春、君をのせて

 

 春のうららかな昼下り。桜の蕾が身を開き、薄い花弁がちらちらと視界を彩る、そんな季節。
 温かい春の風は、新しい季節を知らせながら人々の間を通り過ぎていく。道行く誰もが気持ちよさそうに風を浴びて歩いていた。
 そんな人達を眺めながら、私は盛大にため息をつく。いいなぁ幸せそうで、と呟けば向かいの席に座った男が苦笑を漏らした。
 
「まるで自分が幸せじゃないと言っているようだね」
「実際そうなんだもん」
「それで僕を呼び出したのかい? 相談をするために」
「そうです。助けてください同期様」
「ふぅん。色々と言いたいことはあるけれど、僕で良かったら話を聞こうか」
 
 正直、相談相手を惣右介くんにするかは迷ったのだ。けれども、こうも窮地に陥ってしまうと人間とは浅はかなもので、一番頼りがいのある人間を選んでしまう。
 予想通りいかにも不服だと顔に表した彼は片眉をつりあげてもなお、私の話を聞いてくれるらしかった。
 その姿に後光が差しているように都合よく変換した私は、縋る気持ちで言葉をひねり出す。
 
「生きてると、もう駄目だ。何にもうまくいかない!って時があるじゃん」
「あるかい?」
 
 悩み相談、終了。あまりにも早い、早すぎる。開始3秒も経っていない。話を聞くとは一体。
 わなわなと震える私に対して本当に理解ができない、といった風に首を傾げる惣右介くん。寸物の狂いもないお綺麗な顔面を正面に捉え、ついに胸の奥でポッキリと心が折れる音がした。軽い目眩さえ覚えてきて、両手で顔を覆う。
 
「神様、あんまりです。せめてこいつに弱点の一つでも与えればよかったのに」
「期待に添えなくて悪いね」
「……噂が正しければ、相談すると必ず解決してくれる藍染様と伺っていたのですが」
「理解はできなくても合わせる事はできるさ」
「うわ…、嫌な奴」
「ありがとう」
「嫌な奴!」
 
 ぎゃんぎゃんと騒ぐ私に対して、くすくすと笑いを零す彼はそのまま茶菓子を切って口へ運ぶ。その仕草のなんとまぁ優雅な事。
 さわさわと揺れる木々の音に、店内に差し込む柔らかな木漏れ日。おまけに惣右介くんを眺めてはほぅ、とため息をつく店員さん。
 どれもこれもが惣右介くんを彩るための演出に見えてならない。世界はどうしてこうも藍染惣右介に甘く、私には厳しいのだろう。せめてその長い睫毛だけでも分けてくれないかな。睫毛で顔に影ができるって、どういうことなの。いい加減抜くぞ。
 
「まぁ、理解はさておき君は今まさに上手くいかない日を過ごしてるのかい」
「そうなの。改善しようと試みては全てが裏目にでる悪循環を繰り返しているの。もうどうやっても地獄から抜け出せない」
 
 さりとて、流石の彼もそこまで鬼ではないらしい。涼やかな顔をしながら、対して興味もなさそうに「何があったんだい」と柔らかな声がかけられる。ちっとは心配しろよ、と思いつつ。私は事のあらましを話した。
 
「今日は朝から本当にツイてなくて……。出勤したら上司に呼び出されて書類の不備を指摘されるし、それならまぁ誰にでもあるかなって思うじゃん。違うの、出てくる不備が尽く私のせいなの」
「具体的には?」
「宿直医で対応したカルテの記入ミスだったり、ちゃんと調べて記入した筈の書類が合ってなかったり」
「へぇ」
「報告書だって部署ごとにまとめて出してるはずなのに、指摘される内容の担当者は何故か私の名前になってるし」
「……ふぅん」
「もう入隊して一年になるのに、こんなに失敗続きなのは私だけなの! ど、どうしようこのままじゃ私クビになる!」
 
 ふむ、と惣右介くんは指に顎を乗せて何やら熟考する姿勢を見せた。先程のからかうような仕草は無く、ただ真剣に考え事をしているようだった。
 やがて、考えが纏まったのか惣右介くんが口を開いた。
  
「普段の業務は君一人でこなしてるのかい?」
「……へ? いや、まさか私一人なわけないよ」
「君と組んで仕事をしているのは先輩?」
「先輩もいるけど、殆どは同期かな」
「君の隊はそろそろ昇級審査が近いね?」
「え、うん。まぁ私は関係ないけど」
 
 惣右介くんが言っているのは、各隊で定期的にある審査だった。普段の業務に加え、前回の審査から今回までの業績を合わせて席官の入れ替わりが行われる一種のイベントのようなものだ。私のように自分には遠い話だと思うものもいれば、そこに人生をかけている人もいる。
 惣右介くんは軽く頷いて、確信を持った笑みを浮かべた。
 
「これはあくまでも僕の推測だけど、恐らく君の同期が関与していると思う」
「えぇ?」
「だって、書類のミスは殆ど君の担当になっているんだろう? そりゃあ人間だから誰しもミスはするさ。でも、入隊してもう一年も経つ上に、君の隊は基本的に数人で組んで仕事をする」
「……うん」
「それなのに一人の人間がすべてのミスをするなんて、逆に難しくないかい?」
「た、確かに」
「まぁ要約すると昇級目的の同期が君に自分のミスを押し付けたんだろうね。書類の改ざんは割と簡単だし」
「はぁ?! そんな事する人間いないでしょ」
「本当に? 君のまわりで誰も昇級をねがってない人間がいるとでも? ここは護廷十三隊だよ」
 
 そんなの、と言いかけて私はふと口を噤む。
 ――一人だけ、思い当たる人間がいたからだ。
 確かに、その人は私の同期で私と同じ班にいるけれど。書類の二重確認は彼にお願いしていたけれど。そんな、まさか。
 思い返せば、彼は同期の中で一番席官入が近いとは言われていなかっただろうか。
 それに対して、満更でもなさそうに笑っていた彼の笑顔を思い出す。
 
「……」
「ほらね、居ただろう」
「まだその人だって決まったわけじゃないし。本当に私の失態かもしれないし」
「ありえないな。だって君、霊術院時代から事務処理は得意だったじゃないか」
 
 それが、決定打だった。私も薄々可笑しいとは思っていた事を、彼に指摘されてしまった。
 非力で何の力もない私でも取り柄はある。今回ここまで落ち込んでいるのもそのせいだった。
 そう、私は事務処理に関しては殆どミスをしない。だから、書類管理を任されている。そして、隊を移籍してきた同期はその事実を知らない。
 
「つまり、私はミスをする奴だって思われてて、昇級の見込みもないから標的にされたってこと……?」
「まぁ、そうかな」
「えぇ、なにそれぇ」
 
 私は机に項垂れた。安心感からではない、それよりも悲しさが勝ったからだ。確かに、私は周りから見れば取るに足らない女なのかもしれない。昇級にも興味が無いし、失うものも無いように見えるのかも知れない。でも、それは外側から見える私なだけであって、私本人にもちゃんと意思はあるのだ。誰かの踏み台にされるなんて、踏み台にしてもいいと思われているなんて。それはあまりにも私に失礼ではないだろうか。
 それでも、そう思わせてしまうような私が悪かったのか。
 ひんやりとした机の温度を頬に感じながら、私の目にはうっすらと涙の膜が張っていた。こんな事になるのなら相談なんてしなければよかったと今更ながらに後悔する。
 あぁ、涙が溢れてしまう。慌てて目元を拭おうとしたその時。私の頭に重みがかかる。
 ぱちくりと目を瞬いて上を見上げると、大きな手のひらが私の頭に乗っていた。それは紛れもない惣右介くんの手のひらで、ポンポンと軽く慰めるようにそれは頭上で跳ねた。
 いつのまにか頬杖を付き直した惣右介くんと目が合う。彼の目は「しょうがないな」とでも言いたげに、優しい曲線を描いて私を見つめていた。
 
「これで解決できたかな?」
「……うん。ありがとう」
「どう致しまして」
 
 私の言葉に満足したのか、手のひらは微かな温度を残して離れる。ついでに彼の指先が、私の目元に触れて溢れる筈だった雫をさらっていった。
 それを、名残り惜しいと感じてしまうのは何故なのだろう。何だか気恥ずかしくなってきて、頬に熱が集まる。
 それを誤魔化すために前髪を直しているふりをすると、彼は思い出したようにあぁと言葉を漏らした。

「あと、補足だけれど君の同期は恐らく昇級できないよ。例え今回の件が露見しなくてもね」
「え、」
「僕も部下がいる立場だから分かるけれど、上に立つものの目はそう簡単には誤魔化されない。普段の君の仕事ぶりをみていれば、必ず誰かが可笑しいと気付く筈さ」
「……つまり?」
「君はちゃんと優秀で、何一つ落ち込む要素は無いという事だよ。それに、」

 春の風が、私達の間を通り抜ける。数枚の花弁が彼の背景を彩るように散っていった。

「君をいじめていいのは僕だけさ」
 
 まるでいたずらっ子のように彼は笑った。
 悔しいけれど、その時の彼の笑顔にときめいてしまったのは内緒の話だ。