伏魔御殿



 使用人の朝は早い。庭の鶏が鳴き出す前に起き、軽く身支度を整えて、炊事場へ向かう。他の使用人たちとも分担しながら水汲みや火起こしなど朝餉の支度をこなしていく、いつもの朝。
 炊いた米や刻んだ野菜をどんな貴人が食すのか、私は知らない。わかるのはただ、とても大きい御方だということだけだ。

「今朝も滞りないか?」

 炊事場に清涼な声が響き、空気が冷えたように引き締まる。厨はもちろんのこと、屋敷のすべてを取り仕切る裏梅様がお見えになったのだ。
 裏梅様は炊き上がったご飯や料理の味見をして、合格不合格の判断を下していく。私が担当した煮物は合格をもらったが、隣の鍋で作られていた汁物は塩気が強すぎると指摘されて、担当の女の子が慌てて水を継ぎ足していた。

 すべての料理に合格がつき、出来上がった朝餉の膳は裏梅様が主のもとへ持っていく。私たち使用人は仕事場と使用人用の居室のみ出入りをすることができ、主の姿を目にすることは許されていない。そもそもこの屋敷が京のどこに──京にあるのかどうかすらわからない。詮索することはここでは禁忌。私たちが知って良いのは、主のお名前が『宿儺様』ということだけだ。

 ◆

 屋敷の掃除は宿儺様が朝餉を召し上がっている間に手早く済ませなければならない。使用人ごとに場所の分担が決まっていて、私の担当は庭に面した縁側だ。
 床を磨き上げている私を追い越すように、ざあっと風が駆け抜ける。目の前に、まだ青いカエデの葉がはらりと落ちてきた。

 まるであの時のよう──私の脳裏に去来したのは、本来見てはならない主の姿を遠目に見てしまった日の光景だった。

 あれは昨年の、カエデが美しく色づく季節のことだ。夜中に目を覚ましてしまった私は厠へ行きたくなって居室を抜けた。主もお休みになっているだろうと油断していたのだ。そして庭を通りかかった時──見てしまった。

 屋敷の門廊先端、庭の池に突き出すように建てられた眺望用の建物。そこに佇む威風堂々たる人影。天井に届きそうなほどの背丈から、見たこともないほど大きな人だということがわかった。男の使用人でもそんな者の心当たりはない。間違いない、宿儺様だ──私はそう直感し、禁忌を目にしているこの状況は良くないと理解したが、すぐにその場を離れることはできなかった。
 見惚れてしまっていたのだ。その光景に。
 澄んだ夜空。星たちを従えた満月が、池の中にも浮かんでいる。それを彩るのは紅や黄に染まった鮮やかな落葉。
 風が草木をざわめかせ、水面の月を波紋で隠す。舞い上がる紅葉はまるで宿儺様のために舞踊を奉納しているかのようだった。幻想的で、ある種の神気すら感じさせる光景。
 葉の一枚が私の足元に落ちてきた。そこでようやく我に返った私は建物の陰に身を隠し、早鐘を打つ心臓が落ち着くのを待った。厠へは屋敷を大きく迂回して行ったが、その道中も半ば夢見心地だった。

 決して目にしてはいけない主について、使用人たちの間で噂が持ち上がることもある。人心を狂わせる魔性の美貌の持ち主だからとか、逆に目も当てられない醜悪な顔をしているからとか、そもそも人の形をしていないのだとか。秘されたものはそれだけ興味を引き、詮ない想像を掻き立てるらしい。
 実際、この屋敷からは時折使用人がいなくなる。なにがあったのか、どうなったのか、という知らせは一切ないが、恐らくは好奇心に負けて禁忌を破り追放されたのだろう。

 ◆

「こちらへ来い」

 夕餉の支度に使った調理器具などを片付けている私のもとへ、裏梅様からお呼びがかかった。使用人の中でも堅物で通っている私が一体なにをやらかしたのか、という好奇の目線を背中で感じながら、裏梅様のあとについていく。

 衝立と障子で仕切られた小部屋に連れて来られると、そこには一目で上等なものだとわかる着物が用意されていた。
 裏梅様が私に鋭く目配せする。

「着替えろ。私は裏で待つ。終わったら呼べ」
「あの、これは……?」
「私を待たせることは宿儺様を待たせることと同じだと思え。わかったら余計な手間を掛けさせるな」

 有無を言わさぬ様子だ。無駄口を叩けばこのまま裸にひん剥かれかねない。さすがにそれは勘弁してもらいたい。私がこくこくと頷くと、裏梅様は満足そうに衝立の向こうへ姿を消した。
 いつもの服装よりも格段に肌触りの良い小袖を身に付け、初めての袴を履いた。鮮やかな単に袖を通し、小袿を重ねる。着物には香が焚きしめてあった。くらりとする官能的な匂いがどんな香によるものなのか、貴族のお世話はしていても貴族文化に疎い私にはわからない。

「終わりました」
「次は髪だ。そこへ座れ」

 小部屋に入ってきた裏梅様が私の後ろに立ち、結わえていた髪を解いて、櫛を通していく。梳けば梳くほど髪に艶が出てくるようだ。

 こうしていると貴族の姫様になったようだな、と思う。もう少し早く生まれていれば私もこのような格好をして裁縫や詩歌の勉強に励んでいたのだ──と、捨てたはずの憧れが顔を出してきた。
 私は下級貴族の出身だが、幼い時分に家は没落した。一家は離散し、私は付き合いのあった別の貴族の家で使用人として働くことになった。しかし、その家もまた潰れてしまったのだった。今度こそ行く当てもなくなり途方に暮れていたところ、声を掛けてくれたのが裏梅様だ。どんな主なのかも屋敷の所在すらも不明といういかにも怪しい条件でありながら、私がこの屋敷の使用人をしているのは、他に食い繋ぐ道がなかったからだ。ここでなら、禁忌にさえ踏み込まなければ身の安全と十分な食事が保証されている。

 裏梅様が香油で私の髪を整えて、次は顔に粉をはたくのかと思いきや、化粧は軽く紅をさしただけで終わった。なんだかちぐはぐな印象だ。支度はこれで済んだらしい。

「行くぞ」

 促され、裏梅様の後に続いて門廊を歩く。既に日は落ち、裏梅様が持つ灯りだけが頼りだった。進む先は屋敷の中央部──主である宿儺様の居室であるように見受けられる。
 帳の前で裏梅様が立ち止まり、手元の灯りを消した。居室の中で揺れる火がぼんやりと辺りを照らし、巨岩のような影をこちらとあちらの仕切りとなる布に写している。
 この奥に、宿儺様が──私はこくりと喉を上下させていた。

「宿儺様、連れて参りました」
「通せ」
「畏まりました」

 短い一声が、初めて聞いた宿儺様の声だった。地を震わせるような荘厳な声──などと余韻に浸る余裕もなく、裏梅様の鋭い眼差しが早く中へ入れと圧をかけてくる。

「……失礼いたします」

 頭を下げながら布をくぐる。帳の内側に入った途端、くらりと頭が揺れた。香の匂いのせいかとも思ったが、私自身も同じ香りを焚いた着物を着ているのだから違う。宿儺様の纏う重圧めいた気配──それこそ魔性のもののような──のためだろうか。
 私は顔を上げることなく平伏した。まだお姿を目にすることをはっきりと許されたわけではないからだ。

「面を上げろ」
「……はい」

 主の命には従う他ない。ゆっくりと体を起こし、視界を持ち上げていく。
 初めに目に入ったのは胡座を組んで座る脚だ。着物越しにもわかる。やはり、大きい。次いで、筋骨隆々とした広い胸板──腕が、四本。太い首の上、精悍な顔立ちの半分は面のようなものに覆われている。面の奥と、生身の側と、燃えるような瞳が二つずつ──合わせて四つ。
 ほう、と知らず息を漏らしていた。宿儺様の姿形は、明らかに異様ではある。けれども私が感じたものは神気に近い。いつかの秋の晩に庭で目にした光景が頭から離れないためだろうか。宿儺様は大きく、偉大で、神々しい御方──その印象はいざ本人を前にしてますます強まっているのだった。
 宿儺様の口元が歪み、弧を描く。

「どうした? 悲鳴を上げても構わんぞ」
「め……滅相も、ございません」
「俺の機嫌を伺うほどの余裕があるのか。ならばもっと寄れ」

 腰を上げ、言われるがままにそろりそろりと足を進める。
 私がなんのために連れて来られたのか、ある程度察しはついていた。ここには膳も酒もなく、酌をするためである筈がない。あるのは褥だけで、私は女。どうして私なのか──私でいいのか──疑問は尽きないものの、宿儺様が私に触れることのできるくらいの距離まで近付く。
 宿儺様の太い腕がゆっくりと動いた。大きな手が私の顎を掬い上げる。紅い四つの目がじとりと私を見据える。

「オマエに怯えは無いのか? 俺が恐ろしくないとでも?」

 私はきょとんとして宿儺様を見つめ返してしまった。自分の胸にある感情を改めて省みて──恐怖は、やはり違う。畏れ多いとか、私なんかが近付いてしまって良いのかとかは思うけれど、恐ろしいとは感じない。

「よもや、わかっていないと?」

 宿儺様の腕がもう二本伸びてきて、私の体から着物を取り去っていく。一枚、また一枚と、じわりじわり。丹念に香を焚きしめられた上質な着物が、果実の皮を剥くようにして、床に放られていく。

「赦しを請うなら今のうちだぞ」

 宿儺様の口調から、試されているようだ、と感じる。その大きな手で私のことなんていくらでも好きにできるのにあえて問う宿儺様は、対話を望んでいるのだろうか。なにかを言わねばならない。しかし赦しと言われても、すぐには思い浮かばなかった。

「このようなお務めは、初めてで……粗相をしてしまったら、申し訳ございません」

 どうにかそんな発言を捻り出す。と、宿儺様は四つの目を僅かに見開き、歯が剥き出しになるほど唇を吊り上げて笑った。

「ケヒヒヒッ! 珍しい趣向だ、面白い」
「っ、あ……」

 宿儺様が私の小脇に両手を差し入れ、軽々と持ち上げる。まるで大人と子供のような体格差だ。すとんと着地した場所は宿儺様の胡座の上だった。香を焚いた着物はもう脱いだのに、官能的な香りが強まった気がしてくらくらする。

「ならば俺もやり方を変えてやろう。いつまでもつか、保証はせんがな」

 宿儺様の言葉には不穏な響きがあったかもしれない。けれど私はそんなことを考える余裕もないくらい、あっという間に熱に浮かされ、思考を溶かされ、身体の隅々まで蕩けさせられてしまった。

 ◆◆◆

 翌朝、裏梅はにわかに信じがたい光景を目にすることとなった。
 主に身を捧げたはずの女が、五体満足のまま呑気な寝息を立てて寝所に転がっている。帳の内側には血痕も肉片も散乱しておらず、ただ濃厚な色事の残り香が満ちているだけだ。
 どういうわけか──その答えは、普段の朝よりも清々しい主の顔色が物語っていた。

「裏梅、これを休ませておけ。まだ楽しめる」
「承知致しました」

 裸の女の身体に着物を被せて、別の寝所へ連れていく。使用人用の居室ではなく、これまで使われることのなかった予備の帳だ。手入れは欠かさなかったが、まさかこれを使うことになるとは、という思いが裏梅の胸から消えない。

 主は気まぐれに女を食らう。比喩ではなく文字通りの『食う』だ。屋敷の使用人たちはただの働き手ではなく、身体を動かしながらしっかりと食事を与えることにより良質な肉をつけさせ、いずれ主に献上される、いわば贄でもある。時折消える使用人はまさに主の腹の中に消えていたのだ。
 初めて両面宿儺の姿を目にした女は怯え、恐怖に支配される。甘美な悲鳴で耳を、柔らかな肉で身体を、濃厚な血の味で舌を楽しませるのが主の常だった。だが今回は随分と趣向の違う楽しみ方を見出だしたらしい。
 なんの変哲もない女に見えるが──と、裏梅は首を捻る。気まぐれの中の気まぐれだろうか。

「う……あ、れ……私……」

 裏梅が帳の中の調度品を整えていたところ、寝かせていた女がもぞもぞと起き出した。緩慢な動きで辺りを見回したあと、その顔がさあっと青ざめる。

「申し訳ありません、裏梅様。私、寝過ごして……! すぐに朝餉の支度に参、り……!?」

 裸同然の格好で立ち上がりかけた女は、足に力が入らなかったらしく、がくりとその場に膝をついた。当然だ、一晩宿儺様のお相手を務めて無事で済むものか、と裏梅は冷めた瞳で一瞥する。次いで女は、肩から着物を羽織っただけの状態であることに気付いたらしく、慌てて前を合わせて肌を隠した。

「もう炊事場に立たなくて良い。掃除もだ。使用人としての仕事は忘れろ」
「お、お許しください! 私、ここでの仕事がなくなったら行く当てが……!」
「そういうことではない。これからは宿儺様を楽しませることがオマエの仕事だ」
「……え、と……?」
「まずは休み、そして励め。ことによると更なる寵愛を賜れるかもしれないぞ」
「……!」

 女は顔面いっぱいに紅をさしたように赤面した。裏梅は半ば皮肉のつもりで寵愛などと口にしたのだが、その様子を見るに、下手をすると現実にそんなことが起こり得そうな気がしてしまう。
 一体なぜ……と思いながらも裏梅は炊事場へ足を向けた。今朝からは使用人たちの役割分担を変更している。新しい担当が調理した煮物がきちんとできているか気掛かりだ。早めに味見に向かわねばならない。
 屋敷の新しい朝が、始まろうとしている。


20220722
平安時代の建築を勉強したら立派なお屋敷に住んでる宿儺様という夢が爆発しました。
たぶん実際には平安京には住んでなくて術師とかと距離を置けるどこかに根城があったんだと思うけど、いいのこれは、考察じゃなくて私の夢だから謎のトンチキ設定でいいの(自分に言い聞かせる)

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