甘美なる
おいしいものを食べるのが好き。
仕事がどんなに大変だって、ごほうびのスイーツがあれば頑張れる。金曜日の夜にはおしゃれな女子会だってしちゃう。デートは夜景の綺麗な、背伸びしたワンピースとヒールの似合うレストランがいい。連れていってくれる彼氏は残念ながらいないけど。
ありふれてはいても私なりにキラキラした、楽しい毎日を過ごしていたのだ──数日前までは。
今ではもう仕事もなければスイーツもない。代わりにコガネといううるさい虫のような小さな化け物がシメツカイユウだとかジュジュツだとか言っている。そんなわけのわからないもの知らない。ポイントより食べ物が欲しい。一人暮らしの私の家に食糧の備蓄はあまり無かったから、キッチンはもうからっぽになってしまった。
外に食べ物を探しに行かなければいけない。だけど外は変な化け物や物騒な人たちが歩いているから怖い。化け物の呻き声と誰かの悲鳴が響く外になんて出たくない。
ああ、けれど──お腹がすいて、我慢できない。
なにか、おいしいものが、食べたい。
***
ふと、私は目を覚ました。それによって自分が空腹のあまり気を失っていたことにも気付いた。
夢を見ていた気がする。よく覚えていないけれど、なにかごちそうを食べたような。
「十五点が追加されました」
コガネがなにか言っている。だから、ポイントじゃなくて食べ物をちょうだいってば。
空腹感は今は和らいでいる。夢の中で食べたことで満たされたのだろうか。それならもう一度眠ろう。同じ夢を見られますように。
スポンジの地面。チョコレートの木々。果実はマカロンで、小川はクリーム。甘くておいしいお菓子の世界。お腹がすいたから、目についたものからどんどん食べる。
ぴちゃ、と足元に濡れた感覚。見れば赤い水だった。なにこの、全然おいしそうじゃないもの──
みるみるうちに世界が塗り変わる。わたあめの雲は真っ暗闇に呑み込まれ、プリンの山の代わりに不気味な骨の山が現れた。そのてっぺんに座っている、着物姿の男の人。羽虫を払うような仕草で手を振ったその人は、身も心も凍り付くほど冷たい眼差しで私を見下ろしていた。
「見境なしに食らったか。相当な悪食だな、小娘。だが俺にまで食指を伸ばそうとは身の程知らずもいいところだ」
キン、と甲高い男が鳴る。すると牛骨の山がずるりとスライドして──違う、ずれたのは、私の、首──?
「ッ、はあっ、はあっ……!」
気が付くと自分の家に戻っていた。とんでもない夢だった。最初はかわいくておいしかったのに、夢の中で殺されるなんて……
「二十点が追加されました」
またコガネがポイント獲得を告げる。本当に、なにもかも、わけがわからない。
コンコン、と家のドアがノックされる音。私は大きく身体を震わせてドアを凝視した。化け物だらけの外から訪問してくるなんて、絶対にロクでもないものに決まっている。
「お姉さん、いる? ちょっと開けてくんない?」
ドアの向こうから聞こえたのは明るい男の子の声だった。人好きのする印象だけれど、だめ、私は騙されない。中に入れたらどんな目に遭うかわからない。
「開けない。帰って」
「大丈夫! 俺、お姉さんを保護しに……」
「帰りなさいってば!」
「……っ、ちょ、落ち着いて! 術式はダメだって……ぐっ……」
呻き声のようなものを最後に男の子の声がしなくなった。なにがあったのか知らないけれどやっぱり外は怖すぎる。私はこのまま家に閉じ込もって、夢の中でお腹を満たして──
キンッ。どこかで聞いたばかりのような音がした。それが夢の中で聞いた金属音だと気付いたのは、真っ二つに切り裂かれたドアが盛大な音を立てて玄関に倒れるのを見た時だった。
入り口に立っているのは、衣服こそ異なっているものの、夢で会った顔に刺青のある男の子だ。彼はニイと口の端を吊り上げて悪辣に笑っている。
「魂を食らう術式も使いようによっては役に立つな。小僧の魂は食いきれんようだが」
彼は土足のままでずかずかと家の中に押し入ってくる。
「や、やめて、来ないで……っ!」
「フン。それを俺に向けるのはやめろ。小僧を昏倒させた働きに免じて先の件は不問としてやるが、二度は無いぞ」
なにかを叩き落とすような素振りをして、男がじろりと私を睨み付けてくる。ぬっと伸びてくる腕。逃げられなかった。男の放つ威圧感にあてられて、私の身体は石にでもなったかのようだ。
顎を掴まれ顔を上に向けさせられる。紅い瞳と目が合った。底の知れない妖しさを纏うそれが、にたりと弧を描いて細められる。
「オマエを飼ってやろう。幾度か繰り返せば小僧を再起不能にできるやもしれん。そうなれば褒美に俺の呪力を与えてやっても良い」
「わた、わたし、なにも、知らな……」
「味を知らねば動けないか? 貪欲なことだな。味見だけはさせてやる」
赤い舌の色が妙に艶かしい男の口が接近してくる。あ、と思った時には唇が重なっていた。我が物顔で押し入ってくる舌の感触。ひれ伏し、されるがままになるのが正解なのではないかという気がして、身体の力が抜けていく。
これはキスだなんていう色っぽいものではない。征服し掌握するための儀式だ。男の舌は口の中に溜まった唾液をこちらへ押し出すように動く。熱くどろりとしたそれが喉を通っていき、甘い、と感じた。夢の中で食べたどんなお菓子よりも甘い。舌ではなくお腹の奥で知覚したそれが呪いの味なのだと、私は感覚的に理解した。
もう、これを知らなかった頃の私には戻れない。彼に頭を垂れて従順なしもべとなることが、新たな生きる悦びとして、私の中に刷り込まれてしまった。シメツカイユウもジュジュツもわからないけれど、おいしいもののためなら私は頑張れる。
20221112
BGMは「I beg you」です。くうくうお腹がすきました。