近くて遠い



 夕方、明日の仕事のための荷物を準備していると、宿儺が不思議そうに私の手元を覗き込んできた。
 そういえば宿儺が来てから仕事で遠征するのは始めてだったかなと思い至る。

「明日は京で仕事してくるね。早朝から出かけるけど、日暮れまでには帰ってくるよ」
「京、だと?」
「貴族のお得意様のところを回って、そのあと市に寄るの。このあたりだと手に入らない薬の材料が並ぶこともあるから」

 食べるものは主に村の人たちとの物々交換や治療の対価として手に入れている。手前味噌だが私の薬は重宝されていて、一人では食べきれないくらいの農作物を分けてもらえているので、宿儺がたくさん食べてくれて助かっているくらいだ。
 生きていくだけならば村の中だけで仕事をしていればいいのかもしれないが、新しい薬や治療法の研究には京の市にしか出回らない稀少な品が欠かせないし、手に入れるには銭も必要となる。それに、必要としている人には一人でも多く薬を届けたいというのは、薬師として私が掲げている目標でもある。

 と、怪訝そうにしている宿儺になぜ京で仕事をするのかを伝えたのだが、彼の顔は晴れない。どうやら仕事内容や理由とは異なる懸念があるようだ。

「この村は日帰りできるほど京から近いのか?」
「うん、街道沿いに歩けばそんなにかからないよ。村の人たちも収穫した野菜とかを行商しに行ってるの」
「ならば京の者もこの村を訪れるか?」
「それはないかな。なんにもない村だし」
「……そうか」

 いつもは遠慮を知らない物言いをする宿儺が、奥歯にものが挟まったような態度を取るのが気にかかる。
 私は荷造りの手を止め、まっすぐ宿儺の顔を見上げた。

「なにか心配事?」
「……いや」
「大丈夫だよ、なんでも言って?」

 人らしい形をしたほうの二つの眼が戸惑ったように右往左往している。一方で面のようなものの奥にある眼はじっと下を向いて、私の顔を凝視していた。なにかが彼の中でせめぎあっていることが伝わってくる。
 やがて宿儺は重々しく口を開いた。

「京の呪術師どもに見付かったら、追われることになるだろう」

 夜闇の中でも煌々と輝いている赤い瞳が、暗く、冷たく、水底に沈んでいるかのようだ。

「俺は忌まわしい化け物、だからな」
「……」

 その言葉を、誰が、宿儺の心に突き刺したのだろう。
 顔も名も知らない誰かに苛立ちすら覚えてしまう。恐らくはずっと幼い頃から突き刺さって抜けなかった棘が彼を蝕んで、孤独な飢えた獣のように仕立て上げてしまったのだ。

 身体の傷には薬を塗れるけれど、心の治療は簡単なことではないというのに。

「──宿儺」

 堪らなくなって、私は彼の頬を両手で包んでいた。柔らかい感触とごつごつした表面とをいっぺんに撫でると、四つの眼がはっと見開かれる。

 本当の心無い怪物ならばきっと、そんな傷ついたような眼をして自分のことを語らない。宿儺自身がどう言おうと私にとっての彼は治療すべき患者で、危なっかしくて放っておけない、普通と少し違うだけの同居人だ。

「大丈夫よ、この村に京の役人なんて来たことはないもの。あなたを追い詰める人は、ここにはいないよ」

 宿儺は幾度かまばたきをして、それから目を伏せた。

「そうか。ならば良いのだがな」

 吊り上がっていた眉尻からは力が抜けていたけれども、納得し安心したというより、なにかを諦めて一歩退いたような顔だった。
 痛ましくて、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。宿儺が少なくとも私のもとでだけは警戒を解いて心から安らげるようになるために、私には一体なにができるのだろう。それは新しい薬を開発することよりずっと難しい課題のような気がした。

 ***

 京での仕事の時はそれなりに身なりを整えないと相手にされない。よそ行きの小綺麗な装束に身を包んで薬箱を背負った私は、宿儺に見送られて早朝に家を出た。

 朝食は握り飯だ。京までの道中、休憩がてらに食べるために準備したもので、宿儺にも同じものを作って渡してきている。
 ちょうどいい河辺に腰を下ろして食べる握り飯は、作り慣れたもののはずなのに味気なかった。塩の分量を間違えただろうか。家に帰った時、宿儺から文句を言われなければいいのだけれど。

 仕事は順調に進んだ。お得意様の貴族のお屋敷に常用の薬を届けたり、この頃は喉が痛むなどと聞いて診察してはその場で調合して処方したり。水仕事の多い下女たちにはこの時期、手荒れを和らげるための塗り薬が人気だ。

 懐が潤ったら今度は市に足を運んで、紙や油などを買いつつ、掘り出し物を物色する。これといって食指の動く薬の素材は見付からなかったけれど、これはぜひ宿儺に食べさせてあげようと思うものはあった。稀少品のため少々痛い出費となったけれど、今回の遠征ではだいぶ薬の売れ行きもよかったので許容範囲ということにする。

 宿儺のために着物を買っていってあげようかとも考えたが、やめておいた。どこで誰が見ているかわからない。独り身のはずの薬師が男物の着物を買っていった、などと噂が立って詮索され、万が一にも宿儺が居候していることが露見したら彼が厭う事態になってしまう。

 それに、脇に穴の空いている女物の着物のほうが宿儺にはちょうどいいようだし。丈が合わないのは暇を見付けて手直ししてあげよう、と今後のことを考えながら帰路につく。

 ***

 山の稜線が茜色に染まる頃合い、私は自宅の戸を開いた。

「ただい……ま?」

 しん、と静まり返った室内。出迎えの声も、握り飯の味付けへの文句も無い。

「宿儺?」

 呼び掛けてみたものの、返事が無いことはわかっていた。家の中からは何一つ生き物の息遣いが感じられなかったのだ。

 誰もいない我が家に帰ってくる。今までもずっとそうだったはずなのに、大事なものが欠けてしまったかのような心地がしていた。夕暮れの家の中の薄闇はこんなにも重く、冷たいものだっただろうか。

「どうして……宿儺……」

 頭によぎったのは最悪の想像だ。呪術師に見付かれば追われる──昨日の彼の言葉が甦ってくる。ここには彼を害すものなんて来ない、というのは私の楽観に過ぎず、万が一の事態が訪れてしまった──?

 戸の脇に荷物を放り、草鞋を脱ぎ捨てて、私は慌ただしく屋内へと上がった。あちこち見て回った部屋の中は早朝出てきた時のままで──荒らされたり暴れたりしたような形跡は無い。
 庭の畑も健在だった。大切な薬草を育てている畑に異変があれば帰ってきた時に気付いているに違いない。少なくともこの家に宿儺を追う者が踏み込んできたというわけではなさそうで、私は軽く息をついた。

 それなら宿儺はどこへ──?

 私は草鞋を履き直して表に出た。黄昏時の闇が満ちつつあり、特に山へ至る道の先はそれが顕著だ。
 誰そ彼──そこに人がいても顔を識別できなくなるような夕闇に呑まれている。

 人に姿を見られることを避けている宿儺が里のほうへ向かったとは思えない。行くとしたら山の中だ。
 これまでにも時々ふらりと獣を狩りに行くことがあった。きっと今日も同じに違いない。たまたま手こずって帰りが遅くなっているだけで。だけどもし、狩りの最中に大怪我をして人知れず倒れているのだとしたら。こうしている間にも手遅れになってしまったら──

 私は炊事場に取って返した。薪の先端に藁を巻いて火を灯し、即席の松明を作り上げる。
 山に行かないと。行って宿儺を探さないと。

 しかしいざ暗い山道を前にすると、逸る心に急制動がかかる。夜の山は慣れた村人でも近付かない、危険な場所だ。限られた視界では山の地形そのものが脅威となる上に、凶暴な獣も徘徊するし、怪物だって出没するという。
 私がたった一人で山に入って、宿儺の助けになるのだろうか。確実に彼を探すには日の出を待ったほうが──でもそれでは間に合わないかも──

 答えの出ない問いがぐるぐると渦巻いているところに、突然、闇の中から赤いものが浮かび上がってきた。それが放つ、只ならぬ鋭利で冷酷な圧に、ざわざわと全身が総毛立つ。
 四つの暗く赤い光が徐々に近付いて──やがて重圧がふっと和らいだのと同時に、夜闇の中から溶け出すようにしてその姿は現れた。

「オマエだったか。火なぞ持っているから術師どもかと警戒したぞ。紛らわしいことをするな」

 見慣れた四つ腕の姿。着物を着崩して上半身を晒し、背になにやら大きな獣を抱えている。右腕に巻いた布には血が滲み、さらに全身が泥で汚れていた。既視感を覚える状況にも、私の心臓は一向に静まってはくれない。

 互いの顔を視認できていなかった時の冷たい重圧が、彼が身を置いてきた過酷な境遇を物語っていた。
 命の危機が当たり前にすぐそこにあり、近付くものすべて威嚇していなければ自分の身が脅かされる。食べるものに困るというだけでない壮絶な放浪の日々を垣間見て、胸がえぐられるようだった。

「……宿儺、よかった、無事に帰ってきてくれて」
「大袈裟だな。狩りに行っていただけだ。見ろ、大物だぞ。手こずった上に傷も開いてしまったが、食いでがあるだろう」

 宿儺が身体を傾けて背中の獲物を見せてくる。背負っているのは巨大な猪だった。村の人でも獲ったことのない大物に、いつもならば手を叩いて歓声を上げられただろう。
 しかし私は目の奥からせり上がりそうになるものを堪えて、じっと宿儺の顔を見つめることしかできなかった。

「おい、なんだ。妙な態度だな……まさか猪は食えぬなどとは言わないだろうな?」

 宿儺が怪訝そうに眉をひそめる。その発想や物言いが私の胸中とはかけ離れて呑気なものだったから、ようやく張り詰めていたものが緩んで、笑みを作ることができるようになった。

「だって、心配したんだよ。なにかあったんじゃないかって……昨日もあんな話をしたばかりだったし……」
「……そうか」

 今度は宿儺がらしくない顔をする番だった。

「俺の身に異変が起きたかと思うと、オマエはそんな顔をするのか──紬」

 柔らかく細められた眼差しは飢えた獣のそれではなく、縁側の日だまりで微睡む、人に慣れた動物のよう。

 私の気持ちを、煩わしいとも不要だとも払い除けず、そんな眼をして受け取ってくれるなら、やっぱりあなたは化け物なんかじゃない。

 私は宿儺の横に並び、無造作に下りていた下側の手を取った。触れた時に少しだけ緊張したように感じられたけれど、拒まれることはなく、ためらいがちに握り返してくれる。手を包む、とも言いがたい、皮膚が接するか薄皮一枚分離れているかの距離感。けれど決して一方通行ではない触れ合いが、温かくてくすぐったい。

「帰ろうね、宿儺。また怪我も治療しなきゃ」
「ああ。……またあの青臭い薬か」
「治るまでちゃんと毎日塗ってあげるね」

 薬なら、いくらでも。新しい傷にも古傷にも、身体にも、心にも。


20211123


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