。調練場に遅くまで残っている者がいることに気づき、心配して見に来ただけなのだろう。
「先程まで馬超殿と手合わせしていたのです」
「そうだったのか。しかしそろそろ切り上げたらどうだ?」
 勝負はついていたので趙雲の言葉に異論はない。
 姜維は頷くと立ち上がった。馬超も槍を手に立ち上がる。
 そして使った得物をさっさと片付けると、三人並んで回廊を歩く。二人が姜維を挟んで両隣に並ぶのが三人でいる時の並び方だ。姜維が予想するにいざという時の仲裁役という意味で間に押し込んでいるのだと思う。実際何度かあしらったこともある。

「しかし羨ましい。次の機会には私も混ぜてほしいな」
「一向に構わんぞ。どのみち勝つのは俺だからな」
「そして私がその馬超殿に勝利します」
「ははっ、私だって負ける気はないぞ?」

 趙雲のあとに俺だって負けんと言い切った馬超は姜維の首に腕を回し、ふざけて締めてくる。大げさな動作で姜維が解こうとする姿を見た趙雲は助けるわけでもなく笑っているだけだ。
 話題はあちこちに流れ、しまいには今夜飲むかというところに着地した。

「私は明日昼からなので問題ありませんよ」
「よし、なら行くか!」
「馬超殿はほどほどにしておいたほうがいい。明日朝からだろう。また馬岱殿に怒られるぞ」
「うるさいな、お前も馬岱も俺の母親か」
「嫌なたとえをするな」

 趙雲は心底嫌そうな顔をしてみせると馬超を睨む。馬超もまたうんざりとした表情を浮かべている。彼らの様子に姜維は内心で笑うと巻き込まれないように一歩前を歩いたのだった。








「で、お二人ともまるで子供のようにじゃれあっているものですから面白くて…」
「貴方は混ざらなかったのですか?」
「離れたところから見ているから面白いのです。これ以上とばっちりを喰らいたくないですしね」

 姜維が少しおどけてそう言うと、隣で話を聞いている龍が尻尾でぺたぺたと水面を叩く。これは面白いと感じた龍がする仕草だ。
 初めて龍に会ったあの日以来、姜維は度々夢とも現ともつかぬその空間で龍に会うようになっていた。少なくとも彼の感情が尻尾に出やすく、嬉しいとき、気を落としているときなどの場合、どのような動きをするか分かる程度には回数を重ねている。

 龍と顔を合わせる場所は一番初めと同じ水面のような地面が果てもなく続く場所だった。はじめのうちは昼間でも夜でもぼんやりした途端にこちらに飛ばされていたが、最近は慣れてきたのか寝るために寝台に入ってからだ。
 疑問に思うことはいくつかあったが、それも次第に気にならなくなっていった。特に害になることはないし、何より龍と過ごす時間はとても心地よかったからだ。
 何度か悩みを打ち明けたことがあるが、真剣のこちらの話を聞いてくれるし、誠実な答えをくれる。龍の性格がそのまま表れていた。それに龍は真面目なだけでなく、どことなく子供のような無邪気な面も持っていた。
 姜維の目にはとても魅力的に映っていたのだった。

 ひとしきり笑った後、姜維はふと彼を呼ぼうとして、しかしそれをできずにやめてしまった。そして思わず驚きの表情を浮かべる。
 呼ばれなくとも姜維が話しかけようとした思考はつたわったのだろう。龍は首を傾げてみせる。
 大したことではないが重要な事ではある。今まで気づかなかったことがおかしいくらいだ。

「そういえば、何度も会っていますが貴方の名前を知りませんでした」

 互いに相手の名前を呼んだことがなかったのだった。
 強いて言えば、一番初めに呼んだ「龍」や「麒麟」がそれに該当するのかもしれないが、それは例えば姜維のことを「人」と呼ぶことと同義である。

「御名前を伺ってもよろしいですか?」

 早速尋ねてみると、それまで目を見開いていたその龍は途端に俯いてしまった。その背後では尻尾が頻繁に水面を叩いている。
 姜維としてはおかしなことを言ったつもりはなかったので、龍の様子に首をかしげるしかない。それが面白かったのか龍は身を震わせ、しまいには声を上げて笑い始めてしまった。

「あの……」
「す、すみません…っだって、何回顔を合わせているんですか、ふふふっ…」
「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか……」
 龍のあまりの笑いぶりに思わず情けない声を漏らしてしまうが、それすらも火に油を注ぐ結果となってしまったようだ。先程から尻尾がぺちぺちと忙しなく水面を叩いている。まるで犬の尻尾のようだ。
 容赦の無いその様子に姜維はムスッとして龍に背を向ける。するとああすみません、と笑いながら謝ってきた。どうやら笑いを止める気はないようである。

「で、お名前はなんというのですか?」

 ようやく落ち着いてきたところで尋ねると、龍の目には悪戯っぽい光が差した。
 そして姜維がどうしたのかと尋ねる前に彼の声がとどく。

「秘密です」

 何故、と聞き返す前に龍は「貴方は知っているはずです」と付け加える。
 つまるところ会ったことがある、ということなのだろうか。しかし姜維には龍の知り合いなど彼に会うまで作った覚えはない。

 と、そこでひとつの考えが頭をかすめた。
 もしや目の前の龍も人なのではないか。
 姜維は龍から視線をそらし、顎に手をやると忙しく頭を働かせた。
 己のここでの姿は麒麟であるが、姜維は紛れも無く人である。そのことを考えると、相手の龍の姿はこの空間だけの姿なのではないだろうか。
 姜維がちらりと龍を見るとしっかりと目が合った。やはり悪戯っぽい色がこもっている。

「当ててみてください。合っていたらちゃんと教えますので」
「は、はあ……」

 龍があまりにも楽しげに念を押すので、姜維は曖昧な声をこぼしながらも思わず頷いてしまったのだった。





―――――
「、…維、姜維、大丈夫ですか」
「っ丞相!?も、申し訳ありません!」

 はっと気がつくと諸葛亮がまるで何もないところから湧いて出たようにそこに立っていた。もちろんそんなわけはない。姜維は自分がぼんやりとしていたことに気づいて慌てて謝罪する。
 その拍子に手にしていた筆がべちゃりと書簡を汚した。
 ああああ、と焦って筆を置くがもう遅い。

「姜維、落ち着きなさい。私は叱ろうとしているわけではありません」
「申し訳ありません……」

 気遣うように告げられ、姜維は肩を落とした。
 何かあったのではないですか、と尋ねられて姜維は黙って首を振る。悩みなどという大層なものではない。気にかけてもらうことが申し訳ないほどの事だった。

「本当に大丈夫です丞相。集中力が足りていませんでした。以後気をつけます」
「…そうですか。無理はいけませんよ」
「はい、ありがとうございます」
 諸葛亮は心配を滲ませた視線を向けながらも特に尋ねることはせずに姜維から離れた。こちらのことを考えてくれていることがわかるそれに、己の中の罪悪感はむくむくと育つ。心の中だけでもう一度申し訳ありませんと呟くと、一度置いた筆を再び手にした。

 諸葛亮が気にかけるのも無理はない。姜維が執務中に意識をよそに飛ばしてぼんやりすることは初めての事だった。
 先ほど汚してしまった書簡は押しやって新たなものを引き寄せる。手はすらすらと文字を綴ってゆくが、頭の中を占めるのは美しい龍。姜維の意識が飛んだ先にあったのは龍のことであった。
 名前を尋ねたあの日からもう10日ほど経過しているが、何故か龍に会うことができなくなってしまっていた。2日ほど姿を見なかったことは何度もあったのだが、これほど期間がひらいたことは今までなかった。はじめのうちはどうしたのだろう、と首をかしげる程度だった疑問も7日を過ぎたあたりから何かあったのだろうか、という不安にすり替わっている。
 そしてもうひとつ。
 不安で埋まっている頭の隅に龍との会話が居座っていた。
 会ったことがある、しかし姜維の記憶にはない。
 ならばあの姿ではない。しかし誰なのかはわからない。
 あれは、誰なのだろうか。
 そんな疑問がぐるぐると答えという出口を探してさまよっている。10日経過した現在もわかっていなかった。

 再び意識がそちらに傾いていることに気づいて姜維はふるふると頭を振った。いつのまにやらまた手が止まっている。姿勢を正し、目の前の書簡に集中しようとするが、意識はしつこく龍の方へと逸れる。
 結局姜維はため息をついて筆を置いた。このまま続けてはまた余計な失敗を重ねてしまう。少し頭を冷やす必要があった。
 それにしても、と姜維は眉間に指を置く。

「無事なのでしょうかねぇ……」

「誰のことだ?」

 誰かに聞かせようとしたわけではなく、ただ呟いた問いに声が返ってきて、姜維は飛び上がらんばかりに驚いた。バッと顔を上げるとそこにいたのは趙雲。いつもの穏やかな表情で首を傾げている。
「趙雲殿!?どうしてここに…」
 姜維の問いに趙雲は口を開き、
「少し諸葛亮殿に用事があったからな。そちらはもう終わったが、」
 そして視線がすい、と逸れた。その視線の先には黙々と机に向かう諸葛亮の姿。
「姜維のことが心配だから息抜きさせてやってくれ、とかなり遠回しに言われたんだ」
 ふたつの視線に気がついたのか、諸葛亮の視線が上がってこちらを見る。が、すぐにそれは伏せられてしまった。すぐにまた筆を動かし始める。
「ご心配をおかけして申し訳ありません……」
「諸葛亮殿には姜維を休憩に連れ出すと言ってある。行こう」
 趙雲は机の上の姜維の手を取ると立ち上がらせる。言葉になりきらなかった姜維の言葉はことごとく無視される。趙雲にしてはいつになく強引だ。普段と異なる趙雲に戸惑い、強く出ることができずに引きずられてしまう。
それでも諦めずに言い募ろうとした姜維から趙雲は視線を外すと、熱心に机に向かう諸葛亮の方を見た。
「では諸葛亮殿、借りていきますね」
「ええ、どうぞ」
 諸葛亮は視線を落としたまま素っ気なく返事をし、改めて了承を受け取った趙雲はぐいぐいと姜維の腕を引っ張っていく。立った時すでに体勢を崩していた姜維がそれに勝てるわけもなく。
「え、あ、ちょ、す、すぐ戻ります!」
 そのままずるずると引きずられながらも何とかそれだけを告げたが、返事が聞こえる前に部屋を退出することとなった。



 ずんずんと進む趙雲が選んだ場所は殆ど使われることのない書庫だった。古い書簡や解読が困難なほど汚い字で書き殴られた生成りの布が放り込まれている場所で、滅多なことでは人が入ってくることはない。ここにある情報がさほど重要なものではないこともまた理由の一つだった。
 中に入ると姜維の腕を放し、奥の窓を開け放つ。ふわりと入ってきた風が埃っぽい空気をさらっていく。無意識にほっと息を吐くと趙雲もまた息をひとつ吐いて棚に寄りかかった。
「で、何かあったのか?」
 その声はどこまでも穏やかだ。他愛無い話をするかのように切り出した趙雲にちらりと視線を向けると、彼はまっすぐと正面を見ていて横顔しか見えない。それがまた何気なく、という姿勢を表しているようで、まるで余計な力を抜くように促しているようだ。
「何か、というほど大層なことではないのです…」
 視線を床に落としようやくそれだけを告げた。しかし趙雲はそれに対してすぐに口を開く。
「しかし諸葛亮殿に呼ばれていることにすら気づかないほど考え込んでいたのだろう?姜維の中では大きなことなのではないか?」
 それは、そうなのかもしれないが。
 姜維は手を無駄に遊ばせながら口を閉じる。しかし、人に相談するにはちっぽけなことに思えてしまうのだった。
 視線を下げたままそわそわと視線をあちこちに飛ばす。
 そんな姜維の様子に趙雲はふ、と息を吐くような優しい笑みをこぼした。
「どんな小さなことでもいいさ。勿論無理して話す必要もない」
 強引に引っ張りだすのではなく、そっと扉を叩くようにして趙雲は促す。それは実に彼らしく、結局のところ姜維は躊躇いながらもぽつぽつと龍のことを話してしまった。
 馬超から龍の話を聞いたこと。
 夢とも現ともつかぬ場所でその龍に会ったこと。
 それ以来何度も会っていること。
 龍の名前がわからないこと。
 しかし自分は知っているはずであること。
 最近さっぱり会えないこと。
 姜維が思いつくままに続ける拙い話を趙雲はただ黙って聞いていてくれた。

「『貴方は知っているはずです』と、あの龍はそう言ったのです。ということは、私はどこかで会っているのか、もしくは誰でも知っているほどに名の知れた方であるのか……。しかしやはり私にはわからないのです」
 執務中にこんなことを考えているのはよくないとわかっているのですが、と締めくくり、姜維はそこで言葉を切った。途端に書庫は元の静寂を取り戻す。窓から差し込む光が書庫の中を舞う埃をきらきらと映し出している。それを姜維は黙って眺めた。
 長いのか短いのかよくわからない沈黙のあと、ぽつりと趙雲は言葉をこぼした。

「なるほど……龍か。羨ましいな、姜維は」
 それは楽しそうな色が含まれている言葉だった。だからといって、からかっているような様子は微塵もない。思わず姜維が趙雲に視線を戻すと、彼の視線はいつの間にかこちらに向いていた。浮かぶ笑みはどこかむず痒さを運んでくる。
 やがて趙雲は棚から背中を離すと窓の方へと歩いていった。
「焦らなくとも大丈夫じゃないか?」
 そしてくるり、とこちらを振り返るとそう言った。答えになっていないかもしれないが、と苦笑を浮かべながら趙雲は続ける。
「知っているのならば答えを出すこともできるだろう、きっと。龍も嘘はつかないと言ったのだろう?」
 姜維はこくりと頷く。合っていたらちゃんと教えるとあの龍は言った。それは確かだ。
 ならば大丈夫だ、と力強く趙雲は言う。
「私が保証する。姜維ならきっとわかるさ」
「どこからその自信は出てくるのですか」
 やけにきっぱりと言い切った趙雲に姜維は眉を下げて問う。

「私の勘だ」

 きっぱりと言い切った趙雲は、彼には珍しくにやり、という表現が当てはまるような笑みを浮かべていた。
 とくり、と鼓動が内側から優しく、しかし確かな力で胸を叩く。そして何か、言葉では言い表せないものを全身に運んでゆく。

 このような表情をよく浮かべる人物といえば馬超である。趙雲のこんな表情は初めて見たと言ってもよかった。
 しかし馬超ではなく、どこかでこんな表情を見たことがあるような気がした。頭の引き出しをひっくり返す勢いで考え込むが、いくら探しても見つからない。
 趙雲の方はといえば姜維のその様子に気づかなかったようだった。開け放していた窓を閉めるとこちらに歩み寄ってくる。
「さて、そろそろ戻ろう。あまり姜維を独り占めしていては諸葛亮殿に文句を言われてしまう」
「え?あ、そうですね…?ってあの、独り占めって、もっと他の言い方が…。しかし確かに思ったよりも話し込んでしまいました。ありがとうございます」
「はは、少しでも姜維の役に立てたならよかった」
 扉を開け、趙雲が外に出てから姜維も部屋を出る。
 趙雲の言うとおり、待っていれば案外答えは見えてくるのかもしれない。そう思う余裕が生まれていることに気づく。
 それに名前がわからないからといって今の関係が変わるわけではないのだ。そんな些細な事を忘れていた。
 姜維は趙雲の隣に並ぶと来るときとは打って変わって軽くなった足取りで回廊を歩き出した。






 せめて龍に会いたいと考えていたが、やはりなかなかその機会は訪れなかった。何故かと考えてみるも相変わらず理由はわからない。
 いくら悩んだところでわからないのだから、と結局はきっと誰なのかを考えるための時間をくれたのだろうと思い込んで考えないことにした。答えの出ないことをわかっていて悩むくらいならば考えないことにしたほうがまだいい。それに趙雲が言っていたように焦る必要もないとわかったのだから。

 それでも少し寂しさを覚えながら毎日を過ごしている。馬超に龍とのあれこれをちらりとこぼしたら、お前名前知らなかったのかと呆れたように言われた。馬超としてはもう既に知っているものだと思っていたらしい。

「馬超殿は教えてくれないのですか?」
「龍が秘密といったのだろう。なら俺から言うわけにはいかん」
「でも知るための方法については何も言われていません」
「簡単に答えがわかったら面白くないだろう」
 楽しんでいるのは馬超殿だけじゃないですか、と言おうとしてやめておいた。馬超のこのにんまりとした笑みが深くなるだけだとわかりきっている。しかし目は雄弁に語るようで、にやにやとこちらを眺めてくるものだからため息しか出ない。
 まったく…、とこぼしてそれよりもと机の隅を人差し指で3回叩いた。
「さっさと仕上げてください。それの期限は昨日だったのですからね?」
「わかったわかった。今書いている」
「今書き始めたの間違いでしょう。止まっていましたよ、手」
「いちいち細かい奴だな」
 先ほどまで馬超が浮かべていた笑みは途端にうんざりとした表情に変わる。
 馬超が今書いているものは昨日届けられるはずだった書簡である。馬超曰く、他のものに混ざっていて気が付かなかったのだとか。しかしこれがないと作業が進まない姜維からすれば、そのような言い訳などどうでもいいことである。とにかく早く終わらせて提出さえしてくれれば。
 馬超が終わるまで手持ち無沙汰になってしまった姜維は部屋を見回すと散らばった書簡を拾い始めた。きっちりと片付いている姜維の机周りとは反対に馬超のいるこの部屋は机どころか床まで汚い。書簡や生成りの布が床にまで散乱し、足の踏み場に困る部屋である。これでは書簡が紛れてしまうのも当然だ。さすがに重要な書簡は机の上にあるのだろうけども。いや、そうだと思いたい。

 床に落ちたものを一箇所に寄せ集め、中身を見て重要ではないもの、期限が近いもの、資料など黙々と分類していく。さほど頭を使うことがない作業は時間を潰すのにうってつけだ。
 そうして無言で部屋を整理していた姜維だったが、唐突に名前を呼ばれて一度手を止めた。
「なんですか」
「姜維はどこまで龍のことを知っているんだ」
「どこまでと言われましても……」
 脈絡もなく話を振られ、思わず真面目に考える。

 龍の名前を知らないことに気づいたとき、姜維は自分が思っていた以上に龍のことを何も知らないという事実を思い知ったのだ。
 誰なのか、そんな単純なことすらもわからない。
 他にも何が好きで何が嫌いなのか、馬超の話が本当ならばどのくらい強いのか、ここまでどのような生活を送ってきたのか。
 確かに親しい相手であっても知らないことは多くあるだろう。しかし、あれだけ会って話をしていたにも関わらず何も知らなかったのだ。
 知っているのはあの美しい姿と優しさ、感情で動く尻尾とそして時折見せる悪戯っぽいところだけだ。

 しかしあの悪戯っぽいところはどこかで見たことがあるような気がするのだ。
 馬超のそれはよく見かけるがそれではない。第一、馬超はあの龍ではない。
 どこだったか、思い出せない。

「おい、結局どうなんだ」
 言いかけたまま黙りこんでしまった姜維に焦れた馬超が続きを促す。その言葉は素通りしかけ、しかしかろうじて捕らえられる。が、捕まえた姜維がこぼしたのは意味のない言葉だ。
「え、あ、はい?」
「だから、結局はどうなんだと聞いている」
「ああ、そうですね…、殆ど知らないと思います」
 止めていた手を再び動かしながら答える。馬超が無言で先を促した。
「いつも当り障りのないことを話していましたから。…というか、馬超殿もご存知かと思うのですが」
 馬超は龍の正体を知っているし、以前に話の内容を聞いているというようなことを言っていた。知っていてもおかしくはない。しかし馬超から返ってきたのは否だった。
 思わず馬超の方に視線を向けると、筆を置いた彼は面倒なものを見る目で天井を見つめる。龍と会話した時のことを思い出しているらしかった。
「可愛いだのいい子だのそればっかりで話そうとしない。なんだあいつは」
「………私は子どもではないのですが」
「龍に言え。弟か何かだと思っているのではないか」
 しっしと手で追い払うようにしながら馬超は言う。しかし弟、と言った時の彼の表情はいつものそれだ。もはや文句を言うことすらも面倒で、黙って書簡の紐を結ぶ。
「しかしあんなに楽しそうにしているのは初めて見たな。まるで悪戯小僧のようだった」
「そうなのですか?」
「ああ、普段は落ち着きのある奴だからな。ああいうどこか子どもっぽいところは珍しい」
「なるほど…」
 普段落ち着きのある人なのか。
 確かにその雰囲気からして落ち着いているのはわかる。人でもやはりそうは変わらないのかもしれない。
 さらに促そうと視線を向けると言いかけた馬超は口を閉ざしてしまった。どうやらこちらの思惑に気づいたようである。こういうところは鋭い人だ。
「ほら、仕上がったぞ。これを持ってさっさと出てけ」
「その言い方はひどいですよ」
「なんとでも言え。俺はこれ以上龍について口を滑らせるつもりはないぞ」
 紐まできっちりと結ばれたそれを押し付けられれば姜維がここにいる理由はなくなってしまう。
 仕方なく諦めると未分類のものを一箇所にまとめる。
「こちらは見ていないのでわかりませんが、こちらは左から期限が近いものです。それと重要ではなさそうなのはその山です。一応確かめてください」
「助かった。助かったから出てけ出てけ」
 敬えとはさすがに言わないし言える立場にはない。だがしかしもっと言い方というものがあるのではないかと思う。
 それだけ馬超はうっかりこぼしたくないらしい。ますます気になるところである。しかしこちらの思惑が相手にばれてしまっている以上口を滑らせはしないだろう。ならばさっさと撤退するに限る。
「私は諦めませんからね!」
「はは、頑張れよ」
 最後に一言捨て置いて部屋を出ると、背中に小憎たらしい笑い声が投げかけられた。




2013/12/24