飛び出す群衆



 抜けるような青空は私のものではない。
「アンタまたこんな所で寝ていたの?」
 気付けば私のすぐ横に亨子が立っていた。一糸纏わぬ裸体に『空』を着た姿は同姓の私でも目のやり場に困ると言うのに、彼女は腰に手を当て堂々とその整った肢体を露わにしている。
 亨子の太腿のあたりまで伸びるススキ野原と、薄くひつじ雲の浮かんだ澄み渡る青空。ススキの穂に埋もれるようにして私が寝転んでいたこの場所は、千年前から蘇ったのだという烏鷺亨子の心の中──彼女の言葉を借りれば生得領域の中だ。ある夜いきなり頭に彼女の声が響いてきたその時からここが私の居場所になった。
「寝てたんじゃなくて、亨子のしていることを見ていたんだよ」
「ふうん。別に面白くもないでしょう?」
「なんていうか、現実感がない、かな」
 目を閉じて念じれば亨子の視界を私も共有することができる。外の世界、かつて私の日常があった場所で行われているのは呪術師という超能力者のような人々による殺し合いだ。まるで漫画の中のようで現実味がない。もっともここが漫画の中だとしても私なんて背景に紛れる群衆の一人に過ぎず、物語の中核からは遠いところで流されるように生きるだけなのだろうけれど。
「亨子はどうしたの? 今日はもう休むの?」
「そうね。休息を取ろうと思ったけれど、私の中であまりにも陰気な気配がするからイライラして気が休まらないのよ」
 亨子はむんずと私の腕を引っ張り上げた。並んで立つと彼女のほうが頭ひとつ分くらい背が高い。
「まず、その格好はなんなの?」
「なにって、普通のオフィスカジュアルで」
「余計な布なんか巻き付けているから気が塞ぐのよ。ほら、脱いでしまいなさい」
「ちょ、ちょっと! やめて! 恥ずかしいから!」
「他に誰もいないわよ」
「亨子がいるよ!」
「私しかいないんだからいいの」
 大量生産品のブラウスやらスカートやらが亨子の手によってひん剥かれてしまう。あまつさえ下着までも。生まれたままの姿を晒す羞恥心で泣きそうになっていると、亨子が『空』を引っ張って私に巻き付けた。これなら良いでしょうとでも言いたげに溜め息をつく亨子だが、彼女同様に大事なところだけが隠れた姿というのは私にとっては十分恥ずかしい。せめて下着だけでも──いやそれも無理だ。洋服一式を返してほしい。
「それから地べたに這いつくばっているのも良くないわ。自由に飛んでいたらいいじゃない」
「飛ぶって簡単に言うけど、私には怖いんだよ……」
 ここは亨子の心の中。彼女ができると思うことはなんだってできる。例えば身一つで空を飛ぶことだって。しかし命綱も無しに空を舞うことは私には恐ろしくて、初めにこの空間へ案内された時に教えてもらって以来試したことはない。
「そうやって二の足を踏んでいるからアンタは──」
 亨子がなにかを言いかけて、口を噤んだ。言葉の代わりに手が出てくる。彼女は私の手首をむんずと掴み、勢いよく真上に放り投げた。
「きゃ、あああああ!」
 私の身体は軽々と宙を舞いどんどん高度を上げていく。この生得領域においては筋力に依らず、そう在れと亨子が念じるだけで、私の身は塵か埃のように重力から解き放たれてしまうのだ。
「あっはは! ほらしっかりバランス取って」
「む、むりむりむりっ! たすっ、たすけてぇっ」
「まったく、情けないわね」
 バタバタ不格好にもがく私の横で、亨子は滑るように優雅に飛翔していた。苦笑しながら私と向かい合った彼女に両手を握られる。亨子に導いてもらったおかげで私はようやく安定して平行を保つことができた。助けがもう少し遅かったら船酔いならぬ空酔いで大変な有り様になっていたところだ。
 亨子が支えてくれているという安心感から、周りに目を向ける余裕が出てくる。空はどこまでも透き通るように青く、眼下ではススキの穂が水面のように波打っている。
「で、どうしたのよ?」
「なにが?」
「陰気なのよ、空気が。この期に及んでなんの悩みがあるって言うの?」
「……隠し事、できないんだねえ」
 参ったなあ。曖昧な笑いを浮かべてみても、亨子は眼光鋭く私を見据えたままで、勘弁してくれそうにない。意を決して私は口を開いた。
「亨子はどうして、私を殺さなかったの?」
「何かと思えば、それ?」
「気を悪くしないでね。外でのあなたが、その……もっと容赦の無い人に見えるから」
 命懸けの戦いで、殺さなければ自分が殺される。そういう状況だということを差し引いても、亨子は淡々と冷酷に戦った相手の命を点に変えていた。そこには迷いも躊躇も無いように思われた。
 だから不思議になった。あの日、私の身体に宿った亨子が「殺されるか、肉体を渡して魂だけ生き延びるか選びなさい」と告げたことが。彼女は私を保護するなどという余計な労力をかけず、さっさと私を殺して肉体を奪うことができたはずだし、私の印象通りの亨子ならそうしたのではないかと思うのだ。
「アンタが私と同じだったからよ」
 亨子は神妙な面持ちで少しの間だけ沈黙したあと、静かに言った。
「この肉体で目覚めた最初は、生前の自分の身体ごと蘇ったのかと思ったわ。そのくらいアンタは私に似ていた」
「わ、私、亨子みたいに強くもなんともないよ?」
「表面的なことじゃない。無意識下での話よ。──アンタも、何者かになりたかったんでしょう?」
「……!」
 はっ、と息を呑んだ。亨子の言葉はなにか私の、核心のようなものを突いた。代わり映えのしない、平凡で平坦な毎日の繰り返し。それに対して抱いていた漠然とした満たされない感覚が、亨子の言葉ではっきりと形を持った。
 ──そうか、私は、何者かになりたかったのか。
「どうでもいい相手なら殺していたけどね。そうなるために二度目の人生を手に入れた私が、同じ願いを持つアンタを一方的に殺すのは寝覚めが悪かった。それだけよ。納得した?」
「そっか……そうなんだね。ねえ、亨子」
 私の手を握る亨子の手を握り返す。指と指とを絡めて、しっかりと。
「なに?」
「勝って──生きてね。私たちの願いのために」
 映画の主人公みたいな恥ずかしい台詞だって今なら言えてしまう。肉体もなにもかも、心以外のものを全て失ったのと引き換えに、私はどこまでも自由だ。そのことにやっと気付けた気がする。
「当然でしょう。私を誰だと思っているの」
 私が知る誰よりも強く美しい人、烏鷺亨子が不敵に笑う。その顔が頼もしくて安心した。私の肉体を使って蘇ったのが亨子で良かったと心から思う。
 誰でもなかった私は彼女のために特別な私になれたのだ。

◆◆◆

 私と享子は素っ裸のまま二人並んでススキの穂に埋もれて寝そべり、暗雲の立ちこめた空を見上げていた。
「ざまあないわね。負けた相手に生かされて」
「でも享子が無事でよかったよ。私何度も、もう駄目かもって思ったもん」
「無事とは言えないわよ。腕も命も、自分で拾ったものじゃないんだから」
 乙骨、という男の子が現れてからの戦いは、それまでとはまるで違っていた。まだ高校生くらいに見えたのに、凄まじく強い男の子だった。
 しかし享子にあの男の子の話はまず間違いなく地雷だと思うので、彼への感想は私の胸の内にそっと留めておく。
「……悪かったわね」
「え?」
「せっかくアンタにもらった身体を損なって」
 横を見れば享子は腕をそっと撫でていた。戦いの中で失われた左腕だ。私の前にいる彼女の形は腕も健在だけれど、それはここが心の中だからだ。現実に戻れば享子の美しい四肢は、その一つが欠けてしまっている。
「謝ることなんかないよ。身体はもう、享子のものなんだから」
 本心からの言葉だ。傷ついたのも痛みに耐えたのも、享子なのだ。戦いを見守るばかりの私が、どうして彼女を責めることができるだろう。
「そうね……私の身体だわ。ようやく手に入れた自由な身体だったのに、もう領域は展開できないし、満足に戦えもしない……」
 ススキの穂が冷たい風に吹かれて揺れる。
 いつだったか、私に陰気になるなと叱ったのは享子だったのに、今は享子のほうが見ていられないくらいに沈んでしまっている。
「享子!」
 私はすっくと立ち上がり、彼女の両腕を握って引っ張り上げた。
「飛ぼうよ、享子」
「なによ急に……」
「いいからほら、いつもみたいに着せて、『空』」
 享子は渋々といった様子で空間をカーテンのように引っ張り、それを自分と私にそれぞれ巻き付けた。心の中だからどんな格好でも過ごせるけれど、空を飛ぶ時には享子のように『空』を纏うのがいつからかお決まりになっている。
 享子と二人、軽くジャンプするように地面を蹴ると、身体は重力の楔から解き放たれてふわふわと舞い上がっていく。ススキの穂の景色が遠ざかって、灰色の海原のように見えてくる。
 しかしせっかく空を飛ぶのに下を見ているのはもったいない。身体の向きを変えて地平線を視界に捉える。そこでは厚い雲が空と陸の境界までも覆っていた。
「あのね私、最近は一人でもバランス取って飛べるようになったんだよ。練習したの。見てて、ほら……っ、あ、あっあっ」
「……ふ、なにやってるのよ」
 調子に乗って享子の手を離し、両腕を鳥のように広げた途端、私は体勢を崩してその場でくるくると回りだしてしまった。小さく笑った享子が支えてくれて、やっと姿勢が安定する。
 からかうようなものではあったけれど、享子の笑みを久し振りに見た気がする。
「……まだ、練習不足だったみたい」
「そんなに難しいことじゃないはずなんだけどね」
「えへへ……また今度、見てね。もっとうまくなるから」
「それまで生きていられたらね」
 享子は皮肉げに溜め息をつく。
 私は享子の手を握り返し、正面から彼女の、真夜中の星のような瞳を見つめた。
「大丈夫だよ。享子は強いもん。私たち、これからもずっと一緒にいられるよ」
 享子は僅かに目を見開いた。次いで肩を竦めた彼女の唇が、小さな弧を描く。
「わかったわ。ふう……まさか私がアンタに励まされるなんてね」
「元気、出た?」
「まあね。でもなんだか腹が立つから……そおれ!」
「え、あ、あああぁぁぁ……!?」
 ニヤリと笑った享子が私の身体を放り投げる。私はくるくると回りながら空高く舞い上がってしまった。
「あはははは! ほら、練習するんでしょ? がんばって」
 享子は高らかに笑いながら私を追い抜いて、自分だけ優雅に飛んでいってしまう。
 ほうほうのていで回転を止めて姿勢を持ち直しつつ、いつもの享子の笑い声を聞いて、私はやっと安心できた。
 烏鷺享子はまだ飛べる。美しく、自由に、どこまでも行ける。
 曇天は割れ、世界には輝く光の帯が射し込んできていた。



20221213
たかこ〜!強く生きて自分のための人生謳歌してほしい!
ツイッターの#ju夢ワンドロワンライ参加作品(お題:無意識、声、絡まる)に21巻でわかった仙台編の決着を踏まえて後半部分を加筆しました。
受肉泳者たちほんと好き。彼らの良いところは、彼らが受肉体だということです。
器がいるとか知識のズレとか第二の人生とかそこらのネタで三食食べていけます。

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