特別に (現パロ)



 土曜日のアラームが鳴るのは九時。一週間の仕事の疲れが溜まった身体はベッドから出ることを拒否しているけれど、気力といくばくかの邪心──ではなく、乙女心を絞り出して布団から抜け出す。
 冷蔵庫から取り出したばかりのキンキンに冷えた炭酸水で強引に目を覚まし、私はのろのろと身支度を始めた。カジュアルすぎずキマりすぎないワンピースに、薄くメイクをして、髪は軽く巻いてからラフにまとめる。気合いが入りすぎた格好は不自然だし、近所だからといってルーズすぎても恥ずかしくて、その塩梅は難しいところだ。
 朝食は食べない。土曜日は近所のパン屋さんで焼きたてのパンを買いブランチにすると決めているのだ。
 三センチヒールのサンダルを履いて、私はアパートの玄関を開けた。

 半年ほど前に開店したパン屋さんは、以前ふらりと立ち寄ってみてからすっかり私の行きつけになっていた。わざわざ休日に目覚ましをセットしてまで、決まった時間に訪れたいのには理由がある。

「いらっしゃいませ」

 お店のドアを開けると真っ先に、レジに立っている白髪の店員さんの涼やかな声が迎えてくれる。線の細い美人だというのにあれで男性だというのだから驚きだ。
 他にお客さんはいない。店員さんの声につられたようにしてこちらへ振り向いたのは、ちょうど売場に焼きたてのバゲットを並べていた、店主の宿儺さんだった。

「おはようございます」

 跳ねる心臓を抑えて自然に笑えているだろうかと内心ドキドキしながら、私は軽く会釈した。この時間にパン屋さんに行くのは焼きたてのバゲットを買うため──というのは建前で、パンが焼き上がる時間ならば普段お店の奥にいる宿儺さんが売場に出ているからだ。常連客として通ううちに会話をする仲になった宿儺さんとのちょっとしたやりとりが、日々の仕事で枯れ果てた私の心を潤す一番のオアシスとなっていた。

「おはようございます。今日もバゲットを?」
「はい、一つください」
「それなら直接レジへ。一番いい焼き色のを取り置きしてあるので」
「わ、私に、ですか……?」

 予約もなにもしてないのに、取り置き? 面食らっていると、宿儺さんがニッと目を細めた。普段あまり表情を変えない宿儺さんからの不意打ちをくらって大きく心臓が跳ねる。
 強面の彼が笑うと妙に悪役めいた迫力があるのだけれど、それすら魅力的に感じてしまう。街中でこんな顔の人を見掛けたら絶対に近寄らないだろうと思うのにときめきを覚えてしまうのは、お店いっぱいに広がっているパンのいい匂いに絆されてしまっているせいだろうか。

「待っていた、ということです」

 宿儺さんに促されてレジへ向かう。正気を保っていられるよう気合いを入れておかないと膝から崩れ落ちそうだ。どうしよう、今日は供給過剰すぎる。心のオアシスのはずが、想定外の雨量により洪水を引き起こしかねないところまできてしまっている。

 クラクラしながらもどうにか正常に会計は済ませた。渡された『ベーカリー・リョウメン』の英字ロゴ入り袋の中には、バゲットの入った長細い紙袋以外にも、ころんとしたパンが二つ入っている。なんだろう、と私は宿儺さんの顔を見上げた。

「こっちの丸いパンは……?」
「季節の新作です。食べてみてください」
「えっ! でもお会計、バゲットの分しか払ってないですよ?」
「これはまだ試作品なので結構です」
「でも……」

 私がまごまごしていると、宿儺さんがふっと軽く息をついてまたあの心臓に悪い笑みを浮かべる。

「また来週感想を聞かせてもらえれば、それが代金ということで」
「……わ、わかりました」

 暗に、また待っている、と言われてしまった。これ以上問答を続けていたら本当に心臓が破裂しかねない。私は頷き、引き下がることに決めた。

「また、来ますね」
「ありがとうございました」

 宿儺さんはお店のドアのところまで見送ってくれた。少し歩いたところで振り返ってもまだ彼の姿が見えて、お互い遠目に会釈を交わす。
 初夏の日差しがジリジリとアスファルトを焼いている。けれど、私の顔が暑いのは夏の太陽の仕業ではないのだった。
 来週は絶対に寝坊できなくなってしまったから、金曜日に早く帰れるように前倒しで仕事をしていかないと。頑張るための活力源は『ベーカリー・リョウメン』の袋の中からいい匂いを漂わせていた。

 ***

 試作品の感想を宿儺さんに伝えるためにいつもの時間にパン屋さんを訪れた週末、私が目にしたのはお店の外にまで行列が続いているという目を疑うような光景だった。

 戸惑いながらも最後尾に並ぶ。列を作っているのはほとんど私と同年代の女性客だ。日除けのないアスファルトに夏の日差しが容赦なく照りつけている中で立ち止まっているものだから頭のてっぺんが焼け焦げそう。
 この行列は一体どういうことだろう。並んでいる間にスマホで『ベーカリー・リョウメン』と検索してみたところ、数日前にお店がテレビで紹介されたことを知った。なんとか本舗、という二人組のお笑い芸人がここのパンを食べに来たようだ。そのテレビを見た人や芸人のファンが行列を作っている──というのが、今ここで起きている事態らしい。

 私がやっとお店のドアの前まで辿り着いた時には、焼きたてパンの時間はとっくに過ぎてしまっていた。今日は宿儺さんには会えないかな、と落胆しながら店内を覗くと、彼が白髪の店員さんと並んでレジに立ち女性客の応対をしているのが見える。
 チクンと胸が痛む。会えないだろうと思った宿儺さんの顔を見ることができたのに、どうして?

「ねえ見て、イケメンじゃない?」
「声掛けてみてもいいかな?」

 私の前に並んでいる二人連れの女性客が話す声が耳に入ってきた。やめてよ、私は何度も通ってようやく宿儺さんとお喋りできるようになったのに、なんでいきなり──モヤモヤした黒いものが胸の中に広がっていく。

 なんだか、今は、駄目だ。こんな気持ちで宿儺さんに会うのは、良くない。
 私は列を抜け、お店のドアを横切って足早に立ち去った。

 少し歩けば、額に浮かぶ汗とは反対に心はクールダウンしていった。お店が繁盛しているのは喜ばしいことなのに、私ったら……。この虚無感は、応援しているインディーズバンドがメジャーデビューすることに決まった時の、なんともいえない寂しさに似ている。自分だけが知っているつもりでいたものが、世間に見付かってしまったかのような。初めから、なにも私のものではなかったのに、ひとりよがりの独占欲を勝手に抱いてしまっていたのだ。
 明日また改めてお店に行こう。ただの一人のお客さんとして。きっとゆっくりとは話せないから、試作のパンの感想は手紙に書いて渡そうか。それなら便箋を買って帰って──その前にどこかのカフェで軽食を──

「待て!」

 頭の中で描いていた、いつもと違う土曜日の過ごし方が、背後からの一声でガラガラと崩れていく。

「す、くな、さん……?」
「はぁっ……ドアの前まで来て帰る奴があるか」

 振り返れば、肩で息をする宿儺さんがいた。強く寄せられた眉間を汗の滴が流れ落ちる。この夏日の中、私を追い掛けて長袖の調理服で走ってくるなんて──驚くと同時にまたも胸が痛んだ。さっきお店の前で感じた刺されるような痛みとは違う。きゅうきゅうと締め付けられるような感覚だった。

「混んでたので、今日はやめとこうかと……」
「待っていると伝えておいたはずだったのだが」
「お忙しそうだったし……」
「チッ……早く列を捌こうとしたのが裏目に……そもそも取材なんぞを許可したのが誤りだったか……」

 凶悪な目付きで街路樹の根本を睨み付けながら、宿儺さんは独り言のような調子で口にした。顔付きも口調も普段見る彼とは全く違う。それこそ絶対にお近づきになりたくないような人相なのに、妙な可笑しさがこみ上げてきて、思わず私は肩を震わせていた。

「ふふっ。宿儺さん、素が出るとそういう話し方になるんですね」

 一瞬、はっとした宿儺さんは、顔の下半分を片手で覆ってばつが悪そうに目を伏せた。

「──失礼しました」
「いえ全然、気にしてないですし、むしろラッキーというか」
「……?」
「普通に喋ってくれませんか? そのほうがなんというか、似合ってると思ったので」

 宿儺さんが訝しげな顔をする。なにを言っているんだ、と思われていそうだ。実際、こんな提案は自分でもどうかと思う。けれど彼の素の一面を垣間見たことは、そんなおかしなことを口走ってしまうほど私を舞い上がらせてしまったのだ。私しか知らない宿儺さんがいるようで、しぼませたはずの独占欲が再びむくむくと膨らんでくる。
 少し置いて、宿儺さんは顔を覆う手を外し口角を上げた。いたずらっぽくてどこか挑発的な、とてもパン屋さんの顔には見えない笑みだった。

「──なら、そうしよう。実際、接客は柄ではなくてな」

 言って彼は袋を差し出してくる。細長い紙袋に収められたバゲットの入った、いつも私が土曜日に持って帰るものと同じだ。

「今日も買いに来たんだろう? 俺の店まで来たというのに手ぶらで帰すわけにはいかん」
「わざわざ、届けに……? あんなに忙しそうだったのに……」
「俺のスタッフは優秀だ。涼しい顔で列を捌いている。それに、流行かぶれの一見客より以前からの常連を重んじるのは当然だ」

 半ば押し付けるようにしてバゲットを渡される。いつもよりも袋が重いような気がした。パンと一緒に特別な気持ちも受け取っていると、自惚れても良いのだろうか。

「ありがとうございます。えっと、お会計を……」

 毎週買っているから税込みの金額もバッチリ覚えている。しかし、私が財布を取り出そうとするのを宿儺さんが制止した。

「今日はいい。不快な思いをさせた迷惑料だ」
「そんな、先週もタダでパンをもらっちゃったばっかりで」
「あれは試作品だと言っただろう。どうだった?」
「も、もちろんおいしかったです! トマトとオリーブのはいい香りだし、ちょっとしょっぱくてワインとかに合いそうで……レモンのクリームのは甘酸っぱくて、夏だなあって感じで……!」

 用意してきた感想を一息に告げると、宿儺さんは満足そうに表情を和らげた。

「そうか。なら、来週から店頭に出すことにしよう」
「ぜひそうしてください。私もまた買いたいです」
「ああ。今日に懲りずまた来てくれ」

 来週こそはどんな長い行列に揉まれようと逃げ出さない。私はあの列を作っていた女の子たちとは違う、特別なお客さんなんだという自尊心が、足元をしっかりと固めてくれている。
 それじゃあ、と別れかけた時、宿儺さんが忘れ物をしたように振り向いて横目に私を流し見た。

「オマエも気軽に話せ。俺だけというのは不公平だろう」
「……! はい……じゃなくて、う、うん」
「ふっ。自分から言い出したのだろうに、ぎこちないな。ちゃんと慣れるのか?」
「がんばりま……ええと、がんばる、ね……?」
「クックッ……! 来週どうなっているのか楽しみだ」

 素の宿儺さんはワルっぽくてちょっとイジワルで、私の心を巧みに掴んで離さない。そんな彼の一面は、誰にも知られないうちにパンに挟んで食べてしまいたい。今日のブランチは焼きたてバゲットで作るサンドイッチに決めた。心が躍るままに奮発して生ハムやスモークサーモンも買って帰ろう。ちょっとしたパーティーだ。


20220701
現パロ職業モノの宿儺様はお客さんに対してはちゃんと敬語で喋れるくらいちゃんとした大人でいてほしいんだけど、書いてると「コレ誰?」感との戦いになってしまう笑

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -