トリカブトと飢えた獣



 腹が減った。

 宿儺が虚ろな目をして見上げた空は嫌みな程に青く澄み渡っていた。鳥の影の一つでもあれば撃ち落としたのだが、生憎と鳥獣の気配は無い。

 ぼろ布のような着物を纏った四本腕の異形の体躯は細く、布の隙間から骨が浮き出て見える有り様だ。しかし宿儺は、その見てくれに釣り合わぬほどの強大な呪いの力を噴出させている。
 獣は脅威に対して敏感だ。呪いを恐れて、狩れる距離まで近付く前に逃げてしまう。
 宿儺が己の呪力を抑制できれば狩りにも挑めるのだが、空腹のあまり気が立っている状態ではそれも難しい。
 近寄ってくるものはといえば──

「ぅぅぅおおおおぉぉぉぉ……」

 醜悪な呪霊くらいのものだ。

「うるさい、三下が」

 木々の合間から姿を現した、巨大な人面の芋虫のような呪霊を睨み据えた宿儺は、長く伸びた爪の先で虚空を薙いだ。斬撃の術式が芋虫を八つ裂きにして体液じみた呪いの残滓が飛び散るのと同時に、宿儺の右上腕からも激しく血液が迸る。

「チッ」

 宿儺自身の呪力に肉体が耐えきれず裂けてしまったのだ。忌々しさのあまり顔を歪め、塵のように霧散していく呪霊の末路も見届けずに、宿儺は歩みを再開した。
 身に宿る呪力は日に日に増していくが、肉体のほうは未熟だ。宿儺が真に強くなるには術式の余波を物ともしない身体を獲得しなければならない。
 そのためには食わねば。
 肉を、食わねば。

 狩りは満足に行えない、となれば、狙える肉は一種類のみだ。
 あれはさほど美味くない。生のままではえぐみが強いし、焼いても硬い。しかし、掃いて捨てるほど寄せ集まって群れを作り、危機への嗅覚が鈍く、逃げ足が遅い。あれほど狩りやすい肉は無いのだから、選り好みはしていられない。

「行くか……」

 宿儺は人里へと足を向けた。山の斜面を下る彼の辿った道のりを示すように、腕から流れ出た血が点々と赤黒い染みを地表に作っていった。

 ***

 まだ集落の中心から距離があったが、目の前に屋根が見えてきた。農地の中にぽつんと立っているが、十分な広さのあるその建物は農作業用の納屋ではなく人が住む家屋のようだ。

 存外早く、大した手間も掛けずに肉にありつけそうだ。宿儺は意気揚々と家屋に近付き、ふと横手に群生している青紫の花へと妙に視線を引き寄せられた。

 なぜ花などと腹の足しにもならないものが気に掛かるのかと訝しむ宿儺だったが、その理由にはすぐに思い至った。花穂が斜めにしなる形が、憎き呪術師どもの被る烏帽子に似ているのだ。そう連想してしまったせいで突如、不快感が湧き上がってくる。
 左下の手で群生している花の茎を鷲掴み、ぶちぶちと引き抜いた。
 喰ってやる。花などでは腹は膨れまいが、味気ない新芽や硬いばかりの樹皮などよりは食えたものだろう。その蜜を呪術師どもの血潮と思って味わってやる──

「待って! それは食べちゃ駄目!」

 青紫の花を口腔に収める寸前、女の声が宿儺の耳に飛び込んできた。
 宿儺は素早く声の方向に振り向く。念願の獲物にありつける予感に、彼の瞳孔は開ききっていた。視界に収めたのは籠を背負った若い女。

 食える。肉を食える。声も上げる間もなく仕留めてやる。

 宿儺は呪力を練り上げつつ右腕を上げた。獲物を前にして、先の呪霊を片付けた際に負った傷のことを忘れていたのだ。術式を解き放とうとして、膨れ上がった呪力が腕の裂傷を内側から押し広げ、鈍く強い痛みが走る。

「ぐ……」

 痛みにより一瞬途切れた集中は、相手に行動の余地を与えた。これが呪術師であれば今にも宿儺の身体は呪力に灼かれているか、式神に取り囲まれているかであったが、目の前にいるのはただの女。

 人畜無害であるどころか──後に知ることであるが、かなり奇抜な女なのだ。

 彼女は身を屈めて傍に生えていた白く大きな花の根元に手を突っ込み、土ごと白い塊を掘り出したのだった。

「どうしてもお腹が空いて今すぐ食べたいっていうならこっち! 生で食べるのはおすすめしないけど少なくとも毒はないから!」

 必死の形相で掘ったばかりの花の根を差し出してくる女に宿儺は毒気を抜かれ、意識しないうちに練ったはずの呪力が霧散させていた。
 土まみれのそれを食べろというのか、と。たった今、花を食おうとした己を棚に上げて怪訝な顔を向けてしまう。

「え、待って!? 怪我してるの!?」

 はっと息を飲んだ女が小走りに近寄ってくる。あまりにも警戒心の無さすぎる振る舞いに、宿儺はむしろ困惑さえ覚えた。
 四本腕に、異形の顔。この容貌を目の当たりにして、着目するのは腕の怪我なのか。人と同じ赤い血が流れることにすら驚愕と侮蔑を見せる人間もいるというのに。
 女は宿儺の目と鼻の先にいる。術を用いずとも容易く首を掻き切ることのできる距離だ。だが、神妙な顔で宿儺の腕の裂傷を見つめる女に対して、そうしようとは思えなかった。なぜなのかは宿儺自身にもよくわからない。

「ちょっと見せて……って、駄目だ、今手が汚れちゃってるんだった。ちゃんと診るからひとまず家に入っててもらえる?」
「オマエは……」
「あ、お腹空いてるんだよね。大したものはないけどご飯もあげるから」

 早口で捲し立てる女に、宿儺は面食らっている。

「……何だ、オマエは」

 口をついた疑問は宿儺の戸惑いがそのまま現れたものだった。
 俺を恐れないのか。怖がらないのか。化け物だと悲鳴を上げず、怪我を診て、食料を与えようというのか。それに何の得がある。なぜそんなことをする。
 一連の疑問のすべてが混ざりあった「何だ」だった。
 女はきょとんとして目を瞬かせ、柔和な笑みを浮かべてみせる。

「大丈夫、怖くないよ。私は薬師だから、怪我をした人は放っておけないの」

 訊いているのはそういうことではないし、俺が女なぞを怖がるわけはないだろう──と、女の顔を見ていると言い返すのも馬鹿馬鹿しくなって、宿儺は彼女の案内に従い家の敷居を跨いだのだった。

 ***

 女にされるがまま、べたべたと粘度の高い液体を塗りたくられて布を巻き付けられた右腕を、宿儺はまじまじと観察していた。

「青臭い匂いがする」
「気に入らない? でも我慢してね。ヨモギがたっぷり入ってる傷薬なの。臭いけどよく効くよ」

 宿儺の腕の治療に使った道具を手際よく片付けながら、女は笑って応じる。

 妙な匂いがするのは女の家の中も同じだ。様々な植物の匂いが濃縮されて混ざり合って、寺の抹香臭さにも似た匂いが充満している。
 初めは困惑して身構え、慣れてきてもやはり奇妙だと思うのに、不思議と不快ではない。まるでこの女そのものを体現しているような匂いだと宿儺は思った。
 次に女は手桶と布を持って宿儺の前にやってきた。

「身体も拭こう。さっきは傷の周りしか洗ってないけど、よく見たら全身どろんこなんだもの」

 彼女は自身の着物が濡れないようたすき掛けで袖をまとめていた。布を手桶の中の水に浸し、それを捻って絞る。いくよ、と声を掛けながら濡れた布が宿儺の左上の腕に当てられて、冷たさに思わず宿儺は肩を震わせた。くすりと女が小さく笑みを零す。

「冷たかった? この時期、井戸水はだいぶ冷たくなってるものね。夏場はいいんだけど」

 言いながら腕を拭き終えて、もう一度布を水にさらしてから、今度は左の下の腕に手を伸ばしてくる。宿儺の腕が四本あることは間違いなく認識しているらしい。あまりにも平然としているので副腕も呪印も見えていないのではないかと訝しんでいた宿儺であったが、その線はなさそうだ。

「オマエ、俺が恐ろしくはないのか?」
「うん? 急にどうしたの?」
「人は俺を異形の化け物だと恐れる」
「形がみんなと少し違う人は、時々いるよ。私の父も足の指が六本あったんだ」
「……程度というものがあろう」

 足の指が多いのと、四つ目、四つ腕、腹に第二の口があるのとでは大分違う。宿儺の形を「少し違う」で済ませるこの女の神経が、宿儺には全く理解できない。

「無いより多いほうが便利そうだよね。いっぺんに二つの薬を調合できたら、って思う時もあるもの。次、服の内側も拭くよ」

 女が宿儺の着物の合わせを開く。ぼろ布のようなそれはほとんど衣服としての役割を果たしておらず、脱ぐ前から肌の大部分は露出していた。腹の口も見えていた筈だが、動かすことはしていなかったので横一文字の傷跡かなにかとでも思われていたかもしれない。
 女を脅かしてみたくなり、宿儺はぐぱりと腹の口を開いてやった。大きな口腔と舌と、凶悪な歯並びを前に怯んだ顔を見せる──かと思いきや、女は唇に手を当ててじっと腹を覗き込んでくる。

「わあ、これも消化器官? どうやって内臓と繋がってるの? ここからこうやって胃まで管があるとするとこっちの臓器は……待ってそれだと血管が……」

 爛々と目を輝かせながら、宿儺には理解のできない言葉をぶつぶつと呟き考え込んでしまっている。薬師というのはこういう生き物なのだろうか。
 見当違いの反応に拍子抜けして、宿儺は軽く溜め息をつきながら口を閉じる。あ、と女が声を漏らした。こんなものに未練を見せるな、と苦言を呈したくなる。

「あはは、失礼、ちょっと盛り上がっちゃって。身体、拭くね」
「……あとは自分でやる」

 身体を拭きながら皮膚の下の内臓を検分されるようで気味が悪い。

「そう? じゃあ私は夕餉の支度をしてくるね」

 食い下がるかと思いきや、女はあっさり席を立つ。
 宿儺が渡された布で身体の汚れを落としていると、そもそもなぜ初めから大人しく身体に触れさせていたのかと、自分に対して疑念が湧いてくる。他人の手なぞ不要で不快であるはずなのに、壁をすり抜けるようにして入り込んでくるあの女は、なんだというのだ。

「……チッ」

 宿儺は舌を打って乱暴に顔を拭った。一番初めに傷の手当てだと言って腕に触れられたから、その延長で許してしまっただけ。それだけだ。
 途中、女が戻ってきて宿儺に着替えを差し出してきた。

「よかったらこっち着て。古着だけど、ぼろよりは良いと思うの。脇に穴がある女物のほうが、あなたの身体には合いそうだし」
「……」

 宿儺は眉をひそめて女を睨むが、彼女はすぐに「鍋が!」と叫びながら調理場に取って返してしまった。

 物陰に隠れてしまった背中に吐きかけるつもりで重い溜め息をつく。
 どんな神経をしているのだ、本当に。四本腕だから脇に穴があったほうが便利だ、なんて十数年この異形の身体と付き合ってきた宿儺ですら考えたことがなかった。いつも副腕の邪魔になる布を裂くせいで着物が傷みやすいのだが、仕方の無いことだと捉えていた。

 あの女と関わっているとまるで自分が「少し違う」だけの人間であるかのような気がしてきてしまう。宿儺の身には既に、人の身には行き過ぎた呪いが宿っているというのに。馬鹿馬鹿しい茶番だ──けれども、やはり不思議と不快ではない。
 宿儺は女物の着物に袖を通す。草の匂いが染み込んだ着物は妙に肌に馴染んだ。

 薬草くさい家の中に、次第に飯の炊けるいい匂いが漂ってくる。その時宿儺はやっと、己が腹を空かせていたことを思い出した。


20211115
生前宿儺様の若い頃妄想のシリーズです。
マッチョな呪いの王になる前に狩られる側の飢えた狼みたいだった時代があるのかな…という妄想からうまれました。


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