I Love You
「わたし、死んでもいいわ」
「……はあ? どうした急に」
とうに日も暮れ、空では月と星が明るく輝いている。
澄み切った冬の夜空は宇宙から送られる光をさらに鮮明に映している。
グレイは古典の授業の時に教師が雑学のようなものとして話していた二葉亭四迷の訳のことを言っているのだろう。
いつものように授業は睡眠時間だとでも言わんばかりに盛大に寝ていたナツは勿論そんな話知らないだろうということを見越して。
「やっぱお休み中だったか、ナツさんは」
「だから、なんなんだよそりゃ」
「二葉亭四迷がI Love Youをわたし、死んでもいいわって訳したんだとよ」
グレイは真っ暗な夜空にポツンと煌いている月を見上げながら答えた。
「…ふ〜ん、またポエマーだな、双葉さんは」
「双葉さんって…、ナツも少しは見習うといいんじゃね? そうすりゃ彼女の一人や二人できるかもよ」
「オレはそんな小細工なくたってモテるっつーの!」
「あっそ。でもまずはその空っぽの脳みそどうにかした方がいいんじゃね」
「んだと!? グレイのくせに…。……」
いつものように言い合いになるかと思いきや、突然ナツは黙り込んだ。
「ナツ?」
グレイは真面目な顔つきになったナツを不審げに見つめる。
I Love You
授業中に聞こえてきた教師の声が甦る。
江戸から明治の人々にとって愛とは一般的ではなく情を重んじていた。そして日本人の感性には合わないだろう直接的な言葉より、叙情的な文句を使ったのだという。
死んでもいい、だと。つまりは愛している、ということなのだが。
グレイが本気で言ったわけではないことなどわかってはいる。授業で知った言葉をただ使いたかっただけかもしれない。知らないであろうナツに教えただけなのかもしれない。
けれど、珍しく話を聞いていたナツはそれが何を意味するか分かっていた。だからこそ、ナツにとっては錘のようにその言葉は圧し掛かった。
死んでもいい。
本当に愛しているならどうしてそんなこと言うのだ。
ナツは教師の話を聞き流しながらそんなことを思った。
何故、愛している人と生を全うしないのか。死んでもいいくらいにあなたを愛しているということなのだろう。だが、やはりわからない。
もし。
もしも、愛した人と一生をともにできるのならば、オレならできるだけ長い時間一緒に居たいのに。
何故明治時代の人間はストレートに愛していると訳さなかったのだろうか。それがあの時代の風潮だったからと言われても腑に落ちない。
だってこんな回りくどい言い方しても相手には何も伝わらないではないか。
……いや、むしろ。だからこそ、そう訳したのかもしれない。
伝えたくても伝えてはならない。そんな時の為に?
ならば、なんて素敵な言葉を残してくれたのだろう、先の偉人たちは。
ナツは心配そうに見てくるグレイを見つめ返した。
真っ暗な空には月が浮かんでいる。気のせいか。いつもより輝きが増しているように思えた。そのせいで周りの星が霞んで見える。
「今夜は、…月が綺麗だな……」
「ぇ、そ、れ……」
静かに闇夜に吸い込まれるように囁かれた言葉にグレイは驚いたように目を見開いた。
「夏目漱石の言葉だろ?」
「な、んだよ…。話、聞いてたのかよ……」
「まーな」
何故か不機嫌そうなグレイにナツはちらりと見やるとグレイの頭上に広がる夜空に瞳を向けた。しかし、次のグレイの言葉ですぐにグレイに視線を戻すことになる。
「…どういうつもりで言ったんだ…? 意味、分かって言ってんのか」
「……は?」
どういうつもりもなにもない。そのままの意味だ。本当は。しかし、そんなのグレイが知る必要はないし、伝えるつもりもない。
というより、どういうつもりで言ってほしかったのだろうか。
「それ、は…」
期待させるような言い回ししやがって。ひどく心臓に悪い。
一瞬浮かんだ想像にナツは自嘲的に微笑んだ。
「…どういうつもりも何も、綺麗だろ」
月明りに照らされるお前は。
その言葉を胸の奥に仕舞い込んでナツは月を見上げた。
「…ああ。そう、だな」
グレイは安堵か落胆か、短く息を吐き同様に月を見上げる。
やっぱこんな言葉じゃ伝わらない。
いつまでこんな想いを燻らせていればいいのだろう。この想いに終わりはあるのか。どんな結末が待っているのだろうか。そんなの知る由もない。
しかし、もしいつか、伝えることができる日が来たら、何と言おう。
月が綺麗だな? お前のためなら死ねる?
クサすぎて言えるわけねぇ。
なら、オレらしく。
好きだ―――
って。