君じゃないと意味がない

 霊術院を卒業したら他人になろうと決めていた。たとえ廊下ですれ違ったとしても声はかけないし、間違っても名前で呼んだりもしない。いずれ聞こえてくるであろう彼の武勇伝にも、あらそうなんですねと他人事のように返すと決めていた。
 だからそう、例え相手から話しかけられようとも他人のふりをして逃げ切ろうと、思っていた。
 
「おや、透子久しぶりじゃないか」
「おん?なんや惣右介お前、友達おったんか」
「隊長は僕の事を何だと思ってるんですか」
「……」
 
 これは、一体どういう状況なのか。
 
「もしもぉーし、聞こえてますかー?」
「隊長近いですよ」
「えっと、」
「おっ、喋りよった」
「だから近いですって隊長」
 
 恐らく私の声は震えていただろう。いや、むしろ届いたのかも怪しい。その証拠に目の前に立つ男性が私に顔を近付けて寄ってくる。思わず胸元にある書類の束を抱え直したのは殆ど無意識だった。
 真っ直ぐと垂れた髪の毛が右に左へと揺れる。どんな手入れをしたらそんなに綺麗に伸ばせるのか、太陽の光を透かして染め抜いたように透明な金髪が昼の木漏れ日を乱反射して私の瞳を打った。私の頭を軽く越えて覆い被さる影は、威圧感こそないが護廷十三隊に入隊して一年足らずの私を怯えさせるには充分なものだ。
 
「惣右介のオトモダチなんも喋らんやん」
「隊長が透子から離れれば解決しますよ」
「俺はバイ菌かっちゅーの」
「そうですね、害悪なので離れてください」
「ハァ?!」
 
 それはないやろ、と惣右介くんの言葉に私を追い詰めていた長身がバネのように反対方向へ仰け反る。反動でふわりと浮いた金髪が視界を舞った。舞い上がる髪と同時に翻るのは白い羽織で、見慣れない白色に心臓が大きく跳ねる。美しい金髪に特徴的な口調。私達と対になる白の羽織。何よりも背中に背負った黒々とした五の文字が、彼が唯一無二の存在だと知らしめている。
 背中を伝った汗は緊張からなのか、はたまた彼の後ろでにっこりと微笑む旧友のせいなのか。ともかく、一刻も早くこの場を立ち去りたい。場違いな自分が恥ずかしすぎていい加減卒倒しそうだ。
 
「あ、あのっ」
「おっ? なんやなんや」
 
 ぎゃあぎゃあと騒いでいた金髪の男性は私の一言でぴたりと動きを止め、振り返った。
 
「平子隊長、でいらっしゃいますよね」
 
 ぽかんと開いた口とタレ目がちな瞳がにんまりと三日月を描くには三秒もかからなかった。
 
「そうやで」
 
 猫なで声に近い低音が耳に届く。
 後ろの惣右介くんが眉をぴくりと上げて私を見た。一体何を訴えているのか無言の圧力が痛い。
 うるさいな、そんな威圧してこなくてもさっさと立ち去るっつーの! と、負けじと睨み返した私の意図が伝わったのか伝わらないのか。惣右介くんはやれやれとでも言いたげな溜め息を漏らした。普段であれば一言文句を言ってやりたい所だけれど、今日ばかりはそんな猶予はない。
 
「そういえば隊長。お耳に入れておきたい事が」
「おん?」
 
 惣右介くんが助け船を出すように平子隊長に話しかけた。平子隊長は私から視線をそらし、斜め後ろに控える惣右介くんを振り向いた。ほっと息を吐いたのもつかの間、眼鏡の奥から投げられる視線が早く逃げろと私に語りかけている。
 私は小さく片手で丸を作って有り難く彼の船に乗ることにした。すすす、と音を立てないように摺り足で後ろに下がる。様子を伺ってみても平子隊長は私が立ち去ろうとしている事には気付いていないようだった。よし、逃げ切れる。
 そう、踵を返した瞬間だった。

「捕まえた」
 
 この場に似合わない無邪気な声、ついで私の腹部を柔らかい衝撃が襲った。吃驚して両手で抱えていた書類を思わず投げ出した先に、にんまりとした笑顔を浮かべる小さな男の子がいる。

「……迷子?」
「失礼やなぁ。ボクこれでも三席やで」
「…………えっ?!」
 
 小さな男の子は面白そうに私を見上げた。桃色に色づいたまろい唇が「市丸ギン」と名乗った。その名前には確かに聞き覚えがあった。
 確か、入隊して間も無く三席にのしあがった異例の天才少年。そうか、彼は五番隊だったのか。
 
「つーわけで、透子チャン」
「ひっ!」
 
 なんて、まじまじと体に巻き付く市丸三席を眺めていたのが悪かったのだ。
 いつの間にか私に近寄った平子隊長の長い腕が、私の肩に回されていた。
 
「ちょっと俺達とお茶でもせぇへん?」
「……ハイ」
 
 体重をかけられた肩が重い。けれども、それよりも後ろで控える惣右介くんの視線の方が何倍も重かった。
 あぁ、終わったな。市丸三席に手を引かれながらげんなりとした私は茶屋へと連行されたのだった。
 
 

   
 
「ほぉー、透子チャンは惣右介の同期なんか」
「はっ、はい!」
「なんやそな固くならんでもええやん」
 
 護廷十三隊の中には死神専用の茶屋がある。もちろん流魂街にも茶屋はあるが、もっと手軽に近場でお茶がしたいという死神の要望に応えて今年から設置された場所だった。
 昼休憩をとうに過ぎた時間の今は当然ながら私達以外に人はいない。店員さんも訝しげな顔で私達を見ていた。

「透子さんが藍染副隊長と同期ってことは、二人は仲良しさんなん?」
「仲良しっ…?!いやいや、うん。同期っていうか、たまたま学院が同じでたまたま同級生でたまたま入隊が被っただけっていうか。稀に会ったら挨拶するぐらいの仲なだけだよ」
「それ、世間では同期で仲良しって言うんちゃうん?」
「……うん、そうだね」
 
 わぁ、本当だぁ。棒読みで返した私の笑顔はきっとうまく笑えていない。

「えらい嫌われようやなぁ惣右介」
「僕は友達だと思っているので大丈夫ですよ」
「それ一方通行言うんやで」

 それを向かいの席で面白そうに眺めるのは頬杖をつきながら湯飲みをすする平子隊長。その隣では惣右介くんが優雅に抹茶を嗜んでいる。
 仕草は柔らかいのに纏う雰囲気には一切の隙が無い。それは平子隊長に害するものがないか逐一確認しているからなのだろう。誰かが動く度にさり気無く惣右介くんの視線が動く。入隊して以来まともに喋るのは今日が初めてなのに、なんだか別人みたいだ。
 そのまま呆けた頭で惣右介くんを眺めていると、自然とある一点に目が引き寄せられた。
 
「あ、」
「透子さんどないしたん?」
「ううん。ごめんね、何でもない」
 
 つい漏らしてしまった一言。隣で口いっぱいにお団子を頬張っていた市丸三席が不思議そうに私を見上げた。
 こてんと傾げた首に合わせて眩しい銀髪が揺れる。私は慌てて両手を振って、何でもないともう一度口にする。ついでに市丸三席の口元を布巾で拭ってやると、彼は擽ったそうに笑った。
 
「透子チャンが気になるもの、当てたろか」
「えっ」
「惣右介のコレやろ」
 
 私と市丸三席をただ眺めていた平子隊長は、おもむろにそう言い放ち、細い指を隣に向けた。
 人差し指の先に当たるのは惣右介くんの腕――つまり副官章で、私は言葉に詰まる。図星だった。
 
「そうなのかい?」
「いや、うん。本当に副隊長になったんだなぁって」
「君も席官入りしたんだろう。おめでとう」
「同期で一番の出世頭に言われてもねぇ」
 
 あははと笑ってお茶を啜ってはみたものの、やけに渋味が舌に残る。
 惣右介くんの腕に収まる馬酔木の飾りは嫌味なぐらい似合っていて、それを素直に褒められない自分に苛々とした。確かに、直ぐに出世するとは思っていたけれど。まさか瞬く間に副隊長に上り詰めてしまうなんて誰が予想出来ただろうか。
 ――どうせ私は。
 何十回、何百回と繰り返してきた言葉がまた私を苦しめる。あぁ、だから会いたくなんて無かったのに。
 
「まぁまぁ、そんな暗い顔すんなや透子ちゃん。なんならウチにこーへん?」
「……は?」
 
 思わず失礼な返しをしてしまったのは仕方がないだろう。だって平子隊長があまりにも軽く言い放つものだから。ほら、隣の惣右介くんだって目を丸くしている。
 
「いやいやいや、どうしてそうなるんですか」
「そうですよ隊長。透子から席官を剥奪したいんですか」
「惣右介くんは私にもうちょっと遠慮するべきだと思う」
「二人の相性はバッチリやと思うんやけどなぁ」
 
 何処をどうみてそう思ったんですか。なんて聞ける筈もなく、私はもちゃもちゃと団子を租借する。平子隊長の笑顔から真意を読み取ろうと努力してみたが、まったく掴めなかった。この人なに考えてるんだろ。ていうか惣右介くんも否定しろよ。なにニコニコしながらお茶を啜ってるの。市丸三席も何故さっきからキラキラとした瞳で私を見上げているの。いや、いかないからね。
 
 結局、平子隊長はそれから随分としつこく私を誘ってきたけれど。私は全て丁重にお断りさせて頂いた。私は今いる四番隊が嫌いではないし、わざわざ隊長にお声をかけてもらえる程の実力なんてない。市丸三席には分不相応という言葉の意味を説明し、納得してもらった(何故か見返りに干し柿を要求された)
 
「ほな透子ちゃん、またな」
「……オツカレサマデス」
 
 手を振って歩いていく平子隊長と市丸三席。二人に控えめに手を振りかえした私は、二人の姿が廊下の曲がり角へ消えた瞬間に思わず座り込む。
 
「やっっっと解放された……」
「さっきの話だけど」
「ぎゃあっ!!!」
 
 弁解するならば、完全に油断していたのだ。

「な、なんでまだいんの」
「君に伝え忘れた事があってね」
「腰抜けたんだけど」
「この程度で腰が抜けるなんてこの先が不安だね」
 
 私と視線を合わせるように屈んだ惣右介くんが膝に腕を乗せて頬杖をつく。決して他人の前では見せない気だるげな体制は霊術院時代を思い出させた。懐かしい、よく居残りをさせられていた私を彼はこうやって呆れながら見下ろしたものだ。
 そういえば何だかんだ言いつつも最後まで見放したりはしなかったなぁ。

「会ったら言おうと思っていたのに、君ってば僕を避けていただろう」
 
 柔らかい茶髪がさらりと揺れる。眼鏡の奥で細められた瞳がゆったりと柔和な曲線を描く。わずかに持ち上げられた口角が何を意味しているのかは読み取れない。けれども、珍しく裏表のない優しい笑顔だった。
 
「もし僕が将来、隊長になったら」
「……うん?」
 
 ぽんぽんと、惣右介くんの手が頭の上を数回跳ねて離れていく。ぽかんと口を開けたまま彼を見上げていれば、仕方がないという風に惣右介くんは笑った。
 
「君を迎えにいくよ」