生存競争



 野生の獣の中で、熊は最も手強く厄介な生き物だ。ものによっては宿儺を上回る図体を持ち、膂力はさることながら、巨体に見合わぬ俊敏さと賢さも持ち合わせている。熊を相手にするのは獲るか獲られるかの綱渡りであり、他に安全に仕留められる獣がいるのならば避けるべき相手だった──以前の宿儺ならば。

 飢えに苛まれていた頃とは違う、強靭な肉体と精神力を有する宿儺が熊を相手に繰り広げるのは命懸けの勝負ではない。
 狩りだ。
 強いものが弱いものを食らう弱肉強食の掟。その天秤は確実に、宿儺の側に傾いている。

「ケヒッ、うすのろめが」

 咆哮を上げながら突進してきた熊の爪をひらりとかわし、宿儺は口の端を吊り上げる。
 確信があった。集中を高めさえすれば止まったようにすら見える熊の動き。その図体が身を翻すよりも早く、宿儺が指先に結集した呪力が斬撃と化して迸り、獣の首を深々と切り裂く、と。

「『解』」

 言の葉に乗せることで、呪力によって具象化した斬撃はより鋭く研ぎ澄まされる。甲高い音と共に打ち出した術式は、獣の強靭な毛皮も厚い脂肪も薄紙のように切り裂いた。
 鮮血が噴き出し、獣の断末魔がこだまする。ずん……と地に伏した熊の巨体を、宿儺は四本腕すべてで後ろ足を掴んで持ち上げた。手近な木のもとへ引き摺って運び、幹を利用して逆さ吊りの状態で固定しようと試みる。仕留めた獲物は一刻も早く血抜きをしないと肉が不味くなるためだ。
 重い肉の塊を木の幹に立て掛けるのは容易ではなく試行錯誤していると──

 ゾッ、と背筋が粟立つ。本能が鳴らした警鐘に従い、宿儺は獲物を放り捨ててその場を跳び退いた。

 木々の奥から飛来する、呪力の塊。それは熊の腹に風穴を開けてめり込んだ途端に炸裂し、血と肉を凄惨に撒き散らした。

 獣の血や細かな肉片が頭上から降りかかってくる。宿儺はそれを手の甲で拭い取って払い、森の奥を凝視した。
 只ならない気配に全身が総毛立つ。やがて木陰から姿を現したのは、烏帽子を被り狩衣を身に付けた──京の呪術師。

「やあ、新しい手駒を探しに山に入ってみれば──とんだ獲物に出会うものだ」

 狩衣の肩には手足が異様に長く眼窩が落ち窪んだ、猿のようなものが乗っている。無論、真っ当な生物であるはずがない。呪霊を飼う術師など、初めて見る。これまで相手にしてきた呪術師どものどれよりも厄介であろう敵の出現に、宿儺は眉間に深くシワを刻んだ。
 だが──
 一歩ずつゆっくりと宿儺に近付いてくる術師との距離を、宿儺は慎重に測る。

「その姿、おまえが例の両面宿儺って化け物だろう? 仕留めて帰れば俺も一目置かれ──」

 キンッ、と甲高い音。
 言葉の先を紡ぐはずだった男の喉は真一文字に切り裂かれ、おびただしい鮮血が噴き出した。

 力なく地に崩れる、ただの肉塊と化した術師。宿儺はそれを一切感情の無い目で見下ろした。厄介な呪術師であるならば、相手がなにかする前に首を掻き切ってしまえば良い──それが経験則からくる、身を守るための術だった。

 宿儺は危機のにおいに敏感だ。物心ついた時から化け物として追われる立場だった宿儺が、どうにか生き延びてきた中で培った、野生の嗅覚だ。

 しかしその嗅覚は、今そこにある危機に対してのものでしかない。

 未だ獣に過ぎず、経験に乏しい宿儺は、一手先の未来に訪れるであろう危機を予測するまでには至らなかった。

「──っ!?」

 倒れた術師の身体を起点に膨大な呪力が立ち昇る気配を感じ、宿儺は息を呑む。
 怨嗟の呻きを上げながら実体化するそれらは単なる呪力ではなく、無数の呪霊どもの群れだった。

 術師が飼っていた呪霊が主を失ったことで一斉に解き放たれたのだ──宿儺がそう理解した時には、呪霊の群れが濁流となって押し寄せてきていた。

 ***

 切り捨てた呪霊の数はいかほどか、宿儺は初めから数えることなどしていなかった。何体いようが関係ない。全てを切り伏せなければ喰われるのは自分。呪霊の群れと宿儺と、より強いものはどちらか。ただそれだけだ。

「『解』──ッ、はぁっ、はぁっ」

 術師を始末したのはまだ陽があった時間であったのに、もう太陽は木々の合間に沈んで刻一刻と夜の闇が迫っている。宿儺は夜目が利くほうだが、呪霊の中にはもとから視力を必要としないものも多くいるだろう。闇は不利に働く。
 完全に夜の帳が下りるまでに残りの呪霊を倒しきるか、それよりも早く宿儺の呪力が尽きるか──冷静に分析する暇もない。ただ目の前にあるものを切るだけだ。

「チィッ……!」

 大蛇のような呪霊が宿儺の右主腕にかぶりつく。牙が肉を食い破る感覚に顔を歪めつつ、食われた腕の先に呪力を集めて口腔内で斬撃を放つ。上下に割れた蛇の頭が塵のように虚空に溶けたかと思えば、腹になにかが巻き付いてくる。

「っ……!?」

 軟体生物の触手に似た呪霊の腕。触れた部分から着物が見る間に溶けていく。これは触れてはならぬ毒だ、と判断するやいなや、宿儺は着物の裂け目からぐぱりと腹の口を開き、触手を噛み千切った。
 ちぎれた触手の残骸を横手から接近していた大ムカデ目掛けて投げつける。一瞬動きが止まった隙に斬撃を放ち、八つ裂きにして切り捨てた。

「はっ、はぁっ……!」

 キリがない。どれだけ倒しても湧いて出る。呪霊どもを一掃する手段として脳裏によぎるのは、宿儺が斬撃の他にもう一つ有する術式──炎を放つ術式だ。
 広範囲を火炎に包むあの術ならば呪霊どもを一掃することも叶う。しかしあれは制御の危うい諸刃のつるぎであり、おまけにごっそりと呪力を持っていく。今の宿儺の残り少ない呪力はすべて費やすことになるだろうし、そこまでしても本当にすべての呪霊を焼き払うことができるかどうか。全滅させられなければ致命的な──

 ──いや。

 そのとき宿儺の瞼の裏に浮かんだのは、柔らかな笑みを浮かべる薬師の顔だった。

 ──できるかどうか、ではない。

 彼女の纏う温かさを身体が覚えている。穏やかなひとときを想う心がある。

 ──やるのだ。

 呪力は感情から生じるもの。感情とは揺れるもの。

「■」

 常に抜き身の刃のようでいた頃よりも穏やかな凪を知った今の宿儺のほうが感情の揺れ幅は大きい。
 宿儺自身が限界だと感じていた容量を遥かに超えて、腹の底から呪力が湧き上がってくる。

「開──ごぶっ」

 左手の中に生じた炎が呪力を根こそぎ吸い上げ、それだけでは足りず更に生命力までもが炎の薪となり、宿儺は激しく血を吐いた。

「く……っ」

 肉体が上げる悲鳴を無視し、宿儺は炎を両腕で引き伸ばす。矢の形を成そうとするものの、暴れる炎を押し留めることができたのは僅かの間だけだった。
 宿儺から根こそぎ奪ったものを燃料にして、炎は激しく燃え盛る。火炎の舌が胸や顔面を撫でて皮膚を焼き、髪の先を焦がし、腕にも巻き付くようにして容赦なく肉を焼く。

「ケヒヒッ……!」

 それで構わぬ、と宿儺は嗤った。全身から搾り取られる感覚に痛覚すらも奪われていたからこそ浮かべることのできた笑みだった。

 ──構わぬ。燃えろ。眼前のモノどもを塵芥に帰せるのならば、すべてくれてやる。

 腕の中から火炎を解き放つ。あらゆる束縛から逃れた炎は一層激しく燃え上がり、大波のようになって森の木々ごと数多の呪霊を呑み込んでいく。

「ぐ、ぅ……ッ」

 宿儺は呻き、地に膝をついた。険しい視線の先では灼熱の大波が草木を蹂躙していく。呪霊どもの影が炎の中で不格好な舞いでも踊るかのようにうごめくのが見えるが、次第にそれらも崩れ、消え去る。

 やがて炎が消失すると、あとには闇に包まれた焦土だけが残った。焼け焦げた大地を照らすものも、動くものの気配も、何一つ存在しない。

 目論見通りにすべてを無に帰した──安堵のためか、突如として内臓が痙攣しこみ上げてくるものがある。

「ぅ、お、えっ……げほっ、げほ、……はぁっ」

 絞り出そうとしても出せるものなど無く、せり上がってくるのは苦い胃液だけだ。四つん這いになった宿儺の口からは黄色い泡がびしゃびしゃと吐き出される。

「ぜぇ……ぜぇ……はぁ……っ」

 嘔吐の不快感が落ち着いても立ち上がることができず、宿儺は仰向けに倒れ込んだ。夜闇ばかりが広がる視界の中に、白いものが混ざり始める。
 荒く上下する宿儺の胸板に冷たく白い粒が落ち、じわりと溶ける。雪か、と。ぼんやりと霞んだ思考の中でそれだけを考えた。

 しんしんと降り積もる雪が宿儺の体温を奪っていく。死闘のために火照った身体には、初めのうちこそ心地よく感じられたが、だんだん手足の先がひどく冷たくなってきた。
 冷たいのは、寒いのは、不快なものだ。
 その概念の出所がどこだったかを思い出した途端、沈みかけていた意識がふっと戻ってくる。

 宿儺が一人だったなら、このまま雪の中で冷たい眠りについていたかもしれない。けれども今の宿儺には帰る場所がある。宿儺が帰らなければひどく情けない顔をする者がいる。
 帰ろう。あの温かな場所へ。
 
 ***

 思うように動かない身体を引き摺るようにして下山した宿儺はひどい有り様だった。特に腕は片や深々と呪霊の牙が突き刺さったために血塗れで、片や炎に炙られ焼け爛れている。それ以外にも全身が傷だらけで、倦怠感のために身体が重い。普段よりも何倍も時間を掛けて、倒れそうになる身を叱咤し、どうにか山の麓の家にたどり着いた時には随分と夜が更けていた。

 目指す家の前に火が揺らめいているのが見える。宿儺は火を好まない。それは食糧と寝床を求めて人里を訪れたまだ幼い異形の子供を、里の外へと叩き出し、山狩りと称して夜通し追い立てたものだ。
 だが、今そこにある火は温かなものだ。
 焚き火の側でうずくまっていた人影が立ち上がるのが見える。被っていたむしろを放り捨てて宿儺に駆け寄ってくる。

 ぐらりと力が抜けて傾いた宿儺の身体を、彼女が受け止める。よろめきながらも、自分が血や泥で汚れるのも厭わずに、しっかりと抱き締めて。

「おかえり、宿儺」

 ああ、と応じようとした声は掠れて音にならない。宿儺はそのまま温もりに身を委ね、瞼を閉じた。



20211123
若くてまだ未熟だからこその逆境に立ち向かう若様。このシリーズで書きたかったもののうち一つです。



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