千年の呪いに紅を差す



 白灰色の怪獣が宙を泳いでいる。

「骨格標本っていいよね」
「そう? 俺は生き物の標本のほうがいいけどなあ。見てほら、ニホンオオカミだって。かっけぇ」
「剥製は……ちょっと不気味。私はああいうのが好きかな」

 展示ケースに指を置き、私は虎杖くんに言葉を返した。任務で訪れた真夜中の博物館では、通常開館時とは違って人目を気にせず言葉を交わすことができる。

 今回の祓霊対象は展示物に紛れて潜む呪霊だ。歴史的遺物のような長い時を経たものは、多くの情念を受け止めやすく、呪いが宿りやすい。
 本命の歴史フロアが空振りに終わったので、今は館内をくまなく探すため生物フロアに足を踏み入れているところだ。私たちの顔が映り込む透明な隔たりの向こうには、昔々に存在していた生き物の骨格が鎮座している。

 肉と皮の鎧を全て剥がされ根幹を剥き出しにされた代わりに、久遠の時を渡ることが可能になった、生命の成れの果て。

「死んだあともずっと残って、生きてた頃の姿を知らない人の目に留まるの。すごいことだよ」
「くだらんな」

 低い呟きに横を向けば、展示ケースに反射していた顔は同級生のものではなくなっていた。

「宿儺……」

 こうして彼が現れるのは珍しいことではない。私の術式は生得領域に干渉する性質を持つ。そのために私が傍にいると、虎杖くんの裡に潜むものを刺激してしまうようなのだ。

「骨とて壊れ、崩れ、砕ける。永久に形を保てるものなぞ在りはしない」
「……化石とかは、何万年も残ってるっていうけど」

 その時だ。展示ケースの内側から軋むような音が聞こえ、はっとした私は視線をそちらに戻す。
 展示物がぐるりと首を回し、頭蓋の大きな空洞をこちらに向けていた。眼窩に溜まった闇からなにかが滲み出て来ようとして──

「未来永劫残る保証はない。このようにな」

 言うが早いか、宿儺がほんの僅かに首を傾けたのを合図に甲高い金属音が響く。次の瞬間には、骨格標本はサイコロ状の石灰の塊と化して崩れ落ちていた。

「本体ではないな。付喪操術に似たものか」

 ふん、と小馬鹿にしたように鼻で笑う宿儺。私はといえばこの展示物がレプリカであり、多額の損害賠償などを求められないことを祈るばかりだ。

「気を抜くなよ。毎度そう都合よく身体を使えるとは限らん」

 気遣うような言葉を述べながら、しかし顔には全く発言にそぐわない嫌らしい笑みを浮かべて、宿儺は私の真後ろに立っていた。耳に息を吹き掛けられるほどの距離に驚いて振り向いた途端に彼の手が伸びてきて、背中は展示ケース、両脇は宿儺の腕に囲われ、閉じ込められる。

「あの、宿儺? なにを……」
「じきに小僧が目を覚ます。オマエにはその前に対価を支払わせねば」

 心底愉しげな笑顔が私の視界を埋めた。
 重なった唇から舌を差し入れられて、身震いがする。何度繰り返しても慣れない行為に硬直している私の舌を、宿儺のそれがいとも容易く絡め取り、強ばりを解してしまう。横暴で強引で、それでいて巧みに思考を溶かしていく熱っぽさ。

「んっ……」

 離れる間際に舌先を軽く吸われる。痺れのような感覚が駆けていき、膝の力が抜けてしまった。

「あれ? 俺……って、おい! 大丈夫か!?」

 へなへなと床に座り込んだ私に、わざわざ屈み込んで高さを合わせて投げ掛けられたのは、同級生の声だった。

「だ、大丈夫……ちょっと立ち眩みが……」

 真っ赤に染まった顔を虎杖くんに見られないよう下を向いたまま、息を整え顔面を作ることに尽力する羽目になってしまう。こうして私が右往左往している様子に、宿儺は骨の山の上から高みの見物を決め込んでいるに違いない。

 それからは宿儺が虎杖くんの身体を乗っ取ることもなく、順調に呪霊を祓って任務は完了した。

 ***

 就寝の準備をすっかり整えた寮の自室で、私は鏡に向き合っていた。手にしたリップは野薔薇ちゃんが「アンタのパーソナルカラーは冬だから、強めの色が似合うわよ」と選んでくれた鮮やかな赤色だ。

 夜更けに化粧をしているのはこれから恋人……のような存在に会いに行くからに他ならない。

 ベッドに座り、精神を集中する。手印を中心に呪力を集めて術式を展開。浮遊感に包まれた身体は既に自室からは消え失せており、私は結界内の仮想空間をどこまでも落ちていく。

 他者の心の中に潜るのが、私の術式だ。初めは対象に幻覚を見せるものだと思っていたが、それは副作用に過ぎず、本来の使い方を覚えたら相手の生得領域に自分を投影できるようになった。それを私に教えたのが、他ならぬ呪いの王だった。

 心を渡る準備段階として、私は自分自身の生得領域に深く沈んでいく。その過程でさまざまな記憶を目にする。
 高専での日常、初めて宿儺から愛情らしきものを与えられた日のこと、もっと幼いころの朧気な記憶──そして、身に覚えのない、時代劇の中のような景色や着物。四本腕の体躯。穏やかな声。温もり。匂い。

 いくつもの断片的な映像が流れては消えていく中、獣の頭蓋にキスをして、それを赤い水に沈める白い手が、やけに鮮明に私の脳裏に焼き付いた。

 ***


「なにをしている。気でも狂ったか」

 宿儺の生得領域に到達するやいなや、腕と裾を捲って血の色の池を探り始めた私に、宿儺が呆れきった溜め息を落としている。

「ちょっと、探し物をさせて」

 先程見た光景が妙に気になっていた。あの骨も、赤い水も、宿儺の領域にあるものに違いない。見覚えの無い映像が私の妄想でないとすれば、雛人形のような格好の女性が隠したものはここに沈んでいるはずだ。

 映像の中の彼女は、領域内を埋め尽くす白骨は揺るがない心の表れだと評していた。しかし骨は壊れるものなのだと宿儺は言う。
 長い時を経たものには呪いが溜まる。千年という時間をかけて呪いが累積したこの領域で、彼はなにを保ち、なにを壊したのだろう。
 変わるものと変わらないもの。残るものと失うもの。その隔たりは、どんな要因によって生み出されるのか。

「……あった」

 水の中から引き上げた牛の骨。その表面に紅い痕が残っているのを見付け、私は軽く息をついた。目的を果たした達成感と、見付けなければよかったはずのものを手にした背徳感とがない交ぜになって渦巻いている。

「小娘、それは……」

 珍しく歯切れの悪い口調で呟いた宿儺が、瞬時に骨山から下りてくる。私が持つ頭蓋骨と私の顔を交互に見比べ、

「……思い出したのか?」

 普段の不遜な態度とはまるで違う、見開かれた瞳に、私の胸がチクリと痛んだ。

「ううん。……生得領域を渡る時に見ただけ」

 ゆるゆると首を振ってみせれば、宿儺の目に落胆が宿る。ふてぶてしさという鎧を剥がされたかのように雄弁に語る彼の瞳が、私の中の疑念を確信へと変えた。

「なんで見たことのないものを見るんだろうってずっと不思議に思ってたけど……私じゃない別の誰かの記憶だったみたい」

 手の中の白骨の表面に残された紅い痕が、あの映像がただの妄想ではなく事実だと物語っている。

「宿儺が私に構ってくれるのは、私の中にいる誰かのためだったんだね……」

 疑問には思っていた。どうして宿儺ほどの存在が、私のような平凡な呪術師の卵に目を掛け、特別扱いをするのか。なんということは無い。宿儺は私のことなんて見ていなかったのだ。
 断片的な映像からでも、和服の女の人と四本腕の宿儺が仲睦まじくしている様子は伝わってきた。恋人同士だったのは私と宿儺ではなく、あの二人。大事な人の残したものだからこそ、骨に落とされた口付けの痕は宿儺の心の中に今も残っているに違いない。

「……バイバイ」

 どうしようもなく居たたまれない気持ちになって、私は術式を解除していた。宿儺の目からは私の姿が瞬時にかき消えたように映ったはずだ。

 帰りは行きよりずっと早い。数秒間、暗闇に浮遊しているような感覚に包まれたあと、私は寮の自室のベッドに戻ってきていた。
 そのまま布団にくるまり丸くなる。寝る前にメイクを落とさないと肌に悪いとか、シーツに色が付いてしまうとか、いろいろなことがどうでもよくなっていた。どこか誰も知らないところに消えてしまいたい。嫌なことがあると逃避しようとする私の悪い癖が、すっかり心を支配してしまっている。

 どれほどの時間、そうして縮こまっていたのか──案外、短い時間だったかもしれない。

 ──バンッ!

 なにかを強く叩きつけるような音が部屋中に響き渡る。次いで近付いてくる足音。
 被っていた布団を引き剥がされて、急に明るんだ視界に思わず手で顔を庇う。その手首を掴まれて身体を仰向けにひっくり返され、目に飛び込んできたのは虎杖くんの部屋着に身を包んだ宿儺の顔だった。剣呑な顔付きが普段よりも一層険しく、目の奥が苛立ちに燃えている。

「すく、んっ……!」

 発しようとした声は宿儺の口に塞がれてしまう。そのキスは、いつものように余裕をもって私を溶かし解すものではなかった。私の唇を宿儺のそれが挟み、軽く食み、舌先を強く押し当てられる。右から左へ、上唇を一巡したと思えば、今度は下唇で同じことを繰り返す。
 彼がなにをしようとしているのか理解できず、私はただ触れ合った唇の感覚を追いながら、されるがままになることしかできない。
 やがて離れた宿儺の口には、私がつけていたリップの紅い色がべったりと移ってしまっていた。

「こんなものを付けているのも、あやつの影を追っているからだとは、よもや言うまいな」

 鮮やかに彩られた薄い唇が、地を這うような声を発する。
 今のはもしかして、私が付けている口紅を舐め取った──のだろうか。

「くだらん。今生に転ずる前のオマエが俺と近しい間柄にあったことは認めてやるが──骨一つのためにさも過去に未練を残しているよう言い立てられるのは不愉快だ」
「だって……違うの? 私の中にあの人がいなくても、宿儺は私に興味を持ってくれてたの?」
「切っ掛けであったことを否定はせん。だが、今傍に置いているのは他ならぬオマエだ」
「……あの人の代わりに、してるだけ……なんでしょ」
「阿呆が。なぜそう頑なになる。俺がオマエを、オマエ以外のものとして扱ったことなどあったか?」
「……っ」

 疑問の形を取ってはいたが、それは確認と念押しだった。宿儺の言う通りだ。彼にとっての私はいつだって手の掛かる呪術師の卵で、目が離せない阿呆で、熱に蕩ける様が愉快な小娘でしかなかった。
 私が勝手に、自分以外の記憶との接触が深まったせいで混乱した──ただ、それだけだったのだ。

「……宿儺……ごめん、なさい……」
「痴れ者め。二度は無いぞ」

 溜め息と共にくしゃりと私の頭を撫でる手は、その声音に反して優しかった。
 縋るように両手を伸ばせば、宿儺の身体がゆっくりと降下してくる。私が彼の背に手を回しやすいように、ただし私に体重が掛かりすぎないように、配慮をしてくれているのがわかって堪らない気持ちになった。
 覆い被さってくる宿儺の身体をぎゅうと抱き締める。腕の力を強めるほど圧迫感が増すが、その重みが心地いい。これは記憶を見ても感じ取れない感覚だ。宿儺がいるのは過去のどこかではなく今この場所なのだと実感できる。

「アレは壊しておく」

 私の耳元に顔を寄せ、囁くように言う宿儺。
 着物の女性が口付けを落とした頭蓋骨のことだとは、すぐわかった。

「……それ、は……やめとこうよ」
「なぜ庇う。オマエとて、あやつの痕跡が不快だったのだろう」
「もういいの……宿儺の気持ち、わかったから」

 これが全く赤の他人のものだったなら庇えなかっただろう。しかし、自分の魂の礎になっている人が相手だと、複雑な思いを抱いてしまう。

「あの人のおかげで私は宿儺に会えたんだから……残しておいてよ」
「ふん。俺は構わぬ。好きにしろ」

 それに──綺麗事かもしれないけれど、千年間も呪いを募らせた中でもなお、宿儺のもとにあの誰かとの想い出が残っていたのなら、なおさらそれは壊すべきではない、とも思う。

 変わらないものがあれば、変わったものもある。宿儺の在り方自体、千年もの呪いの蓄積の中で変質したのだろう。既に彼は生前の彼と同じものではなくなっていて、それゆえに傍にいるのは千年前の彼女ではなく私なのだ。
 いつか壊れてしまうのは、肉も骨も人も同じ。だからこそ一瞬一瞬を大切に生きていこうと思った。彼の声、手つき、匂い。触れ合う温度や、のし掛かる重み。それらすべてを心の裡に刻み込むように。


20210426
記憶なし転生夢主が前世の自分に嫉妬してしまう話でした。
宿儺様の生得領域の骨を愛でたいとか、千年という時間に思いを馳せてみようとか、いろいろやりたかったことを詰め込むのが楽しかったです。

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