寄り添い合うもの
窓から差し込む陽が真横から宿儺の均衡のとれた身体を照らし、引き締まった筋肉のおうとつを際立たせている。日焼けした肌はしなやかで美しく、傷やその跡といった外観を損ねるものは何一つなかった。
「本当に……治ってる……!」
怪我が治ったと宿儺から知らされた時、私は心底驚いたのだ。今朝の診察ではまだひどい状態だったのに、その日のうちに治るなんて考えられない。けれども傷を保護していた布を取って身体を見せてもらうと、宿儺の申告通りに傷は跡も残らずきれいになくなっていた。なにがどうなったのかはともかく、完治したと納得するしかないのだった。
「反転術式、っていうんだったかな」
呪力の作用で傷が治ったのだと宿儺から聞いて、私が思い出したのは以前に宮仕えをしていた頃に聞いた話だ。
「陰陽寮には呪術を怪我の治療に使える人もいるって聞いたことがあるよ。私は見たことはないんだけど、それと同じものなのかも」
呪術を用いた治療は万人に広く行き渡るものではなく、ごく一部の貴族の特権階級や、激しい戦いで怪我を負った呪術師や武士のために施されていたようだ。私のような薬師は多くの人々の日常に寄り添うような薬や医術を提供していて、活動の場が重なることはまったく無かった。
「なるほど、術師どもも使う技だったか。やはり奴らが厄介なことに変わりはないな」
宿儺がはだけた着物の前を合わせて帯を締め直す。
私が手伝わなくても自分でしっかりと着付けができるようになったのだなあ、としみじみ思った。
「宿儺にはもう、私の薬は必要ないんだね……」
「……あ?」
「えっ……あっ」
私は慌てて口を手で覆う。言うはずのないことがぽろりと口をついてしまったことに気付いた。ここは「治ってよかったね」と笑うべきところだ。薬師が怪我の完治を喜ばないなんて──
──喜べないのは、私がもう宿儺を一人の患者として見ることができないからだ。怪我を診る必要がなくなって、彼が私のもとを離れてしまうのが寂しい。一緒にご飯を食べたり、畑仕事をしたり、毎晩隣で寝て毎朝おはようと言いたい。私が初めて、ずっと一緒にいたいと思った、かけがえのないひと。
宿儺にとっては、そうではないのだろうけれど。
呪術のおかげで薬はもういらない。飢えから脱却し、立派な身体を手に入れた彼はきっとここを出ても、衣食住を整え、一人で強く生きることができる。
「ええと、今日はそろそろ陽が傾くし、夕餉の支度を始めようか。食べるよね?」
「……ああ」
今すぐ出ていくつもりはないとわかって安心する。身一つでここへ来た宿儺は、去るときも荷造りを必要としない。私の家はなにもかもそのままで、ただ宿儺のいた空間だけがからっぽになって──それはなんて残酷な別れ方なのだろうか。私に残された空白はきっと、いつまでも埋まらない。
「明日の朝は、多めにご飯を炊いておにぎりを作る? あと干し肉とか、日保ちする漬物とかも──」
「オマエ、痛いのか?」
無益な寂寥感に囚われていないでなにか今後の宿儺の糧になることを考えよう、と思った。ある種の現実逃避だ。それども、そんな私の思いを咎めるように、宿儺はきつく眉間にシワを寄せて私を見下ろしてくる。
「どうして? 痛い、なんて……」
「苦痛を堪えているような顔をしている」
「……」
こういう時ばかり勘が良いのが困りものだ。心の覆いを取り去って剥き出しにされてしまったら、うまく顔を作れない。
うつむきかけたところで宿儺に手首を掴まれた。私は困惑しながら彼の眼差しに向き合う。
心許なさそうに揺れる瞳が、そこにあった。
「──俺も、痛い」
宿儺に掴まれた手が誘導された先は彼の胸元だった。きれいに傷の治った胸板越しに、とくんとくんと鼓動が伝わってくる。その律動は些か足早に感じられた。
「ここが痛む。呪力を使っても消えない」
「胸の……怪我以外での、痛み……?」
「なにかの病か? どうすれば治るか、オマエにはわかるか?」
「……痛みは、いつから? 気付いたきっかけはある?」
「怪我が治ったこと、か……。オマエのもとにいる理由がなくなったと考えた時から……だったかもしれない」
「っ……」
彼の言う痛みの出所に察しがついて、私は思わず息を呑む。
はじめに不機嫌そうに見えたのは宿儺自身も自分の状態を持て余していたからのようだ。
私は宿儺のいろいろな一面を見たつもりになっていたけれど、まだ、彼の心を理解するまでには至っていなかった。それなのに勝手に自分に都合のいい言動を期待して、それが外れて落ち込んで、宿儺は私と一緒にいたいとは思わないのだと決め付けていた。
「宿儺、その痛みは──」
今まで一人で生きてきて、一人が当たり前だった宿儺には、寄り添い合う誰かを失う寂しさがわからないのだ。
寂しいという気持ちを知らないから、その痛みをもたらすのが心であることも、わからない。
「これはオマエの薬で治るものなのか?」
きつく眉を寄せる宿儺が辛そうで、もう見ていられなくて。
「大丈夫、病気じゃないよ」
私は彼の胸に飛び込んで、大きくて立派なのに立ち上がったばかりの小鹿のように不安定に見えるその身体を、ぎゅっと抱き締めた。
「それはね、寂しい、っていう気持ちだよ」
「さび、しい……」
「宿儺は、ここにいたいって思ってくれるんだね。怪我が治ってここを出て、一人に戻るのは、宿儺にとっても寂しいことだったんだね」
「……そうか、俺は……寂しい、のか」
頭の上から心細げな声が降ってくる。厚い胸板とは対照的な声音。宿儺の身体は、心よりも随分と先に逞しく成長してしまったのだ。私は彼を抱きしめる腕にさらにぎゅうぎゅうと力を込めた。
「あのね、私も同じなの。宿儺がいなくなるのは寂しい。宿儺がよければ、ずっといてくれていいんだよ?」
「……わからん。理由もなしにか? 俺を傍に置くことでオマエに何の得がある? 力仕事とて、自分一人でもできる、などと口癖のように言っていたではないか」
「理由も、損とか得とかも、関係ないよ。私が宿儺にいてほしいの」
「……そう、なのか。──もう一つ訊きたいのだが」
言いながら、宿儺の下側の腕が私の着物の袖まわりを触っている。
「オマエは先程から、どうして俺の身体にしがみついている?」
「……こうするの、イヤだった、かな?」
「そうではない。ぬくい……が、落ち着かない」
衝動的に抱きついてしまったことを反省しつつ、嫌がられはしなくてほっとした。
私がこういう行動を取ったことの意味も、宿儺にはわからないのだろう。それなら私はちゃんと説明をするべきだ。少し、恥ずかしくはあるけれど。知っていることと知らないことの間で気を揉むようなことはもうしたくない。
「これにはね、あなたが私にとって特別に大切なひとです、っていう意味があるんだよ」
「……そうか」
一拍置いて、宿儺の腕が私の背に回された。頭から首、肩、背中と腰。四本の腕をすべて使って身体全部を包み込まれるように、抱き返される。
「では、俺もこうすれば良いんだな」
あったかくて、心地いい。
くっついたのは身体だけではなく、心も一緒に。
「俺も、オマエと共にいたい」
「うん」
「オマエと離れるのは、寂しい」
「うん……大丈夫。ずっと一緒にいようね」
広い背中をゆっくりと撫でれば、私の背に回された腕の力が強くなり、頬が胸板に押し付けられた。とくん、とくん。伝わってくる鼓動は、先程のものよりも緩やかだ。
「宿儺、もう痛くない?」
「……そうだな。不思議だ。こうしているだけで治ってしまった」
「ふふ、よかった」
離れがたいという思いは二人とも同じだったのだろう。私と宿儺はしばらく抱きしめ合って、互いのぬくもりと鼓動を伝えあっていた。これからいつでも傍にいるというのにもっと感じていたいと思うのは、今この時の温かさをずっと忘れずにいたいから。
陽が傾いてしまう。まだやらなければならないことがたくさんあるから、行かないと。でも、もう少しこのままでいたい。時間が止まってくれたらいいのに。
20211204
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