波の向こうへ



 夜の帳。そして呪術の帳。二重の隔たりによって外界から遮断された海水浴場は、昼間の喧騒が幻であったかのように静まりかえっている。
 ざくざくと砂を踏み分けて歩く足音は二人分。

「海なんていかにも陽の気が集まりそうなのに、呪霊が出るんだね」
「人の多い場所には感情が吹き溜る。表向きがどうであれ、羨望やら疎外やら……痴情のもつれもあるだろうからな」

 私と並んで砂浜を歩く同級生は、既に呪いの王に身体を明け渡していた。ギリギリのところで死刑を回避している虎杖くんがこうして身に宿したものを表に出せるのは、凶悪な呪力を遮断できる帳の中に限られる。そのため私と宿儺が会えるのは専ら任務中だ。

「加えて海そのものへの恐怖か。一歩間違えれば簡単に命を落とす場所をあえて娯楽の場に選んで群がるとは、愚かしいことだな」
「事故とかあるもんね。それに夜の海ってなんだか不気味かも。引き込まれそうで」

 波打ち際まで到達すると湿った砂に足が沈み込みそうになる。その不安定さが、海に引き込まれそう、という感覚を呼び起こしているのだろうか。

「あちらとこちらの境目が曖昧な場所は呪いにとって都合が良い。実際、連れて行かれたものは少なくないだろうな」

 制服のポケットに手を入れたままの宿儺は薄い笑みを浮かべて私の斜め後ろに立っていた。任務に訪れても彼が積極的に呪霊を祓うことはない。彼はあくまで私の仕事を眺めて楽しんでいるという立場だし、私としても二人であたるべき任務に独力で挑むのは良い武者修行になりそうだから不満はなかった。

「そら、来たぞ。あちら側のものが」

 面白がるように宿儺が言うのと、私の足首にぬるりとしたなにかが巻き付くのは同時だった。宿儺の呪力に隠れてしまうため並の呪霊は探知しにくく、そのうえ今回は呪力が海の中に溶けてしまっていたため完全に出遅れた。

「っ! しまっ……!」

 巻き付いた半透明の触手にぐんっと引っ張られ、私は一気に海水の中へ引き摺り込まれてしまった。大丈夫、まだ浅い──どうにかもがいて頭を水面に出し、大きく開けた口から酸素を取り込む。

「頑張れ頑張れ。せっかくの海だぞ。呪霊任せではなく自力で泳いだらどうだ」

 いつの間に移動したのか、宿儺は水面から背びれを出して泳ぐ呪霊の上に悠々と胡座をかいていた。どんどん沖へ進んでいくイルカかサメのような形の呪霊と、足首を掴む触手の主と、最低でも二体。今回の任務も気が抜けなさそうだ。

「見てなさいよ……っ!? がぶがぼぼ!」

 急に深くなると共に下に引っ張られ、口に大量の海水が流れ込む。まずい、酸素がなければ呪力も練れない。この触手をどうにかしないと──
 そこに、キンッと鋭い金属音が響いて途端に足が軽くなる。水面に顔を向ければ水の揺らぎの向こうに嘲笑いっぱいの呆れ顔が見えるようだ。

 宿儺はあくまで私の戦いを面白がって眺めているという体裁でありながら、本当に危ない時には最低限の手助けをしてくれる。こういうところはなんだかんだで甘やかされているなあ、と思う。
 しかし宿儺の手を煩わせてばかりでは早々に見限られてしまう。水面に浮上して体勢を整えた私は、普段以上に気合いを入れて海の呪霊へと相対した。

 ◆◆◆

「うわあ……びっしょびしょ」

 髪も制服も絞れば絞るだけ水が出てくる。海中に引き込まれたのだから当然といえば当然だ。体力の消耗の激しい私は早々に身なりを整えることを放棄した。なにしろ随分と沖の方へ連れて行かれて一戦交えたあと、着衣泳で砂浜まで戻る羽目になったのだ。送迎の車を汚してしまったら申し訳ないが、補助監督さんがバスタオルを用意しておいてくれることを祈ることにする。

 ポタポタ水滴を垂らしながら、私は宿儺の後ろ姿に歩み寄った。彼は私が触手呪霊を倒したあと、イルカのような呪霊を脅して浜まで戻らせたのだ。せめて一緒に連れて行ってくれればいいのに、心底楽しそうに頑張れ頑張れと言い残して先に行ってしまった。

「宿儺……あのイルカみたいな呪霊は?」
「用済みの雑魚の末路なぞ決まっているだろう」

 言うこと聞いたのに、かわいそう。呪霊相手でも思わず同情してしまう。宿儺が任務の対象呪霊を祓うのは初めてだけれど、恐らく本人に手伝ったという認識は無い。乗るのに飽きたとか、案外乗り心地が良くなかったとか、そんなところだ。

「あちら側に引き込まれた感想はどうだ?」
「……戻って来られてよかったデス。疲れたけど」
「ケヒヒッ。奴らはさしずめ、戻れなかったモノの末路かも知れんなあ」

 嘲笑を浮かべて宿儺は海へ視線を向けた。この場所へ着いた時と同じように、寄せては返す波が砂浜を暗く塗りつぶしている。呪霊との戦いが行われたことも関係なく、海は、波は、変わらぬ姿でそこにあった。人の営みには目もくれず自らの在り方を押し通すその超越性こそ、人が抱く畏れの源泉なのかもしれない。

「境界を見誤れば明日は我が身、ということだ。精々気を付けるのだな」

 ふと、宿儺が波打ち際へと足を進めた。ずっと呪霊に乗っていたから私と違って濡れずに済んだのに、遠慮無しに波へ向かっていくものだから足首のあたりまで海水に浸かってしまっている。

 大きすぎるものへの畏怖、という意味では海への畏れも両面宿儺への畏れも似ているのかもしれない。意識を持つ分、宿儺のほうが凶悪だろうか。揺るがないもの同士の衝突により、宿儺の足元へ押し寄せた波は波紋と共に拡散し、砂はいびつに堆積していく。
 人知を越えた存在。隣にいるように見えても、宿儺の本質はヒトを遥かに凌駕したものだ。私は彼の気紛れにより同じ空気を吸うことを許されているに過ぎない。
 ──それでも。

「それともオマエには戻る自信があるか?」

 宿儺が振り返り、笑う。暗闇の中で彼の紅い瞳が妖しく光る。潮騒のざわめきはもしかしたら海からではなく、私の胸の中から聞こえてくるのかもしれない。
 ──それでも私は、彼の傍にいたいのだ。

「私は──戻れなくなるより進めなくなるほうが嫌、かなあ」

 私もまた波打ち際へ踏み出した。溜まった砂の中へ靴を沈ませながら、宿儺の横へ。

「行ってみたら案外良い所だったりするかもしれないし」
「クックッ……不遜なことだ。だがオマエらしい」

 私が背伸びをして顔を寄せようとすると、宿儺は私の腰に手を回して抱き寄せてくる。唇が重なり、触れ合うだけの短いキス。

「塩辛いな」

 からかうように間近で呟いた宿儺は、満足そうに目を細めていた。


20220715

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -