鹿紫雲×補助監督



 賭博場として使われている立体駐車場の手前に車を止め、私は運転席の扉を開けた。外から流れ込んでくるのは、五月としては気温が高くて夏の一歩手前であるかのような空気だ。私はスーツのジャケットを車内に残したままで車を下りる。
 と、不意に名前を呼ばれたような気がして振り向いた。
「あ?」
 そこにいたのは顔立ちは整っているのに目付きの悪い、派手な青緑色の髪を頭の上で二つのお団子にまとめた、なんだか奇妙な出で立ちの男の子だった。
「オマエ、何の用でここにいる」
 男の子は剣呑な眼差しを私に突き刺しながらずんずんと歩み寄ってくる。随分と背が高い。金次くんと同じくらいありそうだ。身長と、彼が手にしている長い棒のようなものとが相まって、かなりの迫力がある。
 しかし、ガラの悪さだけで圧倒されてしまっては、補助監督として失格だ。任務では呪霊や呪詛師と対面することもあるのだから、相手が普通の人間ならば恐れるに足らず。私は努めてにこやかな表情を作り上げた。
「私は金次くんに……」
「ああ、知ってる。そういう黒服の奴は高専の人間だから近付けるなって、秤に言われてるからな」
 ひゅっと鼻先で風切音が鳴る。
 まばたきをしただけの、文字通り一瞬の間に、私の目の前に棒の先端が突き付けられていた。
「失せろ。今なら五体満足で帰してやる」
 ガラが悪いだけじゃなくて血の気が多い。一体なんだというのだろう。
 渋谷事変、そして死滅回游という未曾有の呪術テロが終結して約半年。世の中は平和と日常が戻ってきたことを噛み締めながら少しずつ復興に向かって進み始めているというのに、彼はまるで一人だけ戦場に取り残されているかのような目をしている。
 パチッ、となにかが爆ぜるような音が、彼の頭の方から聞こえた。
「言っておくが、俺は女が相手だからって容赦するような腑抜けじゃねぇぞ」
「ちょっと待って、落ち着いて。私はなにも──」
「止まれ鹿紫雲! その人に手ぇ出すんじゃねぇ!」
 身の潔白を証明しようとした私の声を遮って、金次くんがバタバタと慌ただしく賭博場の中から走ってくる。軽快なタンクトップ姿の彼は、私と奇妙な男の子との間に割って入り、私を見ながら自分の髪をガシガシとかき混ぜた。
「ったく、予定より早く着くなら言ってくれっての」
「ごめんごめん。高速が思ったよりすいてたから、飛ばしてきちゃった」
 私たちが親しげに会話するのを見たためだろうか。好戦的な男の子が武器を下げた。彼は長い棒の柄でトントンと肩を叩きながらむすっとした顔で金次くんを睨み付けている。
「秤。知り合いか」
「ああ、そうだ。この人は俺らが停学処分になったあともなにかと気に掛けてくれて、世話になってんだ。高専関係っつってもこの人だけは敵じゃねぇ」
「チッ、ややこしい。そういう例外があるんなら先に言え」
「昼メシ食いながら言うつもりだったんだがよ。昼過ぎに着く予定が午前中になったんで言う暇がなかったんだよ」
 短く息をつく金次くんの声に、暗にチクチクと棘を刺されているような気になって、私はドキリと肩を跳ねさせてしまった。見慣れない青年に突然武器を突きつけられるなんていう事態を招いてしまったのは、どうやら私自身であったらしい。
「にしてもだ、鹿紫雲。ロクに確かめもせず突っかかるなんてオマエらしくないじゃねぇか」
「……なんか妙にイラついたんだよ、そいつの顔」
「はあ? オマエなに言ってんだ」
 と、金次くんが私の代わりに声を上げてくれたので、私は黙ってやり過ごすことにした。内心では拳を震わせているところだけれど、かわいい高専生の手前、ここは大人の余裕を見せておかなければ。
 それにしても顔がイラつくだなんて失礼な。自分では、美人とまではいえなくても、それなりに整っているほうだとは思っているのに。補助監督という仕事柄、見知らぬ人に声を掛けたり交渉したりする場面も多々ある。そういう時に相手に不快感を抱かせない程度には、日々お手入れに励んでいるし、人当たり良く見えるメイクだってしているつもりだ。
「……確かにな。なに言ってんだ、俺は。気のせいだった」
 うんうん、そうでしょうとも。怪しい奴と思えば人相も悪く見える。そういうことにして水に流してあげましょう。
 と、反省したらしい男の子が私の正面に立ってじっと顔を見下ろしてくる。
「よく見りゃ器量よしだな、オマエ。玉みてぇな肌に傷を付けずに済んだのは幸いだった」
「は……はあ?」
「さっきは悪かったよ」
 間抜けな声を上げた私に、彼は神妙に頭を下げてみせる。一体なんだというのだろう、これは。謂われなく容姿を非難されたかと思えば、言い回しこそ古めかしいけれども歴代彼氏も真っ青の直球さで褒めてもらってしまった。振り幅があまりにも大きすぎてついて行けない。
 助けを求めて金次くんに視線を投げれば、彼も唖然としていつもは細い目を見開いていた。
「あー……なんだ、とりあえず上がるか? 綺羅羅も待ってるしよ」
「う、うん。そうさせてもらうね。お土産あるよ」
 私はそそくさと車のトランクを開けて、東京で買ってきた服や化粧品、デパ地下のお菓子やお惣菜、金次くん用のお酒などの入っている紙袋を取り出した。すると、ひょいと横から伸びてきた手がそれなりに重量のある袋を軽々と持って行ってしまう。
「持ってやる」
「あ……ありが、とう……」
 初対面直後の一悶着とは別人のように親切になった青緑色の髪の彼は、ずんずんと大股で建物の中に入っていってしまった。
 私は金次くんと顔を見合わせる。彼はぽかんと口を半開きにしているが、たぶん私も同じくらい間抜けな顔をしているのだろうと思う。
「ええっと……彼、なに……?」
「まあ、話すと長くなるんだけどよ……」
 それから私はモニタールームへ向かうまでの道すがら、彼──鹿紫雲一が受肉して現代に蘇った過去の術師であること、死滅回游の戦いが終わってからは金次くんの賭博場に身を寄せていること、などを聞いたのだった。
 金次くんにモニタールームに案内してもらうと、ソファでスマホをいじっていた綺羅羅ちゃんがぱっと顔を綻ばせて抱き付いてくる。
「わ〜〜〜! 久しぶりぃ!」
「うん、久しぶり! 綺羅羅ちゃん、元気にしてた?」
「もちろん元気だよぉ!」
 綺羅羅ちゃんの身体は華奢なように見えて意外としっかりしている。身長も私とほとんど変わらないのだが、おでこを私の肩にぐりぐりと押し付けて甘えてくるところは完全に『妹分』という様相だ。かわいらしく外ハネにセットされた髪を、私はぽんぽんと撫でた。すると綺羅羅ちゃんが私の身体に回した腕の力が少し強まる。
「……ちょっと痩せちゃったぁ?」
「ん……そうかな? いろんな事件があったからね……。ここにもなかなか来られなかった分、お土産たくさん持ってきたよ」
「やったぁ!」
 お土産の入った紙袋を、鹿紫雲さんがテーブルに置く。綺羅羅ちゃんは紙袋と鹿紫雲さんの顔を交互に見比べて、にんまりと笑みを浮かべた。
「優しいねぇ、一ちゃん」
「あ? これくらい大したことじゃねぇよ」
「私の荷物はお願いしても持ってくれないのにぃ」
「オマエは別に非力ってわけじゃねぇだろ」
 やり取りを聞いていると仲が良さそうで安心する。受肉した術師というと物騒なイメージがあるし、やはり最初の剣呑な雰囲気の印象が強くて、鹿紫雲さんが賭博場に身を寄せていると聞いた時には脅されでもしていたらどうしようと心配だったのだ。でも杞憂だった。金次くんも綺羅羅ちゃんも人を見る目のある子たちだ。彼らが気を許しているというのなら、悪い人ではないのだろう。
「座れよ。なんか飲む?」
 金次くんが私の肩をポンと叩き、小さい冷蔵庫の扉を開けた。
「ノンアルでお願いしまーす!」
「そりゃわかってるよ。さすがに、これから運転する奴に酒は勧めねぇって」
 苦笑いの金次くんがジンジャーエールと、グラスを四つテーブルに置く。
 ソファには私と綺羅羅ちゃんが腰を落ち着けて、金次くんと鹿紫雲さんはパイプ椅子を持ってきて座った。
「はい、綺羅羅ちゃん。これは新色のアイシャドウ、絶対好きだと思って」
「うん! 欲しかったぁ! こっちの方だと売ってないんだもん。ありがと〜!」
「こっちは私のオススメのマスカラ。盛れるよ〜」
「嬉しい〜! いっぱい盛る〜! 自撮り送るねぇ」
 ……などと、きゃぴきゃぴと綺羅羅ちゃんにお土産を渡している間にも、なぜか真正面から鹿紫雲さんが視線を突き刺してくるのがとても気になる。
 口を挟むわけでもなく、見ているだけ。仏頂面でなにを考えているのかよくわからない。そもそもなんで私の正面に座ったのだろう。気になるからといって下手に視線を向けてしまうともれなく目が合ってしまって気まずいので、私はひたすらお土産の解説に徹することになってしまった。
「なあ、昼メシ食ってくのか?」
 金次くんが話題を振ってくれて、私は渡りに船とばかりに彼のほうへ顔を向ける。
「ううん、ご飯は途中のサービスエリアで食べていくね」
「あー、ま、そうなるよな。さっさと現地着きたいだろうし。今回の調査は長いのか?」
「一泊しかしないから日程としてはそうでもないけど、できるだけ長く向こうにいていろいろ見て回るつもりだよ」
 死滅回游の終結から、もう半年、というべきか。まだ半年、というべきか。未曾有の呪術テロの爪痕は深く、呪術関係者は補助監督も含めて多忙を極めている。そんな中で私にはどうしても行きたい場所があり、無理を押して二日間の休みをもぎ取った。激務を前倒しでこなし、同僚たちの理解もあってようやくできたことだった。
「そっか、もうすぐ一年だっけ……」
 綺羅羅ちゃんがしんみりと呟く。私は無言で頷いた。
 私が行きたかった場所というのは、以前に任務地となった昔ながらの温泉街だ。任務自体は一年前に解決しているものの、個人的な未練があって、休みを取っては調査として足を運んでいる。
 東京から温泉地に向かう途中にちょうど金次くんの賭博場があるので、調査に向かう時には途中でここに寄るのがいつものパターンになっていた。彼らとはよく任務に同行していたのをきっかけに仲良くなっていたので、停学処分になって高専を出ていってしまったあとも放っておけなかった。
 私には停学を取り消すような影響力はないけれど、なにか力になりたいし、せめて元気にしているかどうかを確かめたい。そんな思いで仕事とは関係なく賭博場に足を運んでいた。私は休みを取っているので、金次くんたちと会っていることは高専には内緒だし、呪術規定を破っている賭博場のことも見て見ぬフリだ。
 温泉地に通うようになったのは去年の六月。それからしばらくは月に一度の頻度で訪れていたけれど、渋谷事変、死滅回游のおかげで中断せざるを得なかった。呪術界が落ち着いたあとはまったく余裕がなく、世間のゴールデンウィークが過ぎ去った頃にようやく私たちにも普段の繁忙期くらいの忙しさが戻ってきた。金次くんたちに会うのも温泉地での調査も約半年ぶりだ。
「おい、オマエこれからどこか行くのか?」
 ずっと黙っていた鹿紫雲さんが口を挟んできた。
「ええ、まあ……。ここには金次くんと綺羅羅ちゃんに会いに来ただけだから、すぐ出発するつもりで」
 彼にとっては私は部外者だし早く出ていってほしいんだろうか……と思っていると、続く言葉は意外なものだった。
「それは困る。まだ詫びを入れてねぇ」
「詫びって……そんな、気持ちだけで十分ですから」
「オマエのためになることをするにはどうすりゃいい?」
「いやあの……」
「あ〜! じゃあさぁ!」
 パチン! と綺羅羅ちゃんが両手を打ち合わせる。キラキラ輝くその瞳には「名案!」と書いてあるように見えた。
「一ちゃん、ボディガードになりなよぉ!」
「へ?」
「あ?」
 私と鹿紫雲さんの気の抜けた声が重なる。
「おい、綺羅羅?」
 金次くんも呆れ顔だ。しかし綺羅羅ちゃんは至って真剣に、拳を握りしめて熱弁するのだった。
「だってぇ、もとは任務地だった場所だよ? 久しぶりに行ったらまた呪霊出てきてるかもしれないじゃん。一ちゃんが一緒だったら安心だよね」
「危険のある場所に女一人で行くつもりだったのか? そいつは見過ごせねぇな」
「いやいや、大丈夫だよ。もし目に見えた危険があるなら『窓』から報告が上がってるだろうし、ただ調査するだけだから」
「おい鹿紫雲、行くなら明日の試合は出れねぇぞ? わかってんのか?」
「問題ねぇだろ。どうせ弱い奴らしかいねぇんだ。つまらない戦いよりコイツの用事に付き合うほうが有意義だよ」
「わかった。オマエがそう言うなら俺は止めねぇよ」
「金次くんまで!?」
 ──そうして、あれよあれよという間に、鹿紫雲さんがボディガードとして私と一緒に温泉地の調査に行くことになってしまった。

◆◆◆

 車に乗り込んで出発した二人を見送って、秤は綺羅羅に「なあ」と声を掛けた。
「あれでよかったのか?」
「なんでぇ? 良いんだよ。一ちゃんすごいやる気満々だったもん」
「だがなあ……なんかの間違いがあったらどうすんだよ」
「いいんだよ、それならそれで」
 ケロリとして言い切る綺羅羅は、初めから確信犯で鹿紫雲を焚き付けていたのだ。
「だってもう一年なんだよぉ? ずっとこのままなんてかわいそうじゃん。荒療治……みたいな?」
 綺羅羅は姉のように慕っている補助監督の顔を思い出す。停学になって高専を出て行った綺羅羅たちを心配して様子を見に来てくれていた時の彼女は優しくて朗らかな物腰だった。それが去年の六月の出来事のあと、賭博場に寄ったあと温泉地の調査に赴くようになってからの彼女は、痛ましいものだった。
 今日久しぶりに会った彼女は、六月よりも前の印象に近い明るい顔をしていた。そのの姿は悲しみを乗り越えて前に進もうとしているかのようだった。それなら鹿紫雲の存在は良い刺激になる、と綺羅羅は考えたのだ。

◆◆◆ 

「おい」
 車のエンジン音だけが響く車内で、助手席に乗る鹿紫雲さんが低く唸るような声を上げた。
「なんでしょう」
 ハンドルを握る私は視線を前方に向けたまま答える。
「なんか喋れよ」
「そう言われても……」
 なぜ彼を連れて行く必要があるのか、私はまだ納得していないのだ。それなのに話すことなんてあるわけがない。
 本当は彼には後ろに乗ってほしかった。助手席にいると存在感が気になるからだ。けれど後部座席は彼の武器がつっかえ棒のようになって占拠してしまっているので、隣に乗ってもらうしかなかった。私はなるべく進行方向だけを見て車の運転に徹している。
「じゃあ俺から訊く。オマエ、独り身だよな? 伴侶にするならどんな男がいい?」
「……んんっ!?」
 危うくアクセルを踏み込みそうになってしまってギリギリのところで堪える。
「な、なにそれ……」
「答えろよ」
「ええっとじゃあ……強い人」
 口にしてしまってから、適当に言っていると思われたかな、と心配になる。もし機嫌を損ねて車内で暴れられたら大変だ。
 しかし横目で表情を伺えば、鹿紫雲さんはニヤリと大胆不敵な笑みを浮かべている。
「そうか。俺以外にはねぇな」
「ちょっ……! なんでそうなるのよ」
 思わず失笑を漏らしながら、素の口調が出てしまった。すると鹿紫雲さんが「おっ」と珍しいものを発見したような声を上げる。
「オマエ、やっと笑ったな」
「え? それは、だって……」
「難しい顔してるよりその方が似合ってる。花が咲いたような顔ってのはオマエみたいな女のことを言うんだろうよ」
「〜〜〜っ」
 だからそうストレートに褒められると困るんだってば……! 第一印象でイライラしたはずの顔になにを言っているのだろう、この人は。
「鹿紫雲さん、あんまりそういうこと言うのは……」
「それ、やめろよ」
「はい?」
「堅苦しいのは好きじゃねぇ。あいつらにしてたみたいに、くだけた調子でも話せるんだろ?」
「それは、金次くんたちとは長い付き合いだからで……」
「オマエが喋り方直すんなら、俺も顔についてあれこれ言うのはやめてやるよ」
 今度は前を見ながらでも彼がニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべているところを簡単に想像できてしまった。まだ出会ってから一時間ちょっとなのにという抵抗感と、自分の心臓が気恥ずかしさに耐えられるのかということを天秤に掛けた結果、私は頷くことにした。彼の爆弾発言によって交通事故を起こす可能性を考えれば、背に腹は代えられない。
「わかった……鹿紫雲、くん、でいい?」
「ん、まあいいか。じゃあ次、オマエもなにか質問してみろ」
「うーん……年、いくつ?」
 左の車線から合流してくる車との車間距離を計りながら発した質問は、我ながらありきたりなものだった。
「四百と七十……」
「よんひゃく!?」
 ところが彼の返答は普通ではなく、私はまたしてもひっくり返りそうになってしまう。
「呪物になってた間もぼんやり意識はあったんだよな。四百年、だいたい寝てたが」
「ひゃあ……それはなんというか、とんでもない……」
 年上とか、おじいちゃんとか、そういう範疇を越えている。四百歳の人とどういう心構えで会話したらいいのかわからない。
 私の中の処理能力が降参してしまったので、見た目から勝手に推察して、彼のことは金次くんと同じくらいの年の子だと思うことにした。
「次だな。好きなもんを教えろ」
 いつの間にか私と彼とで一問一答が始まっていたらしい。気付いたら、グイグイと押しが強い彼のペースに乗せられてしまっている。それにしても、好きなもの、とは随分と漠然とした質問だ。
「好きなもの……って例えば?」
「秤なら賭け事、綺羅羅なら化粧、あとは漫画とか音楽とか……いろいろあるだろ。オマエはなにが好きなんだ?」
「急に言われてもねえ……」
 金次くんたちのようにこれ! と決めて熱を注いでいるようなものは私には特にない。強いて言えば補助監督の仕事だけれど、特に使命感を燃やしているわけではなく、ただ目の前にあることを次から次へとこなしているだけだ。私には生きることと働くことだけで精一杯で、余分なんてない。
「おいしいごはんを食べることとか……あと、音楽だったらこれかな。長い距離を運転する時にはよく聴いてるんだ」
 無難な回答を口にしつつ、片手をハンドルからさっと離してオーディオの再生ボタンを押す。入れっぱなしにしてあるCDが再生されて、軽快なリズムのイントロが流れ出す。やがて賑やかなギターの音に乗り、可憐な声の女の子たちが歌い始めた。
「これはなんだ?」
 私の車に初めて乗る人がみんな意外だと言うドライブ用BGM。彼も例外ではなく驚いたようで、目を丸くしている。
「うるさかったら消そうか?」
「なんでだよ。オマエの好きなもん教えろって言ったのは俺だ」
「合うか合わないかがあるかなあと思って」
「悪くねぇよ。賑やかで祭みたいだ。それで、どういう歌なんだ?」
「私の好きなアイドルのセカンドアルバムで……アイドルってわかる?」
「一応は。舞だの歌だのをやる若い女の、芸妓みたいなもんだろ」
「う、うーん……? そうなの、かな……」
「金払っても抱けねぇんだよな。握手だけはできるのか」
「や、待って、なにかすごく勘違いしてる気がする! まずお金払ってるのにみたいな上からの気持ちって無くて、応援、って感じなの。あの子たちのかわいさには癒されるし、かわいい子たちが一生懸命がんばってる姿には元気をもらえるし、ライブに行けば生で見る感動と一体感が最高だし、握手ってことはこの距離にあの子たちがいるわけで……あっ……あの……待って、その……ごめんなさい……」
 気付けば私はハンドルを強く握りしめて早口に熱弁してしまっていた。これは同好の士以外に見せるのはあまりよろしくない姿だ。しかしアイドルという存在を激しく誤解している発言を受けて勢いが止まらなくなってしまった。
 さすがに引かれたかな……いや、引かれたところで私は別に……あとで金次くんや綺羅羅ちゃんとの笑い話のタネにしてくれればそれで構わないのだけれど……と、チラリと彼の顔を伺ってみる。
「──ハハッ!」
 すると彼は顔をくしゃくしゃにするほど破顔して、私が見た中で一番の笑顔を炸裂させていたのだった。
「良いねぇ。そういうのが聞きたかったんだよ。オマエのことをもっと知りてぇ」
「……」
 特に前方に注意を払わなければならない場面でもないのに、言葉が出なくなってしまう。なんだろう、この、じんわりと胸が温かくなる感覚は。私は、ほっとしているのだろうか。私の好きなものを、それを好きな自分を受け入れてもらえて──待って、好きなもの?
 どうしてさっき、私には好きなものなんてない、と思ったのだろう。
 私には好きなアイドルがいて、彼女たちのライブに行くのが好きだった。ここ一年ほど、自分の内面に目を向けることをしなかったから、好きなものを好きだと思う気持ちにも蓋をしてしまっていたのかもしれない。
 あるいは、私はそういうポジティブな感情を抱いてはいけないと、自分に枷をはめていたのかも。
 その枷を取り去って、好きだという気持ちを思い出させてくれた彼──鹿紫雲くん。近寄りがたいしなにを考えているのかわからないと思っていた彼のことを、なんだか急に頼もしく感じるようになってしまう。
「なんでそのアイドルってやつを好きになったんだ? ……いや、今度はオマエが質問する番だったか」
「えー……鹿紫雲くんは、どんな音楽が好きなの?」
「特に無ぇな。俺はそういう娯楽の類は昔からてんで興味がなかった」
「それだと暇な時とかなにしてるの?」
「秤からいろいろ借りてる。漫画とかゲームとか……最近借りたのだと、ピンクの丸いやつを戦わせるゲームが面白ぇんだよ。ふざけたナリのわりには奥深くて……ん? おい、さっきは俺の番だったろ」
「ふふふ、そうだっけ」
 最初は億劫で、渋々付き合っているだけだったお喋りが、楽しくなってくる。時々順番がランダムになる一問一答を繰り返していたら、昼食を取る予定のサービスエリアへあっという間に着いてしまった。
 フードコートのなんの変哲もない蕎麦を、彼は「うまい」と喜んで食べる。しかも私がトイレに行って戻ってきたら屋台の串焼を買い食いしていた。その次には彼があまりにもキラキラした目でご当地ソフトクリームを見つめているものだから、普段だったら気にも留めないそれを私までつられて買ってしまった。
「鹿紫雲くん、甘いもの好きなの?」
「別に。だがこいつはうまそうだった」
「おいしそうだよね、イチゴ味。あっちのベンチ空いてるから座って食べようよ」
「ん。……つめてぇ」
「あっ! もう食べてる!」
 ぽかぽかした陽気の下で、甘酸っぱいイチゴ味のソフトクリームを鹿紫雲くんと一緒に食べる。その頃にはもう、彼がまるで何度も会っている友人であるかのように気兼ねなく話せるようになっていた。
 サービスエリアを出発してまたしばらく高速道路を走り、目的地付近からは一般道を行く。ビルが立ち並ぶ都会から来ると空の広さに目を奪われそうになる、緑の多いのどかな景色だ。もう何度も通った道で、新しいものなんて見付かるはずがないのに、目に入るものに次々と興味を示す鹿紫雲くんのおかげで新鮮に見える。
 誰かが隣にいてくれることの心地よさ。それもまた、私が忘れてしまっていて、鹿紫雲くんが思い出させてくれたものだった。


2023/4/5
6月のイベントで本にする予定の夢小説をサンプル感覚で公開します。
タイトルが〜!決まらない〜!

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