掬う悪魔


 どろどろと、重力に従うがままに滴り落ちる夢の残渣。
 私が私である為に、擦り切れた掌が心細くも確かに握り締めていた蜘蛛の糸。
 無理に這い上がろうとしたからなのだろうか。そんなつもりはないのだけれど。ふつりと途切れたそれは、今まで必死に握り続けていた私を嘲笑うかのように呆気なかった。
 再び地獄の底に叩き付けられたかのようだ。しかし、その地獄は不気味な程の生温さをもって私を真綿でくるみ込む。
 地獄の底でじっとりと、ねっとりと私を転がすのは鬼か悪魔か。もう望むものなど何もない私は唯唯命果てるまで転がされていくのだろう。
 傷だらけの掌に僅かに残った美しいきらめきが、いっそ憎たらしく感じられた。……早く消えてしまえば良いのに。



 にわかに感じた慣れない気配に、微睡みの中にあった意識を急速に持ち上げた。
 指を動かそうとして、身体中を駆け巡る鋭い痛みに顔を顰める。
「無理に動いてはいけません」
 聞き慣れない、けれど優しい音色が頭上から降ってきた。
 身じろぎさえまともにできない私を覗き込む、鮮明な赤。
 それはあっちこっちへ伸び散らかって、その真ん中ではぽつりぽつりと浮かぶ吹き出物の痕が、これまたあっちこっちに散らかっている。
 重たそうな衣を身に纏った彼を眺めているうち、夢と現の狭間にあった意識が帰ってきた。
 視線だけをぐるりと巡らせる。シンドリアでも、『祖国』でもない、独特の建築。焚かれた香が独特で、現にあるはずの意識がぼうっとしてしまいそうな印象を受けた。
 室内を照らす明かりは、丸く縁どられた窓から差し込む月の光と枕元にある蝋台だけ。清潔なシーツに包まれた私は、包帯まみれだった。
 身体を動かそうとして激痛が走ったのは、見てくれ通りの怪我を負っているという事なのだろう。一通り状況を確かめた後、ふたたび赤髪の男に視線を戻した。
 眠たそう、という第一印象を受けた眼は相変わらず気だるげで、しかし中途半端に降ろされた瞼の奥から覗く眼光はぎらぎら鈍く輝いていた。
 ぞくり、と背筋が僅かに震える。
「あなたは……」
 開いた唇が、やけに乾燥している事に気が付いた。問い掛けようと発した声は、掠れてまともな音になってくれない。
 ……どうして、ここにいるのか、わからない。
「もう、一週間も貴方は眠っておられました」
 私の困惑を知ってか知らずか、彼は静かに口を開いた。
「あの戦いの後、力を使い果たした貴方を保護しました。重症を負っていた為、医師を総動員させて治療に当たりましたが……目が覚めて、本当によかった」
 淡々と語る言葉は、最後だけ安堵の色が滲んでいたように感じる。
 『あの戦い』……思い出せずにいた私の脳裏に、少しずつ蘇る記憶の片鱗。
 全てを無くしてしまった私の、最初で最期の大博打。
 戦場に躍り出た私は、持てるだけの力を振り絞り、戦った。じぶんのために。
 シンドリアでも、『祖国』でも、ましてやほかの国の誰かの為でもなく、ただ自分が戦いたかったから。
 ……他の人のような戦う術を持たぬ私にとって、それは死にに行くようなものだった。呆気なく返り討ちに遭い、戦場から弾き出される。そこで、皆が戦っているのを見ながら惨めに息絶える筈だった。
 ただ独りで。それなのに。
「なぜ、私を助けたのですか」
 全てを無くし、自分を賭けた戦いにさえあっさり負けた私には、もう残るものは何も無い。
 それだというのに、この男は死にゆく私を引き留めた。お互い、今の今まで知らなかった筈なのに。
「シンドリアの……あの国の薬剤師は、とても優秀と聞いている。それが、貴方であることも、知っている」
 男が身を屈めた。ぼさぼさと伸び散らかった髪が私の頬をくすぐり、寝台に片腕をついた事で僅かに身体がそちら側に沈む。
 相変わらず 、細められた瞼の奥では、ぎらぎらとした眼光が私を見つめている。
「戦場を駆ける貴方を、見ていました。何が貴方をああも突き動かしていたのかはわかりかねますが……その力が、欲しいと思ったのです。薬学に精通し、人工的に魔力を生み出せる、その力を」
「……」
 あの僅かな時間で、そこまで見られていたのか。
「しかし……」
 ぎらぎらとした眼光は、続く言葉を濁した時にどろりと揺れた。
 寝台についている腕とは反対側の手が、私の頬に触れた。ひんやりとした彼の手に肌が粟立つ。
「それは我が国の為。そこに私の意志はなかった……けれど」
 長い指先がするりと私の頬を撫で上げる。ぞわぞわとする感覚に居心地の悪さを感じて身じろぎをするが、離してはくれなかった。
「その、全てを飲み込んでしまいそうな黒曜の瞳に、心を奪われたとでも言えば良いのでしょうか。……貴方を、私の傍に置きたいと思ったのです」
 ぞく、と怖気が背筋を走るのがわかった。
 どろりと濁った眼光は、じっとりと私の眼をねめつけている。囁かれる言葉を耳にしながら見上げれば、心なしか恍惚としているようにも見える。
 どうして、初めて会ったばかりの素性も知らぬ男に愛の告白を受けなければならないのだ。頬に触れる手を払いのけたいのに、痛む身体がそれを許してくれない事に苛立ちを覚える。
「私の意志は無視ですか」
「貴方に、私の言葉を無視出来るだけの意志があるとは思えませんけどね。あの国を出た事は知っていますよ」
「……」
 ベッドの上に散らばる髪が、彼の手に掬い上げられ、口許まで運ばれていく。
 先程よりも身体が密着しているように感じるのは、きっと気のせいではないだろう。
「離してください」
 拒絶の言葉を口にすれば、髪に唇を寄せていた彼はうっすら口許を歪めた。まるで、拒否される事すらも望んでいるかのように。
 彼が何を考えているのかちっともわからなくて、眉を顰めた。口では私に惚れたと言っているが、どこまでが真実なのだろう。
 我が国、と言っていた。出で立ちから推するに、彼は煌帝国の者なのだろう。それも、上質な生地で仕立てあげられた派手な衣服から身分の高い者だという事が伺える。
 彼の言葉をそのまま受け取るならば、私の薬学の知識を利用するために目を付けたらしいが、思惑に反して一目惚れをしてしまった、という所か。
 ……ふざけた話をするものだ、この人は。ならば、そのうっそりと微笑んだ瞳の奥で冷たくぎらつく光はなんだというのだ。
 己の意志を無視して自由に言葉を操る人間は苦手だ。絹が触れ合うだけでも生じる不快感を傍らに、私の心がすうと冷えていくのを感じた。
「そもそも、貴方は誰なんですか。知らない人にいきなりそんな事を言われても、困ります」
「ああ、これは失礼しました。私は練紅明。この煌帝国の第二皇子にあたります」
「皇子……」
 想像よりももっと凄い身分の人に迫られている事を知り、思わず息を飲み身を固くした。
 どうして、身分の高い人間達は私を素直に死なせてくれないのだ――胸中で恨み言を呟くが、それで状況が良くなる訳でもない。
 せめてもの抵抗にと、下唇を噛んで思い切り睨み上げる。けれど、紅明と名乗った男はその視線でさえ悦んで受け入れている。
「そう怖い顔をしないでください。貴方をどうこうしようというつもりは……まぁ、少しだけありますが、それだけです。それ以外はただ私の傍にいてくれれば、それでいい」
「拒むと言ったらどうするおつもりですか」
「一生外には出しません」
「なんて酷い……」
「大丈夫、死ぬまで安らかな生活である事を保証しますよ。私の傍にいる限りですが」
 そりゃあ、皇子ともあろう身分の者の傍にいるならそうだろう。
 けれど、心まで安らかでいられる保証は無い。
「そういえば、貴方の名前を聞いていませんでしたね。教えてはくださりませんか」
「……薬剤師とでも呼んでいただければ」
「ミディ殿ですね。シンドリアの者達が必死に貴方を呼び止めていましたよ。まぁ、その時貴方は気を失っていたから聞こえてはいなかったでしょうが」
 いっそ、人形にでもなった方が良いのだろうか。
 確かに言葉を交わしている筈なのに、投げた言葉はすべて意味を成さない。
 くらりと、横になっているにも関わらず眩暈を覚え、視線を遠くに投げた。
「おや、お疲れですか。私とした事が、貴方が目を覚ましてくれた事が嬉しくて、つい遊びすぎてしまったようです」
 人を弄んでいる自覚はあったらしい。
 もはや密着していた身体を起き上がらせ、寝台から離れた彼は不気味に笑んだ。
「後ほど医者を遣わせます。本当はずっと貴方の傍にいたいのですが、そうもいかないのが歯がゆいですね。……また明日、様子を見に来ます」
「もう、放っておいてくださいませんか」
「そうはいきません。貴方の能力は兄王様も欲しているのです。生きてもらわねば」
 弱々しく吐き出した懇願の言葉はあっさり切り捨てられた。
 それではまた、と不気味な笑みを湛えたまま部屋を後にする紅明を呆然と見送り、足音が遠ざかったのを確かめてから目を閉じ大きく息を吐いた。
 目が覚めた時はそうでもなかった筈なのに、今では全身が冷や汗でじっとりと濡れてしまっている。
 心臓がまるで耳の奥に移動してきたかのように、鼓動の音がけたたましく感じられる。頭痛さえ感じて、目尻に涙が浮かんだ。強く唇を噛めば、咥内に鉄の味が広がった。

 惨めに握り締めていた糸が切れ、ようやく安寧の世界に行けると思っていた。
 けれども堕ちた先で私を待っていたのは不気味なほど生温い世界で、雁字搦めに捕らわれた私は此処から出る術を、力を、意志を持てない。
 掌に僅かに残った美しいきらめきは、どうやら私をいたぶる為だけに残っていたらしい。
 全てを無くした暗い瞳が見上げる先に、うっそりと笑む鮮明な赤があった。



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