また今度



※現パロ

 連日の残業でヘトヘトの身体を引きずるようにして家へ帰……ろうとして、私は自宅の前でぴたりと足を止めた。誰もいるはずのない部屋の明かりがついている。出勤時に消し忘れた? そんなはずはない。私はいつも光熱費の節約にはことさら気を配っているのだ。電気をつけっ放しで出てきてしまうなんてありえない。
 しかも窓の向こうでなにやら影が動いているのがわかってしまうから恐ろしい。誰かいる。確実にいる。泥棒? 強盗? ストーカー? 私はスマホの通話画面に『110』を入力していつでも助けを求められる状態にし、恐る恐るドアを引く。……出勤時にちゃんと締まっていることを確認したはずの鍵は、やはり開いていた。
「……!」
 そっとドアの向こうを覗き込むと、玄関に男物の革靴が乱雑に脱ぎ散らかされている。その靴にも脱ぎ方にも見覚えがあるような気がして、私の警戒心は少しだけ緩んだ。
 革靴が転がっている隙間でパンプスを脱ぎ、家に上がる。廊下からリビングに繋がるドアをそっと開けて、明かりが漏れてくるところを覗き込むように中の様子を伺うと──
「よう、おかえり。邪魔してるぞ」
「……はあ……はじめくんかあ……ただいま」
 予期せぬ訪問者は私の彼氏だった。渡している合鍵で家に上がっていたようだ。
 なんだかどっと疲れが重くのし掛かってくる。首と肩をガクッと落とした私は、とりあえず手を洗おうと廊下へ引き返し洗面所へ向かった。
 もう一度リビングへ戻って、定位置に通勤用のバッグを片付ける。荷物置きにしている棚の足元にははじめくんのビジネスバッグが置いてあり、その上には外されたネクタイが無造作に掛けられていた。
「はじめくん、来るなら来るって連絡くれればいいのに。ビックリしたんだから」
「悪かった。だが言ったらオマエ、会うなら仕事が落ち着いてからって断るだろうが」
「それは……まあ……」
「たまには顔見させろよ。にしても……残業続きって聞いてたが、ほんとに遅いんだな」
 はじめくんは半袖のワイシャツの裾をスーツのズボンから出して、胸元のボタンも二つ外してしまっている。ちゃんとスーツ姿なのもかっこいいけれど、彼の場合、着崩した雰囲気のほうが似合ってしまうからせっかくのスーツがちょっとかわいそうだ。
 はじめくんは半袖シャツから惜しげもなくさらけ出された形のいい筋肉質な腕を身体の前で組む。
「毎日帰りはこんなもんか?」
「うん……ここ最近はずっと」
「そりゃあ疲れて会えねぇってのも無理ねぇわな」
「……ごめんね」
 しばらく仕事が忙しいから会えない、と私が言い出してから、早二週間。一週間もすれば落ち着くはずだと思っていたのに次々とトラブルが積み重なって、残業時間は長くなる一方だ。
 以前ははじめくんと毎日連絡を取っていたのに、残業しすぎてそんな余裕もなくなった。そして一度連絡が途絶えるとどんなタイミングでなにを言えばいいのかわからなくなり、スマホのメッセージアプリ上でももう一週間もやり取りをしていなかった。正直なところ、もう私なんかどうでもいいと思われているかもしれないという不安が、仕事のせいで沈んだ気持ちをさらに重く地の底に引きずり下ろしていたのだった。だから今日のはじめくんの訪問には本当に驚いたけれど、嬉しい。一方で、久しぶりに会った彼にどぎまぎしてしまっている自分もいる。
「なんで謝るんだよ。オマエじゃなくて仕事のせいなんだろ。仕方ねぇよ」
 はじめくんがすっと歩み寄ってきて、ぽんぽんと私の頭を撫でる。しばらく会っていなかったことなんて感じさせない距離感に、なんだか涙が出そうになった。距離が離れたと思っていたのは私だけで、はじめくんにはなんでもないことだったのかもしれない。
「メシまだだろ? 雑炊食う?」
「食べる……え、はじめくんが作ってくれたの?」
 仕事が忙しくなる前は時々はじめくんは泊まりに来ていたし、一緒に料理をしたこともある。彼は我が家のキッチンの使い方はしっかりわかっている。それにしても残業して帰ってきたらはじめくんがご飯を作っておいてくれるだなんてまるで夢みたいでびっくりだ。
「ああ。暑い季節には向かねぇのはわかるが、冷蔵庫にネギと卵しかなかったから他に思い付かなかった」
「う……ごめん」
 忙しいからと最近はすっかり自炊を怠けてしまって、コンビニに頼ったりインスタントラーメンなどで済ませたりしてしまっている。買い物もろくにできていないのがバレてしまって恥ずかしい。
 しかしはじめくんはきょとんとして小首を傾げている。なんでオマエが謝る? の顔だ。
「さっさと座れよ。で、しっかり食え。体力つけろよ」
「う、うん」
 はじめくんは私の背中を押すようにしてテーブルに座らせると、キッチンに消えていった。ほどなくして二つの椀を抱えたはじめくんが戻ってくる。一緒に食べてくれるのだとわかってほっとした。
「一緒にごはん、久しぶりだね」
「そうだな。会ってなかったからな」
「……今日来てくれてよかった。嬉しいな」
「いいから食えって」
 はじめくんと揃って、いただきます、と手を合わせる。椀の中の雑炊はほかほかと湯気を立てて、やさしい香りが漂ってきていた。
 れんげで一掬いした雑炊にふうふうと息を吹き掛け冷ましてから、口へ運ぶ。
「……!」
 見た目よりも醤油味が利いていて、少しびっくりした。けれども疲れた身体には適度な塩分が心地よく感じられる。お醤油を入れすぎちゃったのかな、とは思うけれど、食べられないなんていうことは全くないし、なにより私のために作ってくれたというはじめくんの優しさが最高の調味料だ。
「おいしい。はじめくん、ありがとう」
 正面に座る彼の顔を見つめてお礼を言うと、はじめくんははにかむようにして笑って「おう」と短く応じた。
 ちょっぴりビールが欲しくなるような雑炊を食べ終えて、はじめくんはまたキッチンへ消えていった。鍋を洗ってくれるのだそうだ。作ってもらったのだから片付けは私が……と思ったのに、いいからオマエは休んでろとソファに座らされてしまったのだった。
 なにもせずぼーっとするのなんていつ以来だろう。私はキッチンの水音を聞きながらテレビのリモコンを手に取りチャンネルを回した。ちょうど国民的アニメ映画の地上波放送をやっているところだった。何度も見た映画なので途中からでも内容はわかる。私はしばらく、見ているのか見ていないのかわからないくらいぼんやりと、アニメ映画に目を向けていた。
「なにか他に、してほしいことあるか?」
 洗い物を終えたはじめくんがリビングに戻ってきて、私の隣に深く腰掛ける。
「えっと……」
 なんだろう。特に思いつかないけれど……しいて言うならちょっとくっついて、いちゃいちゃしたい、かも。このまま身体を横に傾けてはじめくんに身を預けてみてもいいのかな。はじめくんはまだ、私への気持ちは冷めてないよね? いちゃいちゃしたいって思ってくれてるよね? ……久しぶりだからなんだか不安で、いまひとつ踏ん切りがつかない。
「マッサージでもしてやろうか」
 私がまごまごしているうちに、はじめくんはさっと立ち上がってソファの後ろに回ってしまった。すぐ横にあった温もりが離れていってしまったことに寂しさを覚える。しかし、私の両肩がはじめくんの大きな手のひらに包み込まれて優しく押されると、そんな気持ちも吹き飛んでしまうくらい温かくて気持ちよかった。
「ふぁ……っ」
「気持ちいいか?」
「うん……すごい……」
「痛かったら言えよ」
「だい、じょうぶ」
 肩回りと首、それから肩甲骨の周りにかけて、はじめくんが揉みほぐしてくれる。凝り固まっていた身体がほぐれて、じんわりと温かくなっていくのが気持ちいい。無骨だけれど優しく私に触れる手のひらは、はじめくん自身の魅力がぎゅっと凝縮されているようだ。彼の上手なマッサージで、身も心もとろんと溶けてしまいそうになる。
 ……少なくとも、触りたくないとは思われてないってことだよね。さっきまでの不安がどうしても頭から抜けないけれど、私は意を決してはじめくんに尋ねてみることにした。
「はじめくん……今日、泊まっていく?」
 明日は土曜日で、私は出勤日だけれど、はじめくんの会社は休みのはずだ。今までも金曜夜のお泊りは何度かしたことがある。泊まっていくならもっと一緒にいられるし、不安な気持ちがなくなるくらいいちゃいちゃできるかも……と思ったのだけれど。
「あー……いや、やめておく」
「……そう、なんだ」
 希望を摘み取られてしまって、私はしゅんと下を向いた。
「なんか勘違いしてんな?」
「わっ」
 マッサージをしていた手が突然、私の頭にぐりぐりと押し付けられた。
「泊まったりなんかしたらオマエが疲れてんのも無視して歯止めが利かなくなりそうだって言ってんだよ。今日は顔が見れりゃあいいと思ってて、上がらず帰るつもりだった。いなかったからメシ作って待ってただけ」
「えっ、あっ……そっ……」
 なにかすごいことを言われている気がする。けれど突然すぎてまともな返事ができない。
「今日はこれだけ。続きはオマエが元気な時だ」
 すると今度は頬を持たれて、ぐいっと上を向かされた。覆い被さるようにしてはじめくんの顔が近付いてきて、唇同士が触れ合う。上下逆さまのキスは変な感じがしたけれど、重なった温もりと、はじめくんの匂いに、胸の奥がぽかぽかしてくる。
「ああ、くそ。もうやべぇ、帰る」
 唇を離したはじめくんはとても苛立っている時のように眉を吊り上げていた。けれどもそれが見た目通りの怒りでないことは、私にはなんとなくわかっていた。
 はじめくんが置いてあったバッグとネクタイを引っ掴むのを、私は半ば放心して見つめていた。そしてはじめくんはリビングのドアに手を掛けると、切羽詰まった形相で私のほうへ振り返る。
「早く風呂入って寝ろよ。明日も仕事あんだろ」
「う、うん」
「じゃあな。また今度来る」
「ばいばい……おやすみ……」
 ばたんっ、と勢いよくドアが閉まって、どかどかと大きな足音が玄関に向かっていくのが聞こえる。
 私はしばらくぼうっとしていたけれど、玄関ドアの閉まる音を聞いたら急に顔が熱くなってきた。かああ……と熱を持った顔を両手で覆って、ソファに倒れ込む。アニメ映画のエンディングテーマが流れているけれど、まったく耳に入ってこない。私は頭の中でさっきのはじめくんの顔や言葉を思い出してばかりだった。
「……仕事、がんばろ」
 早くはじめくんとなんの気兼ねもなく一緒の時間を過ごしたい。そのためにも山積みの仕事を早く片付けよう。連日の残業続きで失われていた活力が私の胸にみなぎってきたのは、はじめくんのおかげだった。



2023/6/21
残業して帰ってきたら鹿紫雲くんに労ってもらいたいですよね。

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