鬼さんこちら、雪降る方へ


 冬が好きだ。冷たくて、綺麗で、静かで。朝一番の空気を肺一杯に吸い込むと、身体中に冬の香りが染み渡る。
 懐かしいと感じるのはこの体で何度も冬を越したせいで、その度に私の胸はワクワクとする。澄んだ空気の中を歩けば、自然と体も軽くなって、まるで背中に羽を背負ったようだった。
 今年も例外なく、私は浮き足だった気持ちで冬を迎えていた。
 
「わ、雪積もってる」
「ほんとだ」
 
 弾んだ同期の声に、手元の書類に落としていた視線を上げる。見れば、窓の外から見える景色は白一色に染まっていた。
 
「いつのまに積もったんだろ」
「朝は降ってなかったよね」
 
 そのままぼんやりと二人で外を眺める。しんしんと、という言葉がしっくりとくる積もり具合だった。空から落ちてくる無数の雪はふわふわと綿菓子のようで、不思議と心が落ち着く。
 
「そういえば、今年は十一番隊が雪合戦するんだって」
「えぇ。文字通り合戦になるんじゃないの、それ」
「だよね。草鹿副隊長が言い出したらしいよ」
「死人が出そう」
「雪合戦とか私ここ数年したことないよ〜。透子はある?」
「まさか、ない――あ、」
 
 ふいに、頭を掠めたのは美しい雪景色と、懐かしい冬の香りで。またたく間に私の思考は過去の冬に囚われる。
 
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」

 はっとして顔を上げると、目の前の同僚が不思議そうに私を覗き込んでいた。私は慌てて首を振って笑う。
 
――そうだ、忘れてた。

 私は昔、一度だけ雪合戦をしたことがあった。
 それは遠い遠い過去の話で、まだ霊術院に通っていた頃の話だ。
 
 

 
 霊術院には、大きな野外演習場がいくかある。それは用途に合わせて学院のあちこちに設けられており、私達学院の生徒はいつでも使うことができた。
 恐らくその中でも最も使用率が低いであろう校舎裏の演習場を、手を引かれて歩いていた。私よりも一回り以上大きい背中を眺めながらざくざくと雪を踏みしめる。冬も深まった今日この頃。演習場は目が痛くなるくらい真っ白に染まっていて、私達以外の足跡は見当たらない。
 やがて、私の手を引いていた人物が立ち止まって、くるりと振り返った。
 彼の茶色くて少しだけウェーブがかかった髪の毛に白い雪が積もっている。眼鏡は濡れないように懐にしまっているのか、いつもよりもすっきりとした目元が眩しそうに細められていた。
 よくよく見れば鼻の頭も赤くなっていて、そんなに寒いのなら連れてこなきゃ良かったのに。と、マフラーに口元まで埋めた私は恨みがましく彼――惣右介くんを睨んだ。
 
「寒い。無理。帰る」
「そう言わないで、ほら。雪玉だよ」
「ほら、じゃなくてさ」
「もっと大きいのが良かったかい?」
「じゃなくて!」
 
 ええい、こんなもの。彼の右手に乗せられた拳ひとつぶんの雪だまを張り手の勢いで弾き飛ばす。銀粉が光に反射して輝くように、雪の粉が降り注ぐ日光の上を舞った。キラキラとした視界の先で、同じくらいキラキラとした顔面がにこやかに笑っている。
 何を思ったのか、彼はまたいそいそと雪玉を作り、私の前に差し出した。私はそれをまた弾き飛ばす。どうやら彼はこの繰り返しを楽しんでいるらしい、と気付いたのは6個目の雪玉を弾き飛ばした後だった。
 
「これなんて遊び。ねぇ、ほんとに寒いから帰りたいんだけど」
「折角積もったんだ。雪合戦くらい付き合ってくれないか」
「他の子達とやればいいじゃん」
「君がいい」
 
 惣右介くんは新しい雪玉を握りながら、笑った。柔らかな口元から白い息がふわりと溢れる。まっすぐな瞳は相変わらず優しげだ。あまりにも率直な要求に、私はぐっと喉を詰まらせる。雪景色が嫌になるほど似合ってしまうこの男に、不本意ながら見惚れてしまう所だった。
 危ない危ない。私は慌てて首を振って、彼に背を向ける。惣右介くんは自分の使い所をよくわかっている。いつどんな表情で、どんな台詞を言えば相手が頷くのか、よく理解している。私は彼のこういう所が一番嫌いだった。
 
 ――本当は、それに流されてしまう自分が一番嫌いなのだけれど。
 
「いや、帰るから。じゃあね」
 
 兎も角、逃げよう。そう思ったのだ。実際に彼に背を向けて私の体は元来た道を戻りかけていたし、真新しい足跡を踏みしめていた筈だった。
 ――ぱすんっ、
 背中に、何かが当たらなければ。
 
「冷たっ!」
「命中だ」
 
 マフラーの隙間に冷たい何かが入り込む。瞬く間に震えた背筋に思わず声が出てしまったのは仕方がない事だろう。
 ぎぎぎ、と音がしそうなぎこちなさで振り返った先で、惣右介くんが愉快そうに笑っている。
 
「……満足ですか」
「始まったばかりさ」
 
 そうしてまた一つ、私の体に雪玉が当たる。雪によって音が吸われた無音の世界に、ぱらぱらと雪が落ちる音だけが響いていた。
 私は投げ返したくなる気持ちをぐっと堪え、足を進めた。ここでやり返したら負けだ。その一心で前を見据える。
 
 ――ぱすんっ、
 
 そう、例え背中に冷たい何かが当たろうと歩みを止める気なんてないのだ。
 
 ――ぱすんっ、
 歩みを止める気なんて……。
 
 ――ぱすんっ、
 止める気…なん……て。
 
 ――ぱすんっ、

「覚悟しろよ!!」
「ははは」
 
 その後の結末なんて、誰がどう見たってお分かりだろう。
 
 今ではもう懐かしい、冬の話だ。