飛んで火にいる夏の虫



 キンッ

 あまりにも軽い金属音のあと、真っ赤な鮮血の花が狂い咲いた。

 どさりと重いものが地に倒れ伏すような音よりも早く、私は額を地面に擦り付けた。心臓の音がいやに大きく早く鳴り響く。

 一瞬、御簾の裏に見えた大きな人影。あれは良くないモノだ。恐ろしいモノだ。直感が警鐘を鳴らす。アレは私の命など、虫を潰すように容易に奪ってしまえる存在だ、と。

「頭が高いな」

 キキンッ

 また軽やかな音が鳴る。丸めた私の背中に生暖かい飛沫が散る。それがなにかなんて考えたくもない。

 ***

 ある日の畑仕事の最中だった。私は突然何者かに捕らえられて気を失い、気付けば大層立派なお屋敷の庭に転がされていた。周囲には同じ境遇らしい男女が十人ほどいて、いずれも私と同じくらいの年齢に見える。子供や老人はいない。なにかの労働力……として連れて来られたのだろうか。

 捕まったにしては縛られたり、足枷を嵌められたりはしていない。庭を囲う外壁に出口はなく、乗り越えるには高さがありすぎる。この得体の知れない庭から脱出するには屋敷の中を通り抜けていくしかない──と何人かの男たちが相談して、そのうちの一人が御簾をくぐって建物の中に入ろうとした時のことだった。

 巨大な人影が現れると同時、その男の首が飛んだ。

 私をはじめ数人が、恐れ畏怖するあまり平身低頭の姿勢を取った。それに間に合わなかった数人の首がまた、飛んだ。

「ヒッ……ヒィィ……お、お助けを……!!」
「喧しいぞ。耳障りだ」

 キンッ、とまた甲高い音が鳴った。なにが起きたかなんて見なくてもわかる。うるさいという、ただそれだけの理由でまた一人死んだ。

 ざり、ざり。大きなものが地面を歩く、重い足音が規則的に響く。段々と近付くそれが私の前を通り過ぎていく間、恐怖のあまり呼吸を止めていた。身動きも、声を出すことも、呼吸すらも、あの大きなモノの許可なしにしてはならない。生存本能が直感的にそう告げていた。

「う……うわあああああ……あ」
「蠅のようにたかるな。うっとうしい」

 キンッ。恐怖に錯乱したのか、それともあの大きなモノを倒して生き延びようとしたのか。男の雄たけびは途中で途切れた。

「貴様。顔を上げてみろ」

 横手で、低く、傲岸という言葉がそのまま音になったかのような声が言う。

「ふん。肉付きはそう悪くない、か」
「お……お願いします……なんでもします……命だけは……」
「声を発していいとは言っていない」

 命乞いをした女が死んだ。

「貴様は……駄目だな。無駄な脂肪が多すぎる」

 また一人。

「ほう、なんだ。言いたいことがあるような目だな。言ってみろ」
「……お前のような怪物なんて、兄様に……呪術師に、殺されてしま、」
「その名を俺の耳に入れるな。不愉快だ」

 また一人。

 ……あと、何人残っている?
 内心の問いへの答えは、私の頭の先で立ち止まったあの恐ろしいモノの声がもたらした。

「貴様だけになってしまったなぁ? 静かに待てができるのは美点と言ってもいい」

 声が降ってくる距離が近くなる。巨体が身をかがめたらしい。

「顔を上げろ」

 ドッ、ドッ、ドッ、と心臓がこの上なくうるさく早鐘を打つ。この音がうるさいからと殺されやしないかと怯えながら、私は半ばほどまで顔を上げた。
 どこまで見上げて良いのかわからず、かがんでいる男の脚や腹のあたりで視線を彷徨わせる。腹の筋肉の上に真一文字に走った割れ目から覗く、ぬるりと赤いもの……あれは、口と舌、だろうか。

「オマエは地面が好きなのか? 顔を見せろ」

 嘲るような声がしたかと思えば頭を鷲掴みにされ、ぐいと無理矢理に上を向かされる。
 視界に飛び込んできたのは、その異様な巨躯だ。墨のような文様の走る筋骨隆々とした体躯に、太く逞しい腕が四本。顔の片側を覆う面のようなものから覗く異形の目が二つと、生身の顔にも目が二つ、計四つの目が嗜虐的な眼差しで私を見下ろしている。

「ケヒヒッ、良い怯えだ。俺が恐ろしくて堪らない。しかし命を投げ出してはいない。貪欲に生き延びようとしている目だな」

 悪辣な笑みの形に歪んだ男の口から、独り言らしき声が発せられる。
 すると私の頭を掴んでいるのとは別の手が伸ばされた。感触を確かめるようにして私の頬を掴み、そして首から肩、胸、腹と降りていく。男の大きな手で無遠慮に身体をなぞられることが恐ろしくて堪らなかったが、私に許されたのは顔を上げることのみだ。震えることも、声を発することも許されていない私は、生き延びるために、その手の感触をただただ耐えた。

「柔らかい肉だな。それなりに愉しめそうだ。形もそう悪くない。なにより、身の程をよく弁えている」

 男の手が退いていく。どうやら私は耐え凌ぐことができた、らしい。

「小娘。オマエを飼ってやろう。……なにか言って構わんぞ」
「……ありがたき、幸せでございます」
「ケヒヒッ。思ってもみないことを……だが、そうだな。心底そう思えるよう飼い慣らしてやろうか。なぁ?」

 男の声が急に艶めいて、ゾクリと背筋が粟立った。生命の危機に怯えていた今までとは種類の異なる震えだ。

 男が立ち上がる。来い、と屋敷に歩みを進める大きな背中に、置いていかれないようにと慌てて後を追う。なにが彼の気に障るのかわからない。気に入らなければ即座に首を切り落とす男の気まぐれで生き永らえているだけの、薄氷の上の命だ。……血の池に染まった庭に倒れ伏す、名も知らぬ彼らの末路に思いを馳せているような時間は、無かった。

 男に続いて御簾をくぐり、屋敷の中へ足を踏み入れる。嗅いだことのない、頭の奥がじんと痺れるような香の匂いが鼻腔をくすぐった。魔性の香りだろうか、と思いながら前を歩く巨躯を見上げる。
 今この時から、私はこの恐ろしい魔性のモノに、すべてを支配されるのだ。


20210801
見下ろされたいし飼われたい、物騒な宿儺様が好き、という初心に帰ってみました。

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