握りしめた一等星

 一瞬の出来事だった。現世の空を駆け抜けて穿界門に飛び込もうとした時、突然私の横の空が割れてその中から一本の腕が延びてきた。
 抵抗をする暇も無く、異空間に連れ込まれた私はそのまま見知らぬ土地へと連れてこられたのだった。
 
「ちょっと、離して!」
「うるせぇな殺されたくなかったら黙ってろ」
「貴女お育ちが悪いんじゃないのっ、それとも人と喋ったことないとか?」
「……ついたぞ」
「うぎゃっ!」
 
 まるで物のように投げられた私は勢いよく冷たい床に転がった。腰に広がる痛みから今しがた私を投げ捨てた破面を睨み上げてみても、彼は気だるそうに青い髪をかきあげるだけで私なんて見向きもしない。
 やばい、これはまずいことになってしまった。背中を嫌な汗が伝い緊張感が頭の先から駆け巡る。
 恐らくここは……――虚圏。なのだろう。
 
(でも、どうして?)
 
 彼らにとって私は驚異にもなり得ない雑魚の筈だ。わざわざ生きて捕獲された意味がわからない。
 こっそりと周りを見渡してみても薄暗い空間が広がっているだけで出口は見当たらなかった。ただ複数の気配があることは分かる。それも、どれもこれもが強い実力者のものだ。
 私を囲んで監視するように向けられる視線はとても居心地が悪い。どうやっても逃げられない状況に、恐怖心が全身を包む。
 
「ちょっと、私をどうするつもりなの」
「……」
「ねぇってば」
「……来たぞ」
「は?」 
 
 どこからともなくコツコツと響いてくる足音。暗闇の奥から漂う懐かしい霊圧に、私の肌が泡立った。
 ゆっくりと目を向けた広間の中央。差し込んだ月の光が、段々とその人を形にしていく。
 そんな、まさか。
 
「久しぶりだね、透子」
「……っ!」
 
 カッと頭に登った血は降りきらず、すくんでいた私の足を動かすには十分すぎる動力だった。
 殆ど走る勢いで惣右介くんに近寄り、右手を大きく振りかぶる。彼は微笑んだまま動かない。その顔を見てぎりっと奥歯を噛むも、私の決心は揺らがなかった。
 パァン!と激しい音が部屋一杯に木霊する。私は横向きになった惣右介くんの顔を睨み付けながらはぁはぁと荒い呼吸を吐き出した。
 一拍置いて、周りがざわりと揺れる。肌を刺す鋭い視線に、四方八方から向けられる殺気の数々。そしてどこからともなく長い触手が飛んできて、私の体はいとも簡単に弾き飛ばされた。
 
「っぐ、」
「おい女、藍染様に何してんだよ」
 
 壁に背中から激突し、ずるずると床にへたり込んだ私へ低い声が降りかかる。いつの間にか真上に人影があった。背中に広がる痛みに丸くなっている私を、その人はゴミでも摘まむようにぞんざいに持ち上げた。
 
「この首へし折ってやるよ」
「っ、」
 
 首に食い込んだ細い指が凄まじい力で喉を締め上げた。ついには足が地面から離れ、私の体はあっという間に宙ぶらりんになった。はくはくと口が無意味に開き、肺が呼吸を求める。やばい、これは本当に死ぬ。
 そう、覚悟した時だった。
 
「ルピ、やめないか」
「けど藍染様っ」
「……――その子は私の友人だよ」
「っ、」
「手を離してくれるね?」
「……はい」
 
 ルピと呼ばれた男は渋々と頷き、私の首から手が離された。支えを失った体はがくりと落ち、地面に倒れる寸前の所で、体を惣右介くんの両手が受け止める。

「ゲホッ、げほっ、っ離して!」
「暴れないでくれ」
「うるさいっ」
 
 がむしゃらに惣右介くんの腕の中で暴れても、私の体を掴む両手は決して離れなかった。それがどうしようもなく悔しくて、私は惣右介くんの胸ぐらを掴んで睨み上げる。彼の瞳の中に浮かぶ私は、今にも泣きそうだ。
 
 ……――どうして、
 
 ずっとそう思っていた。双極の丘を見上げて、天に消えていく彼を呆然と見届けたあの日から。
 裏切ったなんて、嘘なんじゃないか。またいつものいたずらなんじゃないか。
 そう、思い続けていたのに。
 
「なんでっ、そんな格好してるの」
「……」
「白い服なんか着て、破面に囲まれて、そんなのっ、」
 
 本当に惣右介くんが敵みたいじゃないか。そう最後まで続けられなかった言葉が、代わりに涙となって両目から溢れる。
 嗚咽が口の端から細く漏れ、いつの間にか胸ぐらを掴み上げていた私の両手はすがるように惣右介くんの服を握っていた。
 お願い、冗談だと言って。またいつもみたいに笑ってよ。そう懇願をするように彼を見上げる。なのに、惣右介くんは何も言ってはくれなかった。
 視界がぼやけて、綺麗になって、またぼやけて。止めようのない涙が何度頬を伝おうとも、彼は決して私が望む言葉を口にしない。
 
「否定してよ、お願いだからっ、嘘だって」
「残念だがこれが真実だよ」
「っ、何で教えてくれなかったの!」
「教えて一体何になると言うんだ」
「そんなのっ、止めるに決まってる!」
 
 殆ど怒鳴り声に近い声だった。なのに、惣右介くんは微塵も動じない。それが悔しくて唇の端をきつく噛む。あぁ、そうだ。いつだってこの人は私の言葉じゃ動いてくれない。そういう人だった。
 やがて惣右介くんを糾弾するのも馬鹿らしくなってそっと彼の服から手を離した。うつ向いた視線に私と惣右介くんの足元が写った。
 黒と白、私達が敵同士だという変えようもない事実にまた涙が溢れそうだった。
 
「少し話をしよう」
「……拒否権なんてないんでしょ」
「流石、私の唯一の友人だ。理解が早くて助かるよ」

 いつのまにか「僕」から「私」になった一人称にひそりと眉が寄る。本当に別人みたいだ。
 
 そんな私を見てどう思ったのか、惣右介くんはふっと笑って私の手を引いたのだった。
 
 
 
 

 乾いた夜風が体をすり抜けて流れていく。頭上には月が煌々と輝いていて、本当にここは別の世界なんだなと今更ながらに思った。遠くに目を凝らしてみても果てしない砂丘が続くだけで、生き物の気配がまるでない。
 惣右介くんが連れてきたのはこの世界を一望できる城の最上階だった。一望といっても、ただ静かな砂の世界しか見えないのだけれど。
 
「さて、何から聞きたい」
「何も」
「おやいいのかい?」
「どうせ聞いたところで理解できないし、私が何を言ったって惣右介くんは笑うだけでしょ」
「まぁ否定はしないかな」
 
 塀に寄りかかった惣右介くんは片腕を乗せて面白がるように私を観察していた。髪を撫で付けて白い衣服に身を包んでいても、笑顔だけは変わらない。知らず知らずの内に昔の彼を見つけようとしている自分に腹が立ったが、それでも探らずにはいられなかった。

 ふと胸元にしまいこんでいた存在を思い出して私はそっとそれを取り出す。随分と長い間持ち歩いていたせいで包装はすっかりシワだらけになっていた。かさりと包みを開いて取り出すと中身はあの日と変わらず綺麗なままだ。
 少し迷って、私はそれを彼に差し出した。

「これ、」
「なんだい?」
「惣右介くんにあげようと思って買ったの」
「君が私に贈り物を?」
 
 返って来た返事は以外にも驚きを含んでいた。思わず顔を上げて月光に照らされた表情に目を凝らしてみると、彼の褐色の瞳が本当に驚いたように見開かれていた。えっ、と思わず声が漏れてしまったのは仕方がないだろう。
 だって、まさかこんな顔をするなんて思わないじゃないか。きっと笑って流される、そう思っていたのに。
 
「えっと、その」
「……へぇ」
 
 彼は腕輪を手にとり、しげしげとそれを眺めた。編み込まれた唐紅色の紐を指でなぞったり、結び目についた小さなトンボ玉を頭上に輝く月に重ねてみたり、暫く何かを考えるように眺めていた。その瞳は懐かしい色を灯していて、私の心臓はきゅっと苦しく縮む。
 やがて満足したのか、惣右介くんの手首に腕輪が嵌められた。あぁ、やっぱりよく似合う。
 思わず目を細めて彼の腕を見てしまう自分がいた。
 
「ありがたく頂くとするよ。折角選んでくれたんだ」
「……どうも」
「さて、本題に入ろうか」
 
 コツコツと足音が近付き、私のすぐ目の前で止まる。端正な顔に見下ろされた瞬間、この男についに捕まってしまうのだと他人事のように確信する自分がいた。最初から逃がす気はこれっぽっちも無かったのだと。
 
「なぜ君を連れてきたのか、分かるかい?」
「何となくは」
 
 それでも遅咲きすぎる恋心は未だに私の胸で咲き続けていたのだ。彼が裏切ったと聞いたときも、彼が私達を貶める為に百年も前から準備していたと知った時も。決して枯れなかった私の心が、彼を前にした今もまだ残ったままだった。
 
「ここで一緒に生きて欲しい」
「……どうせまた拒否権なんてないんでしょ」
「残念ながらね」
 
 ……――いいよ。
 
 囁きに近い声は夜風に溶けて消えたのだった。