気づいたらそこは砂漠だった。
 思わず呆然と立ち尽くし、数瞬後に目を擦ってみるがその光景は変わらない。
 昼間のきつい日差し、乾いた空気。
 たしかにそれは懐かしい、故郷の砂漠だった。
 足を一歩踏み出すとさくり、と足が砂に沈む。久しく忘れていた感触。

 …夢を見ているのだろうか。

 自分はここに戻ることはできないし、ここを含めた大切なものはすべて手からこぼれ落ちてしまっている。ここに立っているはずがないのだ。それに何よりもまず、自分は今ここから遠く離れた蜀の地にいるはずである。
 そうだ、ならばこれは夢だ。
 引っかかることはあるものの自分の中でそう結論を出すと、馬超はまずこの日差しから逃げるために離れたところに見える大きな岩を目指して歩き出した。
 さくり、さくりと砂を踏みしめると、記憶が奔流となって次々と溢れ出る。
 馬岱と共に過ごした幼少時代、厩にこもって馬と過ごしていた時間、初陣の戦。
 愛しいその時間たちは、今はただ乾きかけた傷を弄るようなかすかな、しかし無視できぬ痛みを生み出すだけである。
 無言で歩き続け、ようやく岩の影にたどり着いた馬超は寄りかかって腰を下ろした。日に焼けた砂とは打って変わってひんやりとしたそれは気持ちいい。かぶっていた兜を外して膝の上に置くと息を吐く。
 さて、これからどうするべきか。
 気づいたらここに突っ立っていたものだから方角などさっぱりわからない。そもそも馬も水も食べるものもない状態では方角がわかったところで意味はないだろうが。

 そのようなことを真面目にうんうんと考えていたせいで、馬超はもう一人の気配に気づくことができなかった。

「あの……」

「っ!?」
 躊躇いがちにかけられた声に馬超は飛び上がらんばかりに驚いた。思わず警戒心をむき出しに声の方を睨むと、相手は怯えたようにびくりと肩を跳ねさせる。子どもだった。
 座った馬超とほとんど変わらないくらいのその子どもは、色素の薄い髪の色をしていた。瞳の色にも、肌の色にも覚えがある。いや、覚えがあるどころではなかった。
 その子どもの容姿は馬超と全く一緒であった。
 その少年はたしかに馬超であった。
「ご、ごめんなさい……。あの、」
「いや、こちらが悪かった。怖がらせてしまってすまない」
 怯えを取り除くように普段は出さない柔らかい声を意識してかける。
 大丈夫、と返される声はまだ声変わりが終わっていないらしく幾分か高い。
 着ている着物から覗く腕の皮膚はなめらかで傷ひとつない。きっとその手も肉刺がないやわらかなものなのだろう。随分昔にすでに通り過ぎた地点の馬超は、今の馬超にとっては触れることすらも躊躇う、そんな存在だった。
 と、少年がじっと自分の髪を見つめていることに気づいた。目の前の少年と同じ色素の薄いそれ。西涼の人々の中には黒ではない髪色を持つ人間もたしかにいるが、馬超の髪はその中でもひときわ目立つほど色素が薄かった。あの頃は馬岱の髪色が羨ましいと思ったことがあったような気がする。だとするとこの少年もそうなのかもしれない。何しろ彼は自分自身だ。
「珍しいか?」
「こんな色してる人、他にいない…」
 心なしかしゅんとして自分のそれを摘む。やはりそうだったらしい。
 馬超は腕を伸ばすと少年の頭をくしゃくしゃとかき回した。うわっと狼狽える様子がなんだかおかしい。自分にはもう残っていない部分だからかもしれない。
「俺と同じだ。一人だけじゃないだろう。それに、」
 この髪が好きだと言っている奴がいる。
 そう続けようとした言葉をつぐんだ。
 蜀に降った頃から何かと纏わりついて人懐こい笑みを浮かべていた男。その男は馬超のその髪をみて綺麗だと呟いたのだった。
 おそらく初めて彼の口からそれを聞いたときは、眉間にシワが寄っていただろう。馬鹿にしているのか、とすら思ったはずだ。今ならばそれは本心から言っているのだということが嫌というほどわかってしまうけれども。
「それに?」
 少年の声が割り込んできて馬超の思考は中断された。苦笑してなんでもない、と答えると横に座るよう促した。その子は素直に馬超と同じように砂の上に腰を下ろす。
 とす、と座った少年はやはりまだ小さい。これから先に起こることを何も知らない、やわらかな己。触ったら壊れてしまいそうだとすら思う。

 きっとこの子はわからないだろう。
 自分が今どれだけ幸せの中にいるかを。
 どれだけ触れるすべてが愛しいものかを。
 失って初めてそのことに気づくものだ。
 じくりと胸が痛む。己の居場所はここではない、と馬超にこれ以上ないほど突きつけていた。
 もうここは馬超の帰る場所ではないのだ。
 馬超の帰る場所はただひとつ。仁の世を掲げる男のもとに集まる人々のいる国。あの男がいる場所。

(いや、)
 あの男の、ところか。
 嫌でも気づいてしまったことに思わず眉間に皺を寄せた。しかし一瞬でも思ってしまったことは取り消せない。
 自分は今確かにあの男を、ただひたすらに己を甘やかそうとするあの男を脳裏に浮かべてしまった。

 隣に座る少年と他愛もない話をしながら、馬超はその事実から全力で目をそらし続けたのだった。





 気づいたら見覚えのある道を歩いていた。
 視界に映るものはすべてが低く、成都の空よりも幾分か広く感じる。懐かしさが胸を突く。
 趙雲は動かしていた足を止めると首をかしげた。この場所にはもうずっと戻ってきてはいないし、これから先も戻ってくることはないだろう。
 ここは幼い趙雲が生まれ育った故郷だった。まだ槍ではなく鍬を手にしていた頃にいた場所。
 暫くの間ぼんやりと突っ立っていたが、趙雲はかすかに残る記憶を辿ってかつての家がある方向へ歩き出した。周りには誰もおらず、そこには趙雲ただ一人だ。
 と、そのとき、向こう側から一人の幼子が歩いてくるのがみえた。誰だろう、と足を止めてこちらに来るその子をよく見る。
 どくり、と大きく心臓がひとつ跳ねた。

「あの、兄上を知りませんか…?」
 趙雲の目の前で足を止め、くりくりした目で見上げてくるその子どもは、記憶の中の幼い兄に瓜二つであった。
 しかしこの子どもは「兄上」と言った。ということから導き出される答えはひとつである。にわかには信じがたい話ではあったが。
 幼い己の姿を目にした趙雲が考えたことは、こんなふうに他人から見えていたのか、ということだった。
 まだ槍を持っていない事がわかるその手はふくふくと柔らかそうで、穢れを知らないのだろうとすぐにわかる。どこかひょろりとして頼りないその体が、時を経て現在の己になるとは想像がつかなかった。
「あの…?」
「え、ああすまない。ここに来るまでは誰とも会わなかったからわからないんだ」
 しゃがんで目を合わせて告げる。
 この頃の自分は、兄には父とはまた違う憧れを抱いていた。己には出来ないことを軽々とやってのけるその姿が自分よりもずっと大きく映っていたものだ。だから趙雲は兄の背中をよく追いかけていた。目の前の子どものように。

 趙雲の言葉を聞いた途端にしゅんとするその子どもに罪悪感がむくむくと膨らんでいく。役に立てなくてすまない、と続けると大丈夫だと返ってきた。しかし一人ぼっちで置き去りにされたような雰囲気はそのままである。
「私もここまでずっと一人だったんだ。君がいいのならば一緒に探してもいいかい?」
 俯く幼い己に、思わずそう声をかけていた。途端に顔を上げて目を輝かせる彼は頷く。こんなに素直に大きく感情が動く時期があったのかとくすぐったい。
 纏う空気がにわかに明るくなったことに安堵して、趙雲はその隣に並んだ。

 並んで歩いている間、幼い自分が話すことはほとんどが兄のことだった。
 いつも優しいとか、どこに行くときでも一緒だとか、極希に食べることができる干した果実や肉をこっそり自分に少しくれるのだとか。掘り起こしてみると心当たりがあることばかりだ。
 それに相槌を打ちながら、こんな時期があったのだとしみじみと趙雲は思う。趙雲がここまで生きて見てきたものをまだ知らない時代。誰かをひたすらに愛するよりも、どちらかというと愛されていた時代。この頃は兄からただ与えられる無償の愛情を受け取っていた。
 それは今の趙雲には少し眩しい。

「お兄さんには、誰かいる?」
「ん?」
「兄上みたいに優しくしてくれる人」
 ひと通り兄について話し終えて少しの間があいた後に、唐突に隣の彼が趙雲に尋ねた。見下ろすと首を傾げているその子がまっすぐとこちらを見上げている。無意識に口元に手をやりつつ考えると、やはり初めに出てきたのは不遜な笑みが恐ろしく似合うあの男であった。が、しかしすぐに苦笑が漏れる。
「どちらかというと…、私は君の兄上みたいなのかもしれないな」
「兄上?」
 趙雲は頷いた。
 正確なところは違うのだがおそらくそれを説明したところでこの子にはわからぬであろうし、自分もうまく説明できはしないだろう。
 優しくしている、という類のものではない。この子が受け取っているような綺麗なものではない感情を、ただひたすら馬超に注いでいるのだから。
 そして馬超は、いつからかそれを突っぱねることなく受け取ってくれるようになった。時々皮肉を食らうことはあるが、そこに込められている感情を拒否されることは基本的にはなくなった。

「あ!兄上!」
 突然隣の彼が走りだした。走ってゆく先には幼い己よりも若干背の高い少年の後ろ姿。あの背中には見覚えがあった。懐かしい、大好きな背中。
「兄上…」
 そっと、久しく口にしていなかったその言葉を紡いでみる。あれほど呼んでいた言葉なのに口に馴染みがなくて苦笑をこぼす。
 幼い己が兄の隣に並ぶ様子を立ち止まって眺めながら、趙雲は無性に馬超に会いたくなった。
 会いたくて仕方がなかった。








「……珍しいな」
「…帰る」
 思わず目を見開いて目の前にいる男を見つめると、彼はばつの悪いような表情を見せた後くるりと踵を返す。慌てて引き止めると趙雲は自邸へと招き入れた。
 月の見えない闇夜の、それも日付が変わる頃に馬超はやってきた。今まで趙雲から馬超の邸を訪ねることはあっても馬超の方から、それも唐突に尋ねてきたことは一度もなかった。
 どうしたのだろうか、と思いつつも趙雲は歩き始める。後ろにいる馬超はさり気なく辺りを見回しているようだ。その様子が何故かおかしくて、趙雲は口元に笑みを浮かべながら自室へ案内した。
「ここはお前の部屋じゃないのか」
「今までここで飲んでいたんだ。こっちの方が早い」
 馬超の問いにさらりと返すと、床几を引き寄せて馬超に示した。そして自分は一度部屋から出て、杯をひとつ持ってくる。それを馬超に渡してから趙雲はまだ中身の入った杯を手に寝台の上に座った。馬超は一度立ち上がり、机の上に置いてあった瓶を傾けて杯を満たすと再び戻ってきて座る。

 なんともいえない沈黙が二人を支配していた。
 ただ杯を傾けるだけであるからその減りは早い。傾けて、いつまでたっても流れてこない液体に、ようやく杯が空になったことに気づいた趙雲はため息をひとつ吐いた。
 そして口を開く。

「……無性にあなたに会いたいと思っていた。だから、来てくれたことには驚いたけど嬉しかった」
 馬超は何も喋らない。
 趙雲は思いつくままただ紡ぎ続ける。
「夢を見たんだ。懐かしくて、優しくて、けれどさびしい夢を。その時考えたのが貴方の事だった」
 他に何も考えなかった、と続けてから趙雲は立ち上がると、机に近づいて杯を満たす。かすかに揺れるその水面は暗い。
「どうしようもなくさびしく思って、居ても立ってもいられなくなって、貴方のところに行こうと思った」
 吐息だけで笑ってその場で一気に酒を流し込むと、杯を机の上に置いて寝台に戻ってくる。
 正面から見た馬超はなんとも言えない表情を浮かべていた。どう答えるべきかわからないといった表情。それに趙雲は苦笑した。
「たかが夢、と思われても仕方ないことだとはわかっている」

「そうは、思わない」
 そうだな、といつもの笑みで即答されるのかと思っていた趙雲は、思わずじっと馬超のことを見つめてしまった。それに気づいた馬超が視線を逸らすと杯を煽る。それでもなお視線を逸らさずに見つめ続けるとやがて観念したように肩の力を抜いた。
「俺もだ。似たような夢を見た。だから、お前に会いに、きた」
 馬超を見つめたまま、趙雲は目を見開いた。
 今までこのような言葉を馬超の口から聞いたことがなかった。言うのはいつも己の方だったから。
 他の誰でもない、趙雲に会いたくなったのだと、馬超は言外にそう告げたのである。
 思わず立ち上がると杯を持つ馬超の手首を掴んだ。普段ならば振り払われるであろう趙雲の手を馬超は振り払わなかった。
 たったそれだけのことに胸の底から言い表しがたい何かが込み上げてくる。どうしたらいいのかわからずに趙雲は何も考えず、ただ掴んだ手首を引いた。
 突然のことに引き寄せられ、驚いたような表情を浮かべた馬超の顔が近づいてきて視界を埋め尽くす。
 そのまま衝動にまかせ、趙雲は半ば喰らいつくように馬超の唇に己のそれを押し付けた。
 やはり馬超は拒否しない。それどころか迎えうつかのように口を開くと舌を差し出してくる。カッと一瞬で込み上げてきたものが燃え上がったかのような錯覚を覚えた。
 歯がぶつかり合うがそれに怯むことなく舌を這わせる。水音が密やかに響き、耳は何かが床にぶつかる音をかすかに拾う。ようやく顔を離すと銀糸が伸びたあとぷつりと切れた。
「拒否しないんだな」
「して欲しかったか?」
「まさか」
 自然と囁くような声になる。まるで秘密を共有するような、優越感にも似たものがじわじわと心を満たす。
 さびしさが遠のいてゆく。
「さびしかった?」
「どうだかな」
「私はさびしかった」
「さっき聞いた」
「今はそうでもない」
「……、俺もさびしくないな」
「そうか」
 ならよかった、と笑みを浮かべる。すると馬超はばつの悪そうな表情をしたあと、唐突に掴まれた手に視線をやって放せと訴えてきた。掴んだまま首を傾げてみせると、途端にその表情は普段見せる不遜な笑みに切り替わる。
「子どもにはわからないことをするんだろう。これでは脱げん」
 思わず趙雲はぽかんと呆けてしまったが、言わんとすることを理解しすぐに慌てて手を放した。
 赤みがかった馬超の手首にちらりと視線をやりながら、本当におなじような夢を見たのかと胸の内だけで呟く。
 が、豪快に脱ぎ捨てられる長袍にそんなことはすぐにどうでも良くなった。

 自分は兄上のようなものだ、と幼い己に言った言葉をやはり訂正せねばなるまい。




ごみ箱にあった「帰る場所」に加筆修正したものです。兄上大好きちび趙雲だったらいいなというのと素直なちび馬超いいなっていうのが書けたので満足だった。
2013/6/19 ごみ箱
2013/9/3 加筆修正