鹿紫雲×補助監督



 目的の温泉地に到着した私たちはまず、予約してあるホテルで車を下りた。サービスエリアで休憩したときに電話を掛けて、同行者のために一部屋追加する手配は済ませてある。了承してもらえて助かった。閑散期の平日だったので部屋には十分空きがあったらしい。
「荷物よこせ」
「……ん、ありがとう」
 私がトランクを空けると、鹿紫雲くんが横からバッグを二つひょいっと持っていく。私は遠出に慣れているので荷物は小さなボストンバッグ一つにまとめているが、鹿紫雲くんのバッグは更に小さい。ちょっと買い物に出るだけ、というような雰囲気のゴテゴテしたショルダーバッグは、おそらく綺羅羅ちゃんに借りたのだろう。
 鹿紫雲くんが武器として持ってきた長い棒は車の中に置いたままだ。あんなものをホテルに持ち込むわけにはいかない。
 チェックインの手続きを済ませて荷物を置き、またすぐにホテルを出発する。調査の開始だ。まずは店舗などを回って聞き込みをするので、車はホテルの駐車場に残して小回りの利く徒歩で温泉街へと向かう。
「私は聞き込みしてくるけど、鹿紫雲くんはどうする? せっかく来たから観光とかしてくる?」
「一緒にいなくちゃ護衛の意味がねぇだろ」
「うーん……綺羅羅ちゃんはああ言ってたけど、ほんとに危険なことなんか無いと思うよ……?」
 山の中にある温泉地は街よりも涼しくて、私はスーツのジャケットを羽織っていた。鹿紫雲くんはゆるっとしたシルエットのTシャツ一枚だ。寒くないのだろうかと思うけれど、風が吹いても気にする素振りも見せない。ボディガード役を譲らないだけのことはあって、随分と頑丈な身体をしているみたいだ。
 鹿紫雲くんと共に一軒の土産物屋に入る。レジの奥に座っている、自分の母親と祖母の中間くらいの年齢の女性に「すみません」と声をかけた。
「少しお伺いしたいことがあるんですが、今よろしいですか?」
「なにか……あら、あなた!」
「は、はい」
「久しぶりじゃないの! あらまあ! 元気だったのね!」
「え、あ、お、覚えていてくださったんですか、私のこと」
「当然よぉ。毎月毎月、真っ白な顔して『変わったことはないか』って聞いていくような人、他にいないもの。東京が大変なことになってからパッタリ見かけなくなったし、大丈夫かしらってうちの人と話してたのよ」
「あ……随分と、ご心配をお掛けして……」
 思いがけず人の温もりに触れて恐縮しきっていると、視界の隅で鹿紫雲くんがおじいさんとなにやら話しているのが見えた。おじいさんは先程話に出た「うちの人」──つまりはこの女性のご主人なのだろう。
「それじゃあ今回も、なにかおかしなことや気になることがないか、お伺いして良いですか?」
「そうねぇ……力になってあげたいんだけど、この辺りは東京と違って平和なものだから……」
 私が奥さんへ聞き込みをしている間、鹿紫雲くんはご主人からおまんじゅうをもらっていた。派手なヤンキーのような風体なのにご老人と仲良くなるのが早すぎる。
 鹿紫雲くんが食べたおまんじゅう以外の収穫は無かったけれど、お礼を言ってお店を出る。そしてまたすぐ隣の土産物屋で、同じ質問を繰り返す。
 最初のお店以外にも、私のことを覚えている人が何人もいた。知らない間に有名人になっていたことに驚きつつも、肝心の調査については進展なし。
 和菓子屋での聞き込みを終えると、お店のおばあさんが熱いお茶を持ってきてくれた。待合用の椅子でそれを頂きながら、人目に触れる異変が無いのであれば自分の足で痕跡を探しに行くしかないか──と、次の調査方針を立てる。
 からっぽになった湯飲みをお店のおばあさんに返して、お礼を言った。
 そこではたと気付く。鹿紫雲くんがいない。お茶をもらう前からいなかった──私が聞き込みをしている間にお店から出たのだろうか。
 和菓子屋を出たところできょろきょろと辺りを見回すと、道の向こうから鹿紫雲くんがやってきたところだった。なぜか、二台の自転車を押しながら。
「ええと……その自転車は?」
 鹿紫雲くんが器用に片手で一台ずつ押している自転車と、彼の顔とを交互に見比べる。よく見れば自転車にはレンタサイクル店のロゴが貼り付けられていた。
「借りた。さっき聞いたんだが、この道を行って坂を登ると滝があるらしい」
「ああ、うん……有名な観光地だよ」
「行くぞ」
「……じ、自転車で? 行きたいなら車で連れてってあげるし、まだ調査の途中だし……!」
「車じゃ駄目だ。これに乗れ。オマエ、死人みてぇな顔してるんだよ。どういう訳だか知らないが、身体動かせば気分転換になるだろ。調査も一旦切り上げろ」
 自転車のうち一台を有無を言わさず押し付けられてしまう。
 私は聞き込みを円滑に行うためにスーツを着てはいるけれど、足にはスニーカーを履いている。たくさん歩くし、足場の悪い場所に向かうこともあるからだ。だから自転車を漕ぐのに支障はないけれど、でも、さすがに……!
 私の戸惑いをよそに、鹿紫雲くんは素早く自転車にまたがって振り向き、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「来なかったら、帰りの車ではずっとオマエのことを観察して逐一感想を言ってやる」
「……! それ、って……!」
 顔がどうとか花のようとかのあれで、ずっとからかわれるということ? そんなの絶対に心臓がもたない。アクセルかハンドルの操作を誤って事故を引き起こすこと間違いなしだ。
 よくわからない脅しではあるものの、私の退路を塞ぐには十分な威力があった。私が渋々自転車のサドルにまたがると、鹿紫雲くんは満足げに頷く。
 あの有名な坂道を自転車で登ることになるなんて。急なことに驚いたけれど、たぶんなんとかなるだろう。曲がりくねっているということは、勾配はそれほどきつくないということだ。補助監督というのは体力勝負の仕事でもあるし、私だって身体はしっかりと鍛えている。滝のところまで登るくらい、どうということはないはず──
 ──という想定は、甘かった。
「あいたたたた……」
 私は前屈みになり、浴衣に包まれた太ももをさすりながら、ホテルの廊下を自分の客室に向かって歩いている。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫じゃ……ない……」
 自転車で長い坂道を登り下り。普段使わない筋肉を酷使した結果、私のおしりから下のあらゆる部位が限界を訴えている。
 過酷なヒルクライムを終えたあとは体力的にも時間的にも調査を再開する余裕はなく、私たちはホテルに戻ってきた。大浴場で温泉に浸かっても急激な疲労には太刀打ちできず、私の身体は悲鳴を上げっぱなしだ。夕食はホテルのバイキングを利用したけれど、料理を取りに行くだけでもフラフラしている私を見かねて、鹿紫雲くんが代わりに食事を持ってきてくれた。──もとはといえば鹿紫雲くんが自転車で滝まで行くなんてことを言い出したせいなのだから、それくらいは働いてもらって当然のような気もする。
「悪かったよ。まさかそんな有り様になるとは」
 鹿紫雲くんが苦い顔をして、お団子をほどいた頭をガシガシと掻いている。身長の高い彼はXLサイズの浴衣を借りても丈が足りなくて足がかなり出てしまっているが、それを差し引いても浴衣姿が様になっていた。無造作に帯を結んでいるだけに見えるのに、時代劇に出演している俳優などよりも上手く和服を着こなしている。
「按摩してやろうか」
「あんま?」
「あー……あれだ、マッサージ」
「ん……」
 正直なところ、心が揺れる。いつもの私なら即座に大丈夫だと言って断っていたところだけれど、今は脚に蓄積した疲労が尋常ではないし、そもそも鹿紫雲くんのせいなんだから労ってもらわないと……という気持ちも出てきてしまっている。
「遠慮すんな。効果は保証する」
 鹿紫雲くんが指を軽く握ったり閉じたりしながら自信ありげな微笑を浮かべる。
「知り合いの漫画家が言うには、俺のはEMSみたいでよく効くんだと」
「ふふっ、なにそれ」
 素手なのに電気の刺激を活用したマッサージみたいな効果が? それほど上手ってこと? わかるようなわからないような例えがおかしくて、私は思わず笑ってしまった。自分がこぼした笑みが、揺れていた天秤を後押しした。
「じゃあお願いしようかな」
「おう、任せろ」
 私と鹿紫雲くんは隣同士の別々の客室を使っているけれど、今はマッサージのために一緒に私の部屋に戻る。一人で使っているけれど、部屋はツイン。広めのゆったりした洋室の真ん中に二つのベッドが並んでいる。
「うつ伏せで横になれ」
「はあい」
 私は部屋の入り口に近いほうのベッドに横になる。少し息苦しかったので、枕を身体の下に挟んで体勢を安定させた。ベッドが揺れて、鹿紫雲くんが私の横に座ったのがわかる。彼の手が浴衣の上からふくらはぎに触れてきて、ゆっくりと圧が加えられる。
「ん……」
 絶妙な力加減が気持ちよくて、私はぼんやりとした吐息を漏らしていた。じんわりと労るような指圧によって、筋肉に溜まった疲労が解き放たれていくようだ。お腹もいっぱいだし、温泉で身体も温まっているし、このまま眠ってしまいたくなる。
「ほんとにマッサージうまいね……気持ちいい」
 本格的にウトウトしそうになってきたので、眠気を覚ますために口を開いた。
「そう言っただろ。次、仰向けになれ」
「うん」
 言われた通りに寝返りを打つ。鹿紫雲くんは乱れた浴衣の裾を直してから、また大きな手のひらで私の脚を包んだ。ぐっ、ぐっ、と太ももの辺りに指圧がかけられるのが気持ちいい。
 仰向けになっていると、真剣な目をしている鹿紫雲くんの顔が近くにあるのが少し気恥ずかしいので、私は目を閉じた。そうするとまた眠くなってくる。なにか喋らないと。
「昼間の続きしない? 順番に質問するやつ」
「なんだよ急に」
「このままだと寝そうで……」
「寝ても構わねぇけどな。それじゃ、オマエ酒は飲めねぇの?」
「飲めるけど、さっきはやめといたの。明日も運転あるし……そういう気分にならないし。鹿紫雲くんも飲んでなかったよね。もしかして遠慮させちゃった?」
「しんどそうにしてるオマエの顔を肴に一人で飲んでもな」
「どんなお酒好きなの?」
「焼酎」
 潔く言い切る鹿紫雲くん。なるほどイメージ通り、と妙に納得してしまった。
 会話が途絶えて沈黙が訪れる。そうすると途端に眠気がやってきてしまう。
「……ねえ、次の質問は?」
「俺の番か? あー……」
 鹿紫雲くんは言い淀んだかと思えば、マッサージの手も止めてしまった。もう何度も質問を繰り返したから思い付かなくなってしまって、考え込んでいるのだろうか。
「なあ」
 その声がさっきまでより近くから聞こえたような気がして、心臓が跳ねる。
 おそるおそる目を開いたら、視界いっぱいに鹿紫雲くんの顔が飛び込んできた。綺麗な翡翠色の瞳がじっと私を見下ろしてきていた。
「もっと触れてもいいか?」
「あの、それ、は……」
「俺はオマエに惚れてる」
「……!」
 鹿紫雲くんが私の頬を撫でる。大きな手のひらはしっとりとして、熱い。それにつられて私の心臓が早鐘を打ち始める。
 彼がなにをしようとしているのかわからないような子供ではない。その気がないなら早く断らなければならないところだ。それなのに咄嗟に言葉が出なくなってしまったのは、こんなにもまっすぐに好意を伝えられたのが初めてだったからだろうか。
 鹿紫雲くんの顔がゆっくりと、更に近付いてくる。彼の肩から落ちてきた髪の毛の先が私の頬をくすぐる。
 ──これ以上は、だめ、言わないと──
「鹿紫雲くん……ごめん」
 私の声は自分でも情けないくらいに細く、震えていた。それでも彼は、唇が重なる寸前でぴたりと止まってくれた。
「私……恋人、いるの……」
「……そうか」
 低い声でそれだけ応じて、鹿紫雲くんは身を起こし私から離れる。私もまた起き上がって、浴衣の襟元をぎゅっと握った。心臓の音が大きく響いているのが自分の手に伝わってくる。
 はああぁぁ……と、鹿紫雲くんが長く盛大に溜め息をついた。
「どんな男だよ。女を一人で遠出させるような奴は」
 彼は私と初めて会った時のような物騒な目付きで明後日の方向を睨んでいる。
「悪く言わないで……いい人、だよ……」
「チッ……そりゃあまあ、オマエが選んだ男なんだろうけどよ」
「……」
 なにも言えなくなってしまう。こんな時、どうしたらいいのかわからない。
 距離を開けて二人でベッドの上に座り込んで、どのくらいそうしていたのだろう。ほんの十数秒かもしれないし、何分もそのままだったかもしれない。気まずい沈黙は、鹿紫雲くんが立ち上がったことで破られた。
「明日の朝飯、七時だったか?」
 何事もなかったかのような声音で言う彼は、私に背を向けているので、どんな顔をしているのか私にはわからない。
「……う、ん」
「じゃあまた明日な。疲れてるだろ。早く寝ろよ」
「……ん、おやすみ……」
 鹿紫雲くんの後ろ姿に向かってそう告げたのを合図に、彼は部屋の出入口へと向かって行った。しかしなにか忘れ物でもしたかのように、一度は壁の向こうに消えた彼が再び姿を現す。
「言っておくが」
 鹿紫雲くんはまるで宣戦布告でもするかのような強い眼差しで私を正面から見据え、堂々とした声音で告げる。
「諦めたわけじゃねぇ。オマエが俺に惚れたら俺の勝ちだ」
「えっ……え、あ……」
 私がなにか意味のある言葉を発するよりも前に、今度こそ鹿紫雲くんは部屋を出て行ってしまった。
 どうしよう。
 ぽつんと部屋に取り残された私の頭の中には、その五文字だけがぐるぐると巡っている。どうしよう、どうしよう。具体的になにか考えているわけじゃない。思考停止の「どうしよう」だ。
 なにも頭が回らなくなって、とりあえず歯磨きをしなきゃ、と洗面所へ向かう。現実逃避だ。しかし逆に現実を突きつけられてしまった。洗面所の鏡に映った私の顔は真っ白で屍のようだった。
 電気を消してベッドに入る。頭のてっぺんまで布団をかぶり、身体を丸めて縮こまった。眠るために閉じた瞼の裏で涙が流れてくる。どういう感情から出てくる涙なのか自分でもよくわからない。
 いつの間にか落ちた眠りは深かった。いつ寝たのかわからず、夢を見ることもなく、気付いたらアラームの音で起きていた。
 軽く身支度を整えて部屋を出ると、廊下の壁にもたれて鹿紫雲くんが私を待っていた。こく、と唾を飲み込んでから、口を開く。
「……おはよう」
「はよ。飯、行くぞ」
 視線を交わしたあと、鹿紫雲くんはさっさと先に歩き出してしまう。長い髪を乱れたまま無造作に下ろしている鹿紫雲くんの、ぶっきらぼうで愛想の無い態度は、まるで昨日なにもなかったみたいだ。
 私は数歩分距離を空けて後ろからついていく。と、不意に廊下の途中で彼が振り返ったので、私はドキリとして足を止めた。
「歩きやすくなったみたいだな」
「……あ、う、うん」
 指摘されて、やっと気付いた。昨日は下半身に鉛が吊り下げられているような疲労感があって動くと痛かったけれど、今朝はすっかりよくなっている。
「ほらな、効くって言っただろ」
 ニッ、と勝気な笑みが降ってくる。そこには後ろめたさも下心も見えない。彼は純粋に私の心配をしてくれているのだとわかった。私が思わせぶりな態度を取った挙げ句に振ってしまって、普通なら鹿紫雲くんのほうが何倍もダメージを受けて、気まずいはずなのに。
 強くて、いい人なのだ、彼は。
 自分ばかりが傷ついたような顔をしていては、彼に対して申し訳ない。
「ほんとだね。ありがとう」
 私はうまく笑えているだろうか。自信がない。けれども鹿紫雲くんは満足げに頷いてくれた。
 客室からレストランまでの道のりは昨日よりも短く感じた。朝食バイキングでお腹を満たして、それぞれ準備を済ませたあとはすぐにチェックアウトし、車に乗り込んで二日目の調査へと向かう。
 行き先は山の上にある湖だ。昨日は自転車で登った坂道を、今日は車で登る。自転車だと坂道の半分を越えた辺りからヒィヒィ言っていたのに、車だと当然ながらなにも負担はない。あっという間に昨日訪れた滝を通過して、目的の湖へ到着した。
 駐車場に車を停めて外に出ると、豊かな緑の匂いがする。山の空気は澄んでいて涼やかだけれど、日射しは温かく、ジャケットを羽織れば肌寒さは感じない。鹿紫雲くんは今日もTシャツ一枚で、平然としていた。
 湖の水面が太陽光を反射してキラキラと揺れている。美しい景色だけれど、そればかり眺めていても仕方ない。私は鹿紫雲くんと共に、観光用の主要道路を外れて脇道に下りていった。
 それから周辺の捜索を開始する。橋や階段など呪術的な意味合いを持つ場所を中心に、残穢や結界の痕跡などが無いか調べていく。
 橋の下も重要な調査地点だ。建造物の土台があるところまで下りようとすると足場の悪い急斜面を通らなければならない。鹿紫雲くんは基本的には私の後ろからついてきていたが、そういう時にはスッと前に出て先導してくれる。
「ここ、滑りやすい。気を付けろよ」
 振り返った彼が手を差し出してくれる。私はドキリとして一瞬固まってしまった。昨夜、頬に触れられた時の彼の手のひらの熱さが脳裏に蘇ってくる。
 しかし鹿紫雲くんは単に私を気遣ってくれているだけで、今差し出されているこの手に変な意味はないはずだ。私が彼の手を取るとぎゅっと握り返されて、それからゆっくりと斜面の下まで誘導してくれた。
 鹿紫雲くんが手を離しても、心臓の鼓動は速いままだ。
 そんな私の態度がいけないのだけれど──今日はずっとそんな素振りを見せなかった彼に、ついには爆弾を落とさせてしまった。
「そんだけ意識してるってことは俺のことも満更でもないと思っていいんだよな?」
「……!」
 どうしよう、がまたやってくる。重苦しい感情が押し寄せてきて潰れそうになる。
 けれども今度は、突然だった昨夜と違い、いろんなことを考えながら言葉を探すことができる。ぎりぎりと痛む胸の前で、私はぎゅっと両手を握りしめた。
「鹿紫雲くん……その話されると、私、しんどくて……やめてほしい」
「悪いが、オマエに男がいるからって口説かない理由にはならねぇ」
「それだけじゃなくて……今、恋愛のこと考えちゃいけないと、思ってる、から……」
「……? 訳があるなら、言えよ」
 鹿紫雲くんは口をへの字に曲げながら小首を傾げる。私は長く長く息を吐き出してから、鹿紫雲くんの顔を見上げ、口を開く。
「彼……今、行方不明になってて」
「……!」
 余程思いがけない単語だったのだろう。鹿紫雲くんが目を見開いた。
「一級術師なの。強いんだよ。でも任務に行ったきり、連絡がつかなくなっちゃった……」
 補助監督として同行したのは私ではない他の人員だった。私は後から恋人が行方不明になったことだけを聞かされたのだ。結局その任務は、五条さんが引き継いで解決してくれた。しかし呪霊を祓っても私の恋人は帰ってこなかった。
 当時は本当にいろいろあった。五条さんがその任務の後始末に向かったおかげで手が足りなくなって、入学したばかりの一年生三人が特級相当の任務に駆り出されたり、そこで一人が死亡したり──それはのちに五条さんの隠蔽工作であることがわかったのだけれど。しかし私は恋人が行方不明になったという絶望から脱け殻のようになり、当時のことはあまり覚えていない。
「それが去年の六月で……そのうち捜索も打ち切られちゃって……でも私、諦めるなんてできなくて、ずっと探してる……」
 話していたら、途中から涙声になってしまっていた。私はうつむき、お腹に力を入れてどうにか堪えようとしたけれど、情けなく声が震えるのは抑えられなかった。
「おい、じゃあ……オマエが言ってる調査ってのは……」
「彼を探してるの……ここが、その任務地だから……」
 しゃがんで湖の水に触れる。日射しは暖かいのに水温は低く、指を刺されるような感覚がある。まるでこの土地から拒絶されているようだ。
「だが一年も経ってるなら、そいつは──」
「言わないで」
 鋭く告げると、鹿紫雲くんはそれ以上のことを口にしなかった。話せばわかってくれる人で助かった。
 私は立ち上がり、橋脚にとんと背中を預けた。日陰のコンクリート壁からは洋服越しにも冷たさが伝わってくる。
「わかるよ。でも言わないで。私まだ、気持ちの整理がついてないの」
 渋谷事変、そして死滅回游。呪術界も一般社会もめちゃくちゃになって、たくさんの人が死んだ。彼も、その一部だということなのかもしれない──受け入れ難い現実に、少しずつ目を向けられるようになったのは、ごく最近のことだ。
 それでもまだ私はぬかるみに足を取られたままなのだ。もしかしたら、なにか手掛かりが見付かるかも。もしかしたら、霞のように消えてしまった彼の痕跡が今度こそ見付かるかも。そんな考えに囚われて抜け出せない。諦めるのも、楽しい気持ちになるのも、次の恋愛を考えるのも、全部彼への裏切りになるような気がしてしまう。
「……めんどくさいでしょ、私。だから鹿紫雲くんは、もう私には構わないほうがいいよ。モテそうだからさ、他にもっといい子がいるよ」
「ふざけんな。んな話聞いたら、ますますオマエを放っておけねぇよ」
 眉間にぎゅっとシワを寄せた鹿紫雲くんが詰め寄ってくる。身長の高い彼に、覆い被さるように距離を詰められるのは、随分と迫力がある。
「他になんて興味ねぇ。俺が自分のもんにしたいと思った女はオマエだけだ」
 怒られているのか口説かれているのか、よくわからない。それくらい、私をまっすぐに見つめる鹿紫雲くんの眼差しは真剣だった。
 恋愛をするのが初めてなのだったら尚更、私のようなめんどくさい女ではなくて、他に目を向けたほうがいいのに……。でもそのことを鹿紫雲くんに納得してもらうには、なんて言ったらいいのかわからない。こんなにストレートに好意をぶつけられることも、それを断らなければならないことも、私にとっては初めてのことだった。
 私がなにも言えなくなってしまったのをどう解釈したのだろう。鹿紫雲くんは二歩下がったあと、首から前に下りてきていた髪を手で払って後ろに流した。
「そもそもオマエに男がいようがいなかろうが、俺のやることは変わんねぇよ。……そろそろ行くか?」
「行く、って……?」
「調査だよ。ここにはなにもなかった。他にも見たい場所があるんだろ?」
「……まだ一緒に来てくれるの?」
 私は恋人を探しに来ていて、鹿紫雲くんにとっては恋敵になる人で、私は黙ってそれに付き合わせていたのに……?
「当たり前だろ。俺はオマエの護衛役だ。オマエの行きたい場所にはどこでも付き合う」
「……あ、ありがとう」
 もと来た道を戻るため、鹿紫雲くんが急斜面に足をかける。そこで振り向いて「掴まれ」と私に手を差し出した。青緑色の髪の毛がうららかな日射しを受けてキラキラと煌めいて、透き通った青空を戴く新緑のようだ。眩しさに目を細めながら彼の手を取る。その大きくて逞しい手のひらは、とても温かかった。

 周辺をあらかた探索し終えたら車を別の駐車場まで移動させて、またその近辺を調べる、ということを午前中いっぱい繰り返した。しかしながら成果はゼロだ。呪術や結界の痕跡も、呪霊の気配も、まったくない。
 ──わかっていたことだ。この温泉地に通うようになってから約一年、同じことを繰り返してきた。調査に来るたびに、私のしていることには何の意味も無いかもしれない、と感じていた。それでも諦めることはできなかったのだ。私が諦めたら、どこかで人知れず見付けてもらえるのを待っている恋人を、見捨ててしまうことになるような気がして。
 収穫は無く、ただ疲労で重くなっただけの足で車に戻る。
「腹が減ったな」
 助手席の扉を開けた鹿紫雲くんは、私以上に徒労感を覚えていてもおかしくないのに、独り言のようにそれだけを言った。
「お昼、食べに行こうか」
「おう」
 せっかくなので地元の名物を食べられるお店に連れていってあげようと、車を走らせる。向かった先は観光地にほど近い蕎麦屋だ。平日ではあるけれどお昼時なので行列ができていた。それでもさほど待つことなくお店に入ることができた。
 注文したのは名産の湯葉が乗った蕎麦だ。だしのいい香りが立ち上る温かいつゆに、ねぎ、山菜、かまぼこに囲まれるようにして、ぐるぐると同心円を描く大きな湯葉巻きが二つ浮かんでいる。
「いただきます。……こういうの、久しぶりだなあ。いつもはコンビニとか、サービスエリアとかで済ませちゃうから」
 何気なく言いながら器の中に箸を入れて一口分のそばを取ろうとしていると、テーブルの向かいに座っている鹿紫雲くんが難しい顔をして私を睨んでいるのに気付いた。
「どうしたの? お蕎麦、苦手じゃなかったよね」
「問題は蕎麦じゃねぇ。オマエ、もうなるべく一人になるなよ」
「……なんで?」
「うまいもん食うのが好きなのに、一人だとそうしなくなっちまうんだろ? 家族とか友人とか、つるめる奴とつるんでろよ」
「あ、あー……うん……そうだね」
 言われてみればその通りで、反論の余地はまったくない。自分一人だとどうしても自分の扱いが雑になるのが私の悪い癖だ。
 とはいえ実家は遠方だし、補助監督の仕事をしていると一般人の友人とも付き合いにくい。激務だし、休みは不定期だし、急な出勤もある。そのうえ仕事内容はおろか勤め先も言えないのだから、自然と会う頻度が減っていき、今ではほとんど連絡も取らない。補助監督の同僚や『窓』の知人などが、いわゆる友人のポジションに当てはまるのだろうか。
「ご飯とか、なるべく同僚誘ってみようかな」
 鹿紫雲くんが友達だったらいいのに、とふと考える。彼は話しやすいし、ざっくばらんな物腰のおかげで気疲れもしない。でも、私のことが好きだと言う彼に友達でいてほしいと求めるのは酷なことだ。
「オマエがそこで俺の名を挙げれば、言うことなしなんだがな」
 言って、鹿紫雲くんは大きな口を開けてそばを食べ始めた。やっぱり。友達の枠に収まるつもりなんて、彼にはないのだ。
「……じゃあまた来月、今度は金次くんたちも一緒にご飯行こうね」
 もう二人で会わないほうがいい。東京へ帰る途中で金次くんのところへ送っていって、また来月、調査に行く途中で立ち寄って軽く挨拶を交わそう。次はボディーガード役を申し出られても断固として断る。それがお互いのためだ。
 湯葉を噛むと、じゅわっと口の中に旨みたっぷりのつゆが染み出してくる。ほっと気が緩む……と思ったのも束の間。鹿紫雲くんが露骨に顔を歪めていたので、ぎょっとしてしまった。
「は? 来月? なに言ってんだよ」
「なにって……また毎月、ここに通おうと思ってるんだけど……」
「だからってなんで来月まで待たなきゃならねぇ。メシなんていつでも行けるよな?」
「えっと……? 東京から金次くんのとこまで、そこそこ距離があるんだけど……?」
「俺も東京に行くに決まってんだろ」
「えっ!?」
 驚きのあまりお箸を取り落としそうになった。お店の中で思いもよらず大きな声を上げてしまい、私は焦って口を手で覆う。
「護衛役が昨日今日だけだと言った覚えは無ぇ。だいたい、近くにいなきゃ口説けねぇだろうが」
 さも当たり前のように、しれっと告げる鹿紫雲くん。あ、と口を開けた彼は、大きな湯葉巻きを一気に食べてしまった。
 私があれこれ考えていることも、悩んで葛藤していることも、鹿紫雲くんは簡単に咀嚼して飲み込むことができてしまうのだった。


2023/4/5
web公開はここまでです。一区切りついていますが、全体通して読んでいただけるとアッと驚く内容になります。気になった片はぜひ本で!6/25ビッグサイト「JUNE BRIDE FES 2023」です!

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