美容師宿儺さんとありきたりの恋愛
『今日の仕事終わりに伺います』
『会社の前で待つ。時間は』
『19時までには終わります』
ラインのブロックを解除したら何事もなかったかのように宿儺さんと連絡がついた。
そのことも含めてすべてが彼の手のひらの上で転がされているようで、無性に悔しい。
その夜、指定した時間の10分前。会社のビルの前には久しぶりに見る黒い高級車が停まっていて、私は促されるまま車に乗り込んだ。移動している間、車内は重い沈黙が支配していて、会話はおろか目が合うことすらもなかった。
***
青山の高級マンションの最上階。二度と来ることは無いと思っていた場所を訪れた私は、ダイニングの光景に目を疑った。
ペンダントライトの暖色光が照らすテーブルは上品な紺のクロスと銀のランナーが敷かれ、二人分のカラトリー類がまるでレストランのように並んでいる。
「これは……」
「ただ話をするだけというのも味気ないだろう。支度が済むまで適当に寛いでいろ」
キッチンに引っ込んでしまった宿儺さんを見送って手持ち無沙汰になった私はいつかのように窓の外を眺めていることにした。
あっちが表参道で、向こうが六本木。都会の街を掌握するかのような非日常の空気に、今日は呑み込まれないように気を張っていなければならない。
しばらくしてダイニングに来いと呼ばれる。
用意された食事は、フランスパンにスモークサーモンを使ったブルスケッタ、シーザーサラダ、鯛とあさりのアクアパッツァにローストビーフ、さらにはワインと、今日は何のパーティーなのかと戸惑うほどのもの。
「これ……まさか宿儺さんが作ったんですか?」
「ああ、そうだ」
「料理得意なんですね」
「人並以上ではあるな。気に入ったか」
「……こんなふうにしなくても、逃げませんよ」
席につかずにテーブルから目を反らす私に、傲慢さの滲む笑みを浮かべていた宿儺さんの眉が歪む。
「あなたがどんな人かわかって来てるんですから。もてなしてくれなくたって、大人しく抱かれます。その代わりに会社は助けてくれるんですよね?」
会社を助けたければマンションに来い、という言葉の意味は理解しているつもりだ。
私には想像もつかないほどのお金を持ち、なんでも金で解決できるのだと思っているような彼ならば、そのお金を使って会社の危機を救うことだってできるのだろう。投資の世界は、宿儺さんの主戦場なのだから。
そして彼はその財力を使って、私を好き勝手に弄ぼうとしている。
私は今の会社や仕事が好きだし、入社してからいっぱしの戦力になるまで育ててもらった恩もあるし、たくさんお世話になった先輩や上司、将来が楽しみな後輩だっている。会社が買収されればその全部が台無しになり、みんなが路頭に迷ってしまう。身体を差し出せば全部を守れるという切り札が私の手の中にあるのなら、それを使おうと決めていた。
既に一度は抱かれたのだ。再び繰り返そうと、覚悟さえ決めていれば、心まで蹂躙されることはない。
「……三分の一だ」
自分を納得させるための物思いに耽っていたとき、宿儺さんが唐突に告げた言葉がどういう意味なのか、私にはわからなかった。
「敵対的買収を仕掛けてきた海外ファンドより先に株式の半数以上を取得するための費用は、俺が持つ総資産の三分の一。決して安くはない。今後の投資計画は大きく見直すことになる」
きゅっと眉を寄せて言葉を続ける宿儺さん。その声音は、今まで聞いてきたどんな声より深刻な響きを帯びている。
「……そうですか。私の身体なんかにそんな価値があるとはとても思えませんけど。もっと他に綺麗で素直な女の子、いるんじゃないんですか?」
「身体の価値などとは思っていない。本気の度合いを示したまでだ。わからんか」
「……わかりません。全然、なにも、わからない」
ふうぅ……と長い溜め息の音が聞こえる。私は自分のつま先を見ながらそれを聞いていた。
「勘違いをしているだろう。他の女がいる、などと」
「な……勘違いなんて、そんな言い逃れ……!」
「ならば、スマホの履歴でも見てみるか? 家中の女の痕跡を探しても良いぞ。この家に連れて来たのはオマエだけだ。なにも出ない」
「……だって、自分が言ったんじゃないですか。他の女の人はゴムつけてなんて言わない、って」
「あれは金目当てに近付いてくる女狐どもの話だ。関係を持つことがあったのは認める。だが感情など無いし、オマエと関わる前のことだ。そも、奴らに精をくれてやったことなど一度もない。俺とて無駄な火種は避ける」
「……そ、そうだとしても、じゃあなんであの時、ちゃんとしてくれなかったんですか」
「逆に聞くが、なぜオマエはそう憤る?」
え? 私がおかしなことを言っているの?
本気で訝しんでいるような声で宿儺さんが問い掛けてくるものだから、自信がなくなってきてしまっていた。
……いや、私は当たり前のことを指摘しているはずだ。性交時には避妊をする。これが当たり前のモラルであるはずだ。
宿儺さんは一体どんな顔をして、なぜ怒っているのか、だなんて言っているのか。
見上げてみて──私は呆気にとられてしまった。
「どの女共も、俺の子を孕みたいと懇願してきたぞ。子種を注がれるのは悦びではないのか。オマエにだけはそれを許してやったというのに、その反応は解せぬ」
本気で言ってるんですか、なんて聞き返せなった。宿儺さんの目はどう見ても本気だった。
初めて見る数学の公式に首を捻る学生のような、あどけなさすら漂う顔付き。遥か高みから嘲り笑うような、彼の得意とする表情は一片たりとも見えない。
「え、と……」
こんな事態は想定していなくて、うまく言葉が続かない。
想像を絶するお金持ちで見た目も良い宿儺さん。デキ婚目当てで彼に迫る女の人がいたとしても、不思議ではない。
……そういう女性に囲まれすぎて、彼の感覚はすっかり麻痺している?
待って。それじゃあまるで。
私だけに、本気で私を喜ばせるつもりで、あんなことをした、っていうの?
「もし……子供ができたら、お金で解決するっていうのは……」
「産めばいい。なにも困らん。それだけの金も甲斐性もあると、理解していると思ったのだがな」
「……そんなの、わかるわけないでしょう。言ってくれなきゃ、なにも……」
「こっちを向け」
ふいと顔を背けると、目の前に宿儺さんが歩み寄ってきた。
両肩を掴まれ、距離が縮まる。見上げればきつく眉を寄せた視線とかち合う。なにもかもを手のひらで転がすような顔をする彼が、私をそんな眼で見ていることが切なくて、泣きたくなってくる。
「もう一度言う。俺のものになれ」
「……な、んで……私を、そんなに」
「オマエは頭がよく回る。聡すぎるのも問題なようだが、過ぎたことはまあいい。俺が金を持っていることに気付いても陰湿に嗅ぎ回るような真似をせず、それまでと態度を変えなかった。女との会話や食事が快いと感じたのは、初めてだ」
「……」
「足りないか? 手をかけて飾れば飾るほど美しくなるのも、贅を尽くした食卓に目を輝かせるのも……」
「待って、待ってください」
それ以上恥ずかしい言葉をかけられるのに耐えられなくて、慌てて静止の声を上げた。
宿儺さんは納得していないような顔をしている。でも、それは私も同じだった。
散々傷ついて、悩んで、混乱させられた私が、宿儺さんをもう一度受け入れるために一番必要な言葉を、まだ言ってもらっていない。私と感覚が違いすぎる宿儺さんは、たぶんこのままだと絶対に言わないだろうということは、なんとなくわかっていた。
「……宿儺さん、投資は感覚的にやるくせに、恋愛は理屈でするんですか」
「なんだ。はっきり言え。俺にはそういった機微などわからん」
「……」
これを口にしていいのかと、自惚れていいのかと、迷う気持ちが正直、まだある。
でも、今日の宿儺さんを信じてみたい。
言わなければわからないと主張しているのは、私の方だ。
「好きって、言ってください」
告げた声は微かに震えてしまっていた。
驚いたような、唖然としたような顔が返ってくる。
それが彼にとって不快なものではないと祈るしかない。
「好きって、大事にするって、言ってもら……わっ」
勢いよく身体を引かれ、宿儺さんの腕の中に閉じ込められた。思わず身をよじって逃れようとする。
「ちょ、宿儺さ……」
「……好きだ」
耳元で小さく、けれどはっきりと落とされた囁きに、全身がぴたりと固まってしまう。
「オマエが好きだ。大切にする」
「っ……」
ああ、だめだ、これはだめ。想像以上に胸にくる。
宿儺さんの腕の力はどんどん強まる。ぎゅうぎゅうと苦しいくらいに抱き締められて、私は彼の胸に顔を押し付けた。そうしないと涙が出てしまいそうだった。
「食事にしろ髪や化粧にしろセックスにしろ、俺が喜ばせてやりたいと思うのはオマエだけだ」
回りくどい言い回しばかりだった宿儺さんから初めてぶつけられた、剥き出しの感情が思った以上に大きくて、振り落とされないようにと必死になって彼の胸にしがみつく。
彼の愛は、恐ろしいまでに身勝手だ。嫌というほど思い知ってもなお、私はそれを受け入れたいと望んでいる。
「私も、好き。宿儺さんが好きです。宿儺さんの一番に、なりたい」
「は……痴れ者め」
ぐいと身体を引き離されたかと思えば、唇が重ねられた。
重なるだけなのに全身を溶かすような熱が伝わってくる。
「それならもう、なっている」
唇を離された途端、私は宿儺さんの手で両目を覆われていた。
若干掠れた切実な声で愛を口にする宿儺さんの表情が、見えない。
「手、どけてください」
「断る」
「宿儺さんの顔が見たいです」
「駄目だ。見せられるか」
そんなの尚更見たくなってしまう。
うんうん唸りながら手をどかそうと奮闘するも、びくともしない。そのうち呆れたような短い溜め息が聞こえてきた。
「見れるものなら見るといい」
声を合図にぱっと手が離される。突然取り戻した視界にどんなものが映っているのかを認識するより前に、今度は噛みつくようなキスをされ、思わず目を瞑ってしまった。
「んぅ、んっ……」
彼の性根のそのままに、口内を好き放題に舐め回す舌の動きに翻弄される。散々弄ばれて砕けそうになった腰を宿儺さんの腕がぐいと支えた。
ようやく解放されて呼吸を荒げながら見上げれば、宿儺さんは勝ち誇ったかのような笑みをニヤリと浮かべていた。
「望むものは見られたか?」
「……はぁ、はぁ……宿儺さんの、いじわる……」
「知っているだろうに」
「そうですけど!」
額をコツンとくっつけながら、囁き合うようにじゃれ合って、どちらからともなく啄むようなキスを交わす。胸の奥からじんわりと温かいものが広がってくる。
宿儺さんの大きな手が髪をすくようにしながら後頭部から首の後ろを撫でる。その手のひらは、熱い。
「抱くぞ。オマエを愛させろ」
「……せっかくのお料理、冷めちゃいますよ」
「構わん。もてなさずとも抱いて良いのだろう?」
「もう、そうやって……。また今度、出来立てをご馳走してくださいね」
キスを交わしながら、あ、そうだ、と思い出す。大事なことだ。
「今日はちゃんと、つけてください」
「できても問題はないと、」
「いいえ、こういうのは順序があるんです。結婚してないのにそういうのは、駄目です」
はあぁ、と長い溜め息に、濡れた唇の表面を撫でられた。
「明日にでも役所に行くか」
「ちょ……それだって、親への挨拶とか、いろいろ、」
「ふん。面倒なのだな」
「嫌になっちゃいました?」
「オマエをモノにするのに必要な手続きだというなら仕方あるまい。俺にわからぬものは全部、教えろ」
宿儺さんの言葉にしっかりと頷いてみせて、今度は私から唇を重ねた。
価値観も、感覚も、考え方も違う。そんなの、誰だって同じこと。
近くにいるからこそはっきりと見えてしまう価値観の溝を、言葉を交わして埋め合い、歩み寄る。お互いその気持ちを持っていればきっと寄り添っていける。
私はこれから、超越的で規格外の宿儺さんと、ありきたりの恋愛をしていくのだ。
20210704
偉っっっそうな男の身勝手な愛に振り回される美容師宿儺様シリーズ、最後までお付き合いいただきありがとうございました!