この手に落ちるその間際


 その日、ジタンはやけに落ち着きがなかった。
 そわそわと揺れる尻尾は音を立てている訳でもないのにやかましく、見る者の眉間に皺を作らせているのだが本人はまったく気に留めない。
 見た目が五月蝿いって、なかなか凄いことだと思うわ。幼い声が至極呆れたようにぼやいたが、その呟きは当人に届くことなく宙に溶けていく。
「ジタン、そんなにソワソワして、何か美味しいモノでも見つけたアルか?」
 空気を読むという言葉を脳内辞書に搭載していないクイナが、ジタンの挙動を不思議に思って声を掛けた。
 触るな馬鹿と誰かが言ったが、当然そんな声を耳に入れるわけもないジタンはぐるりと大袈裟な動作で振り返る。
 その見事な反応に、さきほどぼやいた言葉を流された幼子が眉間に皺を寄せた。
「よくぞ聞いてくれた、クイナ! 今日はな……スヴェンが調べ物だとかでダゲレオに行ってるんだ。これがどういう意味かわかるか?」
「ウーム……?」
「オレとハクエの仲を邪魔するヤツがいないってことさ! あぁ、どれだけこの時を待ちわびたことか……!」
「スヴェンがいないと、何か美味しいものでも貰えるアルか?」
「もっちろん! いつもハクエの背後霊よろしく付いて回ってるアイツがいないんだ。これが美味しくなくてなんだってんだ」
「ハクエは美味いアル?」
「あぁ、きっと美味いに決まって……ん? クイナ待て、ヨダレを垂らすんじゃない」
 声を掛けてしまったが最後、嬉々として語り出すジタン。
 クイナがちっとも噛み合わない相槌を打ってくれた為にそれは饒舌な喋りをしていたが、クイナが返したどこか不穏な空気の漂う言葉と今にもよだれが溢れそうな表情を見てふと我に返った。あれ、もしかしなくても話す人を間違えたかな。
「そういう事なら早速ハクエを探しにいくアル!」
「クイナ、誤解だ! ……あぁ、行っちまった」
 時既に遅し、ずんぐりとした体格からは想像できないほどの素早さで宿の外へ飛び出して行ったクイナ。
 ジタンが慌てて声を掛けるも届くことはなく、伸ばし掛けた腕を力無く垂れ下げる。
 一部始終を遠巻きに眺めていた仲間達が、やれやれといった風に息を吐いた。
 そこに、革製のブーツが板張りの床を踏みしめる軽やかな音が響く。
「誰か、呼んだかしら?」
「ハクエ、無事だったか!」
「……無事って?」
 寝坊をしたらしい、他の皆より遅れて支度を整えたハクエが現れた。
 ジタンの言葉に首を傾げつつ、近場のテーブルに腰掛けダガーが差し出したサンドイッチを頬張る。
 もぐもぐ咀嚼しながら辺りを見て、何故か仲間が自分たちの方を見ないことに気が付いた。
 たった今サンドイッチを渡してくれたダガーでさえ、早々にエーコの元へ行っている。ハクエはますます首を傾げた。
「みんな、どうしたの?」
「なあハクエ……」
 ハクエと同様に一行を見渡したジタンは、皆が気を遣ってくれている様子に気分を良くして(面倒だから関わりたくないだけなのだが)おもむろにハクエの隣に腰掛けた。
「ねえジタン、みんなどうしたの? なんだかヘンよ」
「まぁまぁ……今日ヒマだろ? どっか行かないか?」
 ハクエが腰掛けている椅子の背もたれにさり気なく腕を乗せ、距離を縮める。
 たいして嫌がる素振りも見せないハクエにジタンの機嫌はますます上昇した。
 背後で椅子を引く音やらスイングドアが軋む音やらが聞こえてくるが、気にしない。
「どこかって?」
「ここはトレノだぜ? 行くところなんて数えきれないほどあるさ!」
「そうねぇ……確かに飽きないほどあるわね」
「だろ?」
 顎に手をやって考え込む姿を間近で見れて、ジタンの尻尾はゆらゆら揺れた。ともすれば鼻歌でも歌いそうなほどである。
 滑らかそうな頬も、さらさらの銀糸も、長いまつげの下から覗く綺麗なアメジストも、今はジタンだけのものなのだ。
 しかし、そんなジタンの心境を知ってか知らずか、サンドイッチを飲み込んだハクエはにっこり微笑む。
「じゃあ、みんなでいきましょ……あれ、皆は?」
 見れば、つい今しがたまでホテルのラウンジに集まっていた仲間たちは忽然と姿を消していた。
 さっき席を立つ気配がしたのはこれか、とジタンは合点がいったのだが、それに気付いていなかったハクエは首を傾げている。
 みんなオレ達に気を遣ってくれたのか? ニクい事してくれるじゃないか。ジタンは仲間たちの顔を思い浮かべながら心の中で感謝の気持ちを述べ、ハクエと調子を合わせた。
 もちろん、皆はハクエが周りに声を掛けることを想定した上でジタンから余計な恨みを買わぬよう退避したまでである。
「あれ、みんなどっか行っちまったみたいだな……仕方ない、二人でいこうぜ、ハクエ」
「そうね。残念だけど、そうしましょ」
 残念だけどって、オレと二人きりが残念ってこと?
 喉元まで出掛かった疑問を何とか飲み込んだジタンはハクエの手を取り立ち上がった。
 兎に角、二人っきりになってしまえばこちらのものである。
 先ほど仲間達がぞろぞろと押し潜っていったスイングドアを広げたジタンは自然な動作でハクエの腰に腕を回し、夜のトレノへ踏み出した。

 ◇

「トレノにこんな静かなところがあるなんて、知らなかったわ……」
「どうだい、気に入ってくれたかい?」
 賑やかなカードスタジアムの脇を抜け、水面に浮かぶ石畳を幾つか踏み越えた先。
 スタジアムの裏手にあたるこの場所には、建物の柱にぽつぽつと備えられた松明と夜空に浮かぶふたつの月の他に明かりはなく、薄暗さの中に落ち着いた雰囲気が漂っている。
 水面を照らす月明かりと、夜を飲み込んだ世界でまばらに浮かぶ建物の明るさ。そして遠くから聞こえるカードバトルの喧騒。ほかに人気はなく、スタジアムの壁に凭れて見るトレノの町並みは美しく幻想的だった。
 柱に区切られて見える景色はまるで世界の一部をそのまま切り取った絵画のよう。それを独り占めしているようで、なんとも贅沢な気分になれる。
「綺麗ね……」
 そっと吐き出した感嘆の音が静かに溶けていく。
 こうしていると、自分達だけ時間の流れが止まってしまったかのような錯覚にとらわれる。
 どこか心地よさを感じる静けさが妙にくすぐったい。ハクエもジタンも同じ思いでいるようで、壁に凭れたまま互いにはにかんだ。
 松明の炎が二人の影を伸ばし、輪郭がゆらめく。

 トレノの街に出た二人が足を運んだところと言えば、オークションや魔物のいる武器屋。臭いスラム街を歩き、オープンカフェで貴族に紛れて紅茶を舐め、カードスタジアムで大会の観戦。
 デートというよりは単にトレノの街をふらふら歩いた感が否めないが、ジタンのエスコートが上手なおかげでハクエはちっとも飽きる事が無かった。
 よく笑い、よく驚かされ、少しでも楽しませたいというジタンの細やかな気遣いが嬉しかった。きっと、それはハクエの気付かぬところまで及んでいるのだろう。
 締めくくりと言わんばかりに案内された、静かなこの場所で余韻に浸る。
 ちらりと横目でジタンを見れば、穏やかな横顔が絵画の向こうを眺めていた。
 見慣れた顔の筈なのに、こんなにも間近で彼を見た事があっただろうかと、思わず見つめてしまう。
 少年の横顔は、何故だかハクエを惹きつけて止まない。
「ん、どうした?」
 ハクエの食い入るような視線に気付いたジタンが振り向いた。腰から伸びる尾が一度揺れ、軽く壁を叩く。
 優しい色の双眸に映る自分の姿を見たらなんだか恥ずかしくなって、視線を逸らした。
「ううん、なんでも」
「なんだそりゃ」
 からかいを含んだ声に、今度は顔ごと背けた。胸元に手を寄せて、そっと握りしめる。
 掌の下で弾む鼓動を悟られぬように。
 さっきまで心地良かった時間の流れが、にわかに騒ぎ出して落ち着かない。沸き上がる戸惑いをきちんと隠せているだろうか。
「ハクエ」
 そんなハクエの様子を知ってか知らずか、ジタンの囁く声が間近に響いた。
 いつもより低い声が耳をくすぐり、ハクエは堪らず肩を竦ませる。あたたかな吐息が掛かり、顔を背けている間に距離を詰められた事に気付いた。
 ぞくりと僅かな背筋の震えと共に鼓動のざわめきが激しくなる。ともすれば、胸を突き破ってしまいそうなほど。
「ジタン……」
 顎に手を添えられ、視線が重なるまで持ち上げられる。
 再び青い双眸に映し出されたハクエは、先程と違って戸惑いの表情を浮かべていた。そこに少しばかり混じる、艶めいた熱。
 自分がこんな顔をしているだなんて、ハクエは信じられなかった。
 これではまるで、
「そんな顔して、もしかしてオレに惚れちゃった?」
「……なにバカな事言ってるの」
 そんな訳ないと、否定する事は出来なかった。
 気丈を装って顔を背けようとするも、顎に添えられた手が許してくれない。
 せめて視線だけでも逃げようとするが、どうしてもニヤけたジタンの顔が視界から消えてくれない。ハクエは眉を垂れ下げた。
 だって、吐いた吐息が掛かるほどの距離に彼はいるのだ。握った掌の下で跳ねる鼓動を聞かれはしないかと、思わず手に力が篭る。
「そろそろ素直になってくれてもイイと思うんだけどなぁ」
「素直も何も、私は自分に正直なつもりだけど」
「ふーん、そうなの?」
 顎に添えられたジタンの指先が静かに滑った。輪郭を撫で上げ、耳に触れられる。
 なぞられた跡から波打つように肌が粟立ち、思わず息が漏れる。
 どうしようもないくすぐったさと逃げたくなる恥ずかしさ。けれども不快感はなく、触れられた部分からじわじわと熱が広がっていく。
 積極的にジタンに迫られたことは、一度や二度ではない。
 でも、いつも何かしらの介入によって直ぐに終わってしまう事が殆どだ。(おそらく、8割くらいは師匠の手に因るものだろう)
 正直に言えば、ハクエはジタンに対して芽生えつつある気持ちの遣り方を決めかねていた。
 ジタンが自分に特別な感情を抱いてくれている事はとっくに気付いているし、承知の上でのらりくらりかわすことに申し訳なさを覚える事も少なからずあった。
 その訳を思えば思うほど、彼を受け入れることは躊躇われるのに、それでも。
(……それでも、私はジタンのことが……)
温かな彼の腕に、身を任せてしまいたくなる。

 一方で、ジタンは腕の中で大人しくなったハクエを見て口角を持ち上げていた。
 普段仲間たちに見せる頼もしき勇士の姿や、年上だからなのか時折見せてくれる優しい姉のような顔。それらとは全く違う、年頃の少女の恥じらう姿が目の前にはある。
 その表情を引き出したのが自分であることに、ジタンの征服欲はなかなかに満たされていた。
(こりゃ、もう一押しってとこだな……)
 頬が熟した果実のように染まっているのも、握り拳で誤魔化す胸元で騒ぎ立てているであろう鼓動の速さもジタンは全て見抜いていた。
 数え切れないほどのアプローチの中で、ハクエは自分の事をそれなりに好意的に捉えていると確信しているジタン。
 毎回絶妙なタイミングで現れる邪魔者のお陰で今まで実らせる事が出来なかっただけで、押せば落ちるだろうという自信もあった。
 幸いにして、邪魔を入れてくる率ナンバーワンである彼女の保護者は不在だ。やるなら今日しかない。
 大切に守られている宝物を盗み出すようなスリルに似た高揚感に、ジタンは心の中で舌舐めずりをした。
 どんな言葉で落とそうか。恥じらうハクエを眺めながらいくつもの案を浮かばせては消し、もっと良い言葉は無いかと策を巡らせる。
 シチュエーションは上々で、ターゲットは陥落寸前。あとは、とびきりの口説を一つ落とせば間違いない。落ちるに決まってる。うん、というかいい加減落ちて欲しい。
 空気を読むのが上手な仲間たちはきっと邪魔をしては来ないだろうけど、今夜はみんなとは別の宿を取る必要があるな。オレの方が年下だけど、ここは男らしくしっかりリードしないとな。

 などなど、邪な考えをしていたから気付けなかったのかもしれない。
 俯いていたハクエがおもむろに顔を上げ、ある一点を見つめていたことに。
 ちょうどその視線の先から、不穏な足音が響いていることに。
 そして、ハクエと楽しいひと時を過ごしたジタンはすっかり忘れていた。
 数刻前、ホテルのロビーでとあるク族と交わした会話の内容を。
 そう、脳内辞書に空気を読むという言葉を搭載していない食の権化は今も尚「ジタンが美味しいと言った」ハクエを探してトレノを彷徨っていた。
 そして、かの者はついにハクエを発見した。
 けれど、ジタンがハクエを壁際に追い詰めているではないか。それも、こんな人気の無いところで。あれは皆に隠れてハクエを食べようとしているに違いない。それだけは阻止しなくては。だって、ハクエは美味しいと言うじゃないか。独り占めは良くないアル。
 ……そう思ったかどうかは本人しかわからない事だが、食の権化ことクイナは駆け出した。ジタンとハクエ目掛けて、真っ直ぐに。勢い良く。
 当然、そんなやり取りがあった事を露とも知らぬハクエは突如こちらに向けて駆け出したク族に並々ならぬ悪寒を感じ、ジタンの腕の中で暴れる。
「お、おい。そんなに暴れるなって」
「じ、ジタン! 後ろ!」
 突如、腕の中から出ようと暴れ出したハクエに戸惑うジタンは、掛けられた言葉に後方を振り返ろうとした。
 しかし、後方を確認するよりも先に、勢い良く突進してきたそれに弾き飛ばされる。
「うわっ!?」
「ジタン!」
 石畳の上に強かに身体を打ち付けたジタンが見たのは、だらりと舌を伸ばしハクエへにじり寄るクイナの姿だった。
 何故ここに、と思うジタンだったが、クイナの手にフォークが握られているのを見て表情を一変させる。数時間前のやりとりを思い出してしまったのだ。あいつやっぱり本気で受け取っていやがった。
「ハクエ、逃げろ!」
「え、ええ!」
「大人しく食べられるアルよ〜!」
 ジタンの言葉に反射的に走りだしたハクエを追いかけるクイナ。素早く身体を起こしたジタンもまた、その後を追う。
 せっかく後ちょっとで落とせるかもしれないという所だったのに、とんでもない邪魔が入ってしまった。
 暴走するクイナを止めるべく走るジタンは、今日も今日とて想い人を落とす事の叶わなかった結末に大きく息を吐いた。



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