燎原烈火のポラリス



 主が四本の腕のうち右下の手で持っている杯へ、こぼさぬようにそっと酒を注ぐ。揺れる水面には頭上の星々が煌めいていた。ざわざわとうろたえている星たちだ。

「今宵の星はなにを語っている?」

 注いだばかりの酒を一息に飲み干して、宿儺様は私に視線を向けた。待ってましたと逸る心を抑えて、両手で支え持った徳利をもう一度ゆっくり傾ける。そうしながら、星のことばを口にした。

「大水の兆しありと、ざわめいております。賀茂川が暴れるものと存じます」
「ケヒヒッ、それは愉快だ。大層人死にが出れば京に呪いが満ちよう」

 宮中の星詠みが同じことばを語っていれば、今頃貴族や大臣たちは自然の暴威へ備えるために奔走しているだろうに。先程星空を飲み下したように、世の全てを呪いで覆いかねない私の主は、愉快そうに目を細めるのみだ。

「宿儺様、失礼致します」

 宿儺様が晩酌を楽しんでおられる縁側へ、裏梅さんが静かに現れる。
 手にした膳には酒の肴として二つの皿が乗せられていた。魚卵の塩漬けと、桃を切り分けたもの。酒や肴の味はまだよくわからない私だが、旬を迎えた果実には目がない。瑞々しい果肉につい目が奪われてしまう。

「これはオマエが食え」

 宿儺様が上の右手で皿を差し出してくださる。私の視線はすっかりお見通しだったようだ。

「……! よ、よろしいのですか?」

 桃を受け取った私は、宿儺様のお顔と、次いで裏梅さんの顔を見上げた。宿儺様はなにも言わないし、裏梅さんは微笑を浮かべて頷く。
 なにか試されているわけでなく本当に食べて良いのだと理解した私は、失礼します、と断って桃の果実を口に運んだ。甘やかな果汁が口いっぱいに満ちて、幸福感にすっかり頬が緩んでしまう。

「クククッ……」

 すると宿儺様が含み笑いを漏らした。大水の話を聞いた時のような獰猛な笑みとは少し違う、悪戯っぽい声だった。

「……なんでしょうか?」
「なに。桃が桃を食っていると思ってな」

 その言葉に裏梅さんまでもが噴き出した。咄嗟に僧衣で口元を隠していたが、私の耳にはしっかりと届いていた。そのまま我慢を続けるのが辛かったのか、するりと黒衣の裾を翻して御簾の奥へ戻ってしまう。一人だけ逃げるなんてずるい。

「わ、私は、果実と同じなのでしょうか……」
「不服か? 褒めたつもりだが」

 からかうような声音で言われても、全く褒められた気はしない。お酒のせいか、美しい夜空のためか、宿儺様は大層ご機嫌が良いようだ。

 ──ああ、でも、暑い。
 どうしてだろう。縁側で夜風に当たっているのに、まるで、燃え盛る炎の中にいるような暑さを感じるなんて、どうして──


 ***


 目を覚まして最初に知覚したのは甘く上品な香りだった。そして、それを塗り潰そうとするかのような、ものが焼ける時のにおい。肌にちりつく熱。赫々と盛り夜闇を払う炎。

「気が付きましたか」
「う、らうめ、さ……」

 割れた灰色の岩盤の陰で炎熱から身を隠しながら、裏梅さんが私を膝に抱いてくれていた。
 私はどれほどの時間気を失っていたのだろう。これ以上迷惑をかけてはいけない。身を起こそうとすると、裏梅さんの手が背中を支えてくれた。

「無理をしないように」
「大丈夫、です……」

 実際、大きな怪我は無さそうだった。あるとすれば小さな打撲くらいだ。
 ただし今日この場においては、そんな些細なことを気にしている暇は無い。

「宿儺様は……」
「ご健在ですよ。あちらにいらっしゃいます」

 私が気を失う直前のことだ。私と裏梅さんにとって、待ちに待った瞬間が訪れた。
 宿儺様の完全復活。器になった少年の制御下から脱し、少年と同じ容の肉体を持ちながらも全く異なる存在として、宿儺様は再びご自身の脚でこの無機質な大地を踏み締めておられる。

 当然のように、宿儺様を忌避する呪術師たちとの戦闘になり、呵責なく解き放たれた『開』によって巨大建造物の街並みは焦土と化した。私はといえば術式が炸裂した時の衝撃で、情けなく気絶してしまったのだった。

「わ、私が起きるのを、待ってくださっていたのですか?」

 主がすぐそこにいるのに物陰で隠れている理由が他に思い付かず、私は狼狽しながら裏梅さんの顔を見上げた。すると炎の熱さえ払拭する涼やかな微笑が返ってくる。

「久々にお会いできるのに粗相があっては、貴女はいつまでも気にするでしょう?」
「うう……」

 的確に図星を突かれてなにも言い返せなくなってしまった。

「では参りましょう。足元が危うい。抱えますよ」
「は、はい……っ」

 背と膝裏に手を回されて、軽々と横抱きに持ち上げられる。自力で地上を歩こうとすれば足取りが覚束なくなって余計な迷惑を掛けてしまうのは目に見えているので、私は素直に裏梅さんの僧衣を握り締めた。白檀の香りが強く香ってくる。
 私を抱えた裏梅さんは地を蹴って、炎揺らめく焦土の一角へと軽やかに身を投じた。


 ***


「お待ち申し上げておりました」

 復活を遂げた主のもとへと馳せ参じ、頭を垂れる裏梅さんの後ろに控えて平伏する。本心ではすぐにでもお顔を拝見したいけれど、許可なく見上げてはならないという身に染み付いた習慣は千年経った今でも薄れてはいなかった。

「裏梅か。面を上げて構わん。──機は熟したぞ」
「喜ばしい限りにございます」

 私は顔を伏せたまま、二人の声と、ざっ、ざっという靴音を聞いている。まだ私には、顔を上げることは許されていない。

「む? オマエは……そうか。まだ生きていたか」

 靴音がすぐ近くで止まる。目の前に宿儺様がいらっしゃると思うと、全身が歓びに震えた。

「お久しゅう、ございます……!」
「良い良い、そう畏まるな。今宵は無礼講とする。面を上げろ」

 弾んだ調子の声音に促され、ようやく私はその御姿を間近に捉えることができた。

「宿儺様……」

 思わず、感嘆の息が漏れる。出で立ちは若々しく、腕も二本しかないけれど、肉体の内側から滲み出る覇気は間違いなく宿儺様のものだと確信できた。

「息災であったか」
「は、はい」
「少し痩せたな」
「そ、んな、ことは」
「そうか? 記憶の限りでは、オマエの頬は瑞々しい果実のように美味そうだったと思うが」

 今は不味そうなのだろうか。馴染めないと言わず、現代風の食事をもっと口にしておけばよかった。

「宿儺様。私は準備がありますので、しばし席を外したく」
「許す。抜かるなよ、裏梅」
「御意に」

 一礼した裏梅さんは軽やかに地を蹴って、僧衣をはためかせながら陽炎の揺らめきの向こうへと消えてしまった。
 パチパチと炎の爆ぜる音に混ざって人の声が聞こえ、呪力の気配も集まってきているのを感じる。呪術師たちはまだ両面宿儺打倒を諦めていないというのか。

「時間ができたな。少し話すか」
「私でよろしければ、っ、ひゃうっ!」
「畏まるなと言ったぞ」

 宿儺様に首根っこを掴まれ真上に放られ、私の身体は一瞬宙を舞った。荷物のようにして私を肩に担ぎ上げた宿儺様は、手近にあった建物の残骸に腰を下ろす。
 するとどういうわけか、その膝の上に私を横抱きにして乗せてしまったのだった。

「す、宿儺様!? これは、あの、不敬では……」
「俺は構わん。久々に会ったのだ、よく顔を見せろ」

 間近で見上げる宿儺様は、お顔の造形は親しみやすい印象に変わっていたが、瞳の中に宿る猛々しさは記憶の中と同じだった。後ろに流した短髪は周囲の炎の光を受けて煌めき、それ自体が燃え盛る炎であるかのようだ。
 地獄の光景が実に似合う御方だ、と改めて実感した。

「どれ、一つ星を詠んでみろ。無味な時間を彩るのはオマエの得手だろう」

 楽しげに提案する宿儺様に、私は肩を震わせる。

「……申し訳ございません。今の私には、星の声が届かないのです」
「そうか。確かにこう火の手が上がっていれば星は見えまいな。面倒になったので焼き払ってしまったが、惜しいことをした」
「いえ! 決して宿儺様の責ではなく……私が、この時代ではもう星を詠むことができなくなってしまって……」

 今の私に何の力もないとわかれば、宿儺様は私を不要と断じるかもしれない。ずっと胸にあった不安が膨れ上がってしまって、声が震えるのを抑えることができなかった。
 俯いた私の頭の上に宿儺様の手が置かれた。潰されるか、刻まれるか、覚悟を決めた私だったが──

「難儀なことだな。己の力がままならんことの忌々しさは俺にも覚えがある」

 宿儺様は、わしゃわしゃと乱暴に見えて気遣わしげな手付きで私の髪をかき混ぜた。

「ならば別の言葉を語ってみせろ」
「あの……宿儺様……?」
「そうだな。この時代の世では、なにがオマエの目に印象深く映った?」
「……鉄の匣が飛び交うのが、恐ろしゅうございました」

 咄嗟に思い付いたことを述べれば、宿儺様はにんまりと破顔した。頤(おとがい)を反らして天を仰ぎ、さぞ可笑しそうに呵々大笑する。

「ケヒヒヒヒッ! 俺を慕うオマエでも、牛のいない車には怯えるのか!」

 なにかが琴線に触れたらしく、しばらく笑い続ける宿儺様を、私は茫然として見つめていた。

「これは良い! 術師共ともう一戦交える前にここまで嗤うことになろうとはな! なにか褒美を取らせてやろうか?」
「め、滅相もございません! 宿儺様のお傍にいられれば、私にはそれが一番のご褒美に……」
「そんな当然のことは褒美にならん」

 さらりと、決まりきったことのように口にする宿儺様。平然と告げられた言葉がどうしようもないほど胸に響いて、目の奥が熱くなってくる。
 このままではみっともない姿を宿儺様に晒してしまうと焦っていたところに、軽やかな足音がすぐ近くで降り立った。

「万事、整いましてございます」
「ご苦労だったな」

 戻ってきた裏梅さんに応じた宿儺様は、私を膝から下ろして立ち上がった。足の裏が地面を踏みしめたことで浮わついた気持ちも地に足をつけて、自然と涙は引っ込んでいた。

「裏梅、それの面倒を見ておけ。下手に巻き込まれないようにな」
「承知しました」

 一度頭を下げた裏梅さんが、僧衣で包むようにして私の肩を抱く。甘く爽やかな香りの持ち主は私の耳元で小さく囁いた。

「言った通りでしょう? 心配はいらないと」
「……でも、お二人の足手まといになるようなら、私はやっぱり……」
「無駄口を叩くな」

 裏梅さんにだけ聞こえるよう小声で話していたのに、私の言葉を遮ったのは宿儺様だった。
 こちらに背を向けていた宿儺様が、振り返って真っ直ぐに私を見ている。

「世の果ての星を見るぞ」

 大胆不敵。自身の道を妨げるものなど地上に何一つ存在しないと確信しているがゆえの、絶対的な超越者の笑み。火の粉が舞い、陽炎が夜闇を揺らす地獄の景色の只中で、宿儺様のお姿はなによりも鮮烈に私の瞳に焼き付けられた。

「共に来い」
「──はい!」

 自分でも驚くほど活力に満ちた声が出る。宿儺様の言葉一つで胸中の暗雲は燃やし尽くされてしまっていた。
 ついて行こう。どこまでも。月が隠れても、星が沈黙しても、宿儺様の燦然たる威容が必ず私を導いてくれる。



20210412

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