いい天気だった。青い空にはふわりと雲が浮かび、風は優しく髪を揺らす。暑さも和らいで空気には秋の気配が感じられる。ここ最近はずっとはっきりとしないぐずぐずとした空だったが、今日はどうやら機嫌がいいらしい。そして幸運なことに趙雲が休みである日でもあった。せっかくの天候なのだから外に出なければ勿体無いというものである。
 愛馬と共に厩を出ると、さっと跨る。戦場ではない、ただ純粋に走ることを楽しむために走らせたのは久しぶりだ。そのせいか普段よりも嬉しそうに駆ける。
 風を感じながら駆ける趙雲の脳裏に浮かぶのは、よく己の隣を駆けていた男。隣に、と言っても、無茶な手綱捌きであっさりと前に出てこちらに背中を見せていた男だ。もうその背をみることは叶わない。
 趙雲の心のなかを読んだかのように愛馬が少しだけ速度を緩める。
 どうしたの。
 そんな声が聞こえてきたような気がして趙雲は笑った。
「大丈夫だ。もう少し行ったら休憩しよう」
 そっと撫でた鬣は柔らかく、色素の薄い髪が脳裏にちらついた。



 この数年で趙雲の周りにいた人々は次々と死んでいった。劉備の義兄弟たちに劉備自身、黄忠、そして馬超も。五虎将と言われた5人のうち生きているのは今や趙雲しかいない。あの、帰る土地を持たずに彷徨い、逃げながら戦ってきた過去を、本当の意味で知っているのは趙雲とそれから諸葛亮だけだ。

 馬を駆り、目の前に小さな滝が見えてきたところで趙雲はようやく馬から降りた。すべての喧騒から切り離され、水の音しか聞こえないここは、ずっと趙雲が気に入っている場所だ。今はもう趙雲以外知るものはいない。
 馬超と初めてまともに会話したのはこの場所だった。お人好しだとかつくづく甘いとか、言いたい放題投げつけてさっさと去っていってしまった。
 距離が縮まるきっかけもここだ。何かあるごとにここに来たし、抑えきれなくなった想いを告げたのもここだ。彼の命が長くないことを聞いたのも。
 ここは趙雲と馬超の場所だった。
 黄色く色づいたものや、ほとんど赤に近くなったもの、まだ青い紅葉が流れに追いやられて、ゆらゆら揺れている。そっと水に手を浸すと夏よりも冷たくなってきた水が趙雲の手を冷やす。水の中に沈められたこともあったな、と思わず笑った。
「会いたいな、孟起」
 そっと、水の音に紛れるほどかすかな声で呼ぶ。まるで小さな玉を大切に掌で包むように。特別に呼ぶことを許された、普段は使わぬその名をもう一度こぼす。
 先に逝くことにならなくてよかった、と心から思っている。しかしさびしい、とも思う。そのさびしさにも慣れてしまったけれど。しかし二人だけの思い出であふれているこの場所に来ると本音が漏れてしまう。こればかりは趙雲自身にもどうすることもできない。
 ここから離れたら再びいつもの趙雲であれるように。濡れた手で色が変わりかけた紅葉の葉を拾うとそっと包み込んだ。






 名残惜しさを振り切るように馬を走らせる。来た時とは打って変わってゆっくりと進んで半分ほどやって来た頃、正面から馬が走ってくるのが見えて趙雲は一旦愛馬を制して止まった。駆けていれば誰かとすれ違うこともあるのでさほど珍しいことではない。それでも趙雲が止まったのは、ゆるりと馬を歩かせていた相手がこちらを発見した途端にものすごい勢いでこちらへ向かってきたからである。
 なんだなんだと焦る間に相手はどんどん距離を詰めてくる。まるで戦場にいるかのような、こちらが思わず気圧されてしまうほどの何かを感じる。それがまた趙雲を焦らせた。
しかし焦っている心の片隅に引っかかるようなものを感じていた。小さな刺が刺さったようなそれは、無視しようとしてもできるものではない。
 相手が纏う雰囲気が、知らぬものではないような気がする。誰よりも信用していたそれと酷似していた。あの人に背中を預けたなら、どんな相手を敵にしても生きて帰ることができると思わせるあの、
 
 湧き上がる感情がどういうものかは趙雲にもわからない。
 声が出ない。
 手が震える。
 どくり、とひとつ心臓が大きく跳ねる。
 息苦しさを感じるほどに、感情が荒れ狂っていた。

 誰よりもつよく、誰よりも脆い、うつくしい錦の人。

「ば、ちょう……?」

 馬の背にいるのは二度と会うことは叶わないはずの馬超その人であった。
 色素の薄い髪。それが見た目通り柔らかく心地良い手触りであることを趙雲は知っている。従兄弟を除いてそれを知っているものはきっと自分だけだろう。
 日の光を弾いてきらめくそれがどんどん近づいてきて、

「この…っ!馬鹿者!!!!」
 前振りなしにガツンと容赦なく頬を殴り飛ばされた。チカチカと目の前に星が散り、ぐらりと体が傾く。それでも平服を着ていたためか意識が飛ぶようなことはなかった。鎧で固められていたら手甲のせいで意識を刈り取られていたかもしれない。
 落馬しかけた体をなんとか支える。それができたのは目の前の現実が信じられなかったからだ。
「え、本当に、馬超殿……?」
「呆けている場合か!!どれだけ皆が心配したと思っている!!」
 後から襲ってきた痛みに手を当てて呆然とする。
 痛い。ならばこれは夢ではない。しかしだとしたら目の前の馬超は一体何なのだろうか。罵声など少しも耳に入らない。ただ馬上の人を見つめていると、あちらはようやく趙雲の様子を気にするくらいの余裕が戻ったようだった。
「お前、この5日間で何があった。随分と雰囲気が変わっているようだが」
 
 俺の知る趙雲ではないようだ。

 眉を顰め、怪訝そうな表情を隠しもしない馬超ははっきりとそう言い切った。しかし趙雲に心当たりはない。そもそも5日間とはどういうことか。
「そんなことは誰にも言われなかったけども……。何があった、とは私が訊きたい。どうして馬超殿が生きているんだ?」
「はぁ?」
 馬超はぽかんとした表情を浮かべた。彼のその表情は珍しいものだが、混乱している趙雲は気づかない。ただ浮かんだ言葉を次々と並べていく。
「馬超殿が亡くなってからもう1年は時が経っている。九泉から顔を見せに来たのかと思えばまるで生きているようだし」
「ちょ、待て待て!なんだと?俺が死んだ?本気で言っているのか!?」
「そんな縁起でもない嘘をつくわけがないだろう」
 根本的に何かが食い違っている。しかしそれが何かはわからない。もどかしさをかんじながらも趙雲が口を開こうとすると馬超がそれを手で制した。趙雲から視線を逸らし、深刻な顔で何かをぶつぶつと呟いたあと、再びこちらを向く。
 鋭い眼光が趙雲を射抜いた。
「お前は俺が死んだと言っていたな。お前の周りの状況はどうなっているんだ」
「劉備殿も関羽殿も張飛殿も亡くなられている。五虎将と呼ばれた将で生きているのは私だけだ」
 まっすぐと趙雲を見つめる目はどんな小さな嘘も許さないと無言で告げている。趙雲も事実だけをゆっくりと話す。
「黄忠殿も亡くなられているのか。………他はどうなっている」
「先程も述べたように馬超殿も亡くなっている。…今はどういうわけか私の目の前に居られるようだが。あの、帰るべき国を持たず、曹操から逃げ回っていた時代を知る者で残っている主な人物は私と諸葛亮殿だけだな」
「劉備殿亡き後を継いでおられるのはどなたなのだ」
「劉禅様です」
「劉禅様、とは阿斗様のことか」
「ええ、今はそう呼ぶ人はいませんが」
 最後にそれを尋ねたあと馬超は長いこと黙り込んでいたが、馬超には珍しく迷うような声でついてこい、と趙雲に背を向けた。説明を求めるとどうせ再び説明しなければならないから、と後回しにされる。しかし後からしっかりと教えてくれると言うので、趙雲は黙って彼の後についた。

 もう二度と見ることはないと思っていた背中。目の奥が疼くようなものを感じたが、無理やり押し込めた。決壊したらしばらく制御が利かなくなりそうだった。





 馬超が向かった先は城だった。
「いいか、誰に何を言われようと軍師殿のところに行くまで余計なことを言うなよ。適当に話を合わせろ」
「どうしてだ?」
「説明するのが面倒だ」
 とにかく言うなと念を押した馬超を追いかけつつ城の中を歩く。すれ違う兵たちは皆、趙雲を見るとお疲れさまです、とかおかえりなさいとか声をかけてくる。馬超の言っていたことはこれか、と思いながらも、趙雲は言われた通り無難な返事を投げかけていく。そうしてたどり着いたところは謁見の間だ。断りをいれて入る馬超にならって趙雲も中に入る。
 趙雲が知る謁見の間にはいつも劉禅がいる。しかしそこにいたのはやはり劉禅ではなかった。
「殿……」
 困ったような笑みでそこにいたのは今は亡き人のはずである劉備であった。しかし馬超の時ほどの驚きはない。もしかしたら、と頭の隅で囁く声があったから。
 劉備の前に膝をつくと礼をとる。心配した、とこぼされた声に趙雲は更に頭の位置を低くしたが、顔を上げるよう言われ、まっすぐと劉備を見た。
「5日間も何処へ行っていたのだ。何も云わずいなくなってしまったから心配したのだぞ?」
「貴方は私の命令で留守にしていることになっていました」
 劉備の隣に立つ諸葛亮が羽扇で口元を隠しながら静かに言う。
 そこで初めて、趙雲は馬超の時は感じなかった違和感を覚えた。いつも諸葛亮から感じるどこか切羽詰まった、どろりと身の内に溜まり固まった危うさが感じられない。
 多くの人が亡くなって、蜀を支える柱は確実に本数を減らし、今や諸葛亮がほとんどを支える柱になっている。勿論趙雲自身も柱のうちのひとりだが諸葛亮とは方向性が異なるし、彼の弟子である姜維では彼の柱にかかる負荷を軽減しきれない。
 戦場に立つ者が少ないことはもちろんのこと、軍師も文官も圧倒的に不足していた。
 しかし今目の前にいる諸葛亮からはそれらのことが全く感じられない。まるで時が戻ったかのように。
「趙雲?」
「あっす、すみません!」
 じっと諸葛亮を見つめていると、劉備の心配そうな声が趙雲を呼ぶ。それにはっとして慌てて趙雲は再び頭を下げた。それでも一度浮上してきた考えは、そう簡単に消えてはくれない。趙雲は意を決して顔を上げると劉備を見つめる。真っ直ぐな視線が自分のそれとかち合った。
「あの、私は5日間何処かへ行っていたのですか?」
 馬超も口にした5日間。これが何よりも大きな疑問だった。立場上常に忙しい趙雲だ。5日間も、それも無断で休むことなどできるはずがない。
「どういうことでしょう」
 反応したのは諸葛亮である。困惑する劉備が何かを言う前に鋭く声を割りこませる。しかし趙雲はそれに答える言葉を持たない。何しろ趙雲自身も状況を飲み込めていないのである。この場で唯一状況をある程度は把握しているであろう馬超に視線を向けると、一歩進み出た彼が口を開いた。
「劉備殿、軍師殿。これは俺の憶測になるが、この趙将軍は今より先の時間からここにやって来た可能性がある」
「、それは、何故そのように考えたのですか?」
「先……?私が、」
 先の時間。
 そのようなこと考えもしなかった。
 混乱した趙雲が意味もない言葉をこぼそうとするのを馬超が制す。そして続く言葉を紡いだ。
「趙将軍は俺を見て『何故馬超殿は生きているんだ』と言った。そして詳しく話を聞いたところ、五虎将で生き残っているのは趙将軍自身のみであり、更に劉備殿もお亡くなりになっておられるようです。劉禅様、今で言う阿斗様のことです、つまり劉備殿の御子がそのあとを継いでいると趙将軍は言った」
「なんと……!」
「それは本当ですか、趙雲殿」
「その、はい……」
 さすがに劉備本人を前にしてはっきりと言うのは気まずい。しかし本当のことであるのは間違いないので控えめに頷いた。そして馬超の言ったことを反芻する。
 先の時間と彼は言った。つまりここは趙雲がすでに通り過ぎた時間だということになる。そのように考えると馬超が生きていることも、劉備が生きていることも説明がつく。ということはきっと劉備の義兄弟である二人も黄忠も生きているのだろう。それはどこか奇妙な心地だった。
 劉備と諸葛亮はまるで夢物語のような馬超の話に困惑しているようだった。しかし趙雲も馬超も、そのようなくだらない嘘をつく性格ではない。それがまた二人の困惑を深めているのだろうが。
 部屋の静寂を先に破ったのは劉備だった。
「趙雲も馬超も嘘をつくような者ではないから、きっと趙雲の知る私や馬超はもう死んでいるのだろうな。私は趙雲も馬超も信じるぞ孔明」
 はっきりと言い切ると劉備は立ち上がり、趙雲の目の前まで歩いてくると膝をついたままの趙雲と視線を合わせた。こちらを覗きこんでくるその目には少しの翳りもない。
「とにかく帰る方法を探そう。こちらの趙雲のことも気になるが、そなたがこちらに来たということは入れ替わりになった、という可能性も否定出来ない。それまではよろしく頼む」
「ありがとうございます、殿。こちらにいる間は『趙雲』の役割を、私が引き受けます。いつ帰ることができるかわかりませんがよろしくお願い致します」
 劉備のあたたかな言葉に、混乱が音もなく溶けていくようだった。未だに自分が過去にきてしまったという事実は受け入れがたい。しかしここでやっていこうと前向きに思えるほどには余裕が戻ってきた。その思いと感謝を込めて趙雲は拱手した。
 劉備は笑みを浮かべてひとつ頷くと、背後の諸葛亮を振り返った。
「孔明から何か言いたいことはあるか?」
「私としましてはこの趙雲殿が本物であり、しっかりと役目を果たせるのであれば問題ありません」
「この趙将軍は俺の知る趙将軍と雰囲気が違う。が、趙雲であることは間違いない。俺が保証する」
 諸葛亮の言葉に馬超がすかさず返事をした。しばらくじっと諸葛亮の視線が趙雲に向けられていたが、よろしい、と言葉とともに解放された。
「では早速ですが書簡が溜まってしまっているのでお願いします。貴方のところに回すものはすべて私のところにあるので説明します。それと、先の時間から来たということは伏せておきます。余計な混乱は避けるべきですからね」
「わかりました」
 隠すことに趙雲も異論はない。もっとも、こんな妄想じみたことなど信じるものなどいないだろうが。しかし何もないに越したことはないのだ。
 ではこれにて、と馬超が出て行くのに合わせて趙雲もこの場を後にしようとする。が、それを諸葛亮が呼び止めた。どうしたんだと振り返ると、彼はゆらりと数歩こちらへ進んで趙雲の名を呼んだ。
「先の時間での出来事は貴方自身の中だけにしまっておいてください」
「それは、」
「先のことは誰にもわからぬはずのことです。ひとつの小さな過去を変えてしまうことで、大きなことを変えてしまうかもしれない。そうして取り返しの付かない結末を呼び寄せてしまうこともありえるのです」
 諸葛亮の言葉に趙雲は考える。例えば、馬超を救おうと動いたとしたら。もしかしたら運良く馬超のことは助けられるかもしれない。けれどもそうすることでもし、他の誰かが死ぬことになったら。その責任は趙雲には取ることができない。
「……わかりました。誰にも漏らしません」
 それにしっかりと拱手で答えると、趙雲は今度こそ部屋を後にした。

「趙将軍」
 扉を閉め、一息ついたところでいきなり呼ばれ、そちらに顔を向ける。傍の壁に馬超が寄りかかっていた。どうやら待っていてくれていたらしい。
「そんな固い呼び方でなくてもいい。普段からそう呼んでいるのならば止めないけども」
 先程までは劉備や諸葛亮の前だったが、今はもう二人ともいない。そんな意味を込めて言うと、馬超はなんとも言えないような複雑な表情を浮かべた。
「『趙雲殿』と混ざってしまう」
 趙将軍は趙将軍で、趙雲殿は趙雲殿ということか。つまりここに元からいる趙雲と今馬超の目の前にいる趙雲を別人に考えているらしかった。なるほど、と考える。そうなると、
「ならば子龍と呼ぶか?私はかまわないが」
「………、それならば子龍殿と呼ばせてもらう」
 半ば冗談で言ったつもりであったが、素直に承諾されて趙雲は内心で驚いた。馬超のことだ、てっきり趙将軍と呼ばれるのかと思っていた。
『子龍』
 頭の中の隅で小さな声が己を呼ぶ。懐かしいその声と目の前の馬超の声が重なる。
 こちらが混同してしまいそうだ。
「ええ、よろしくお願いします馬超殿」
 趙雲は笑みを浮かべてそう返事をした。その笑みはあちらの馬超がいなくなってからいちばん晴れやかな笑みだった。


2013/8/12