怖いもの見たさ



 シャー、シャー、チリン。

 武士のお客から預かった刀を研いでいるところに、私がやっている金物研ぎ屋ののれんが揺れたことを示す鈴の音が涼やかに響いた。作業の手を一旦止め、夏の暑さによって額に浮かんでいた汗の珠を拭って振り向けば、赤みがかった白髪の常連客が作業場のすぐ手前に立っている。

「裏梅さん、こんにちは。今日もいつもので?」
「はい。お願いします」

 腰の高さほどの台の上で裏梅さんが手にていた風呂敷包みを開く。出てきたのは三本の包丁だった。
 僧衣姿なのにどこかのお屋敷で炊事の仕事をしているのだという不思議なこの常連さんは、たびたびこうして包丁研ぎを依頼しにやってくる。他にも料理人のお客さんは来るけれど、裏梅さんほどこまめに包丁の手入れをしにくる人はいない。

「これは随分傷んでますね。刃こぼれがすごい……」

 包丁のうち一本を手に取り、裏表に返しながら刃の具合を見分する。ここまでひどいといくら研いでも……と思ったのが顔に出てしまっただろうか。肩で切り揃えられた白髪が揺れた。

「直りませんか?」
「そうですね……やってみてもいいんですけど、たぶん満足いただける仕上がりにはならないと思います」
「なら、結構です。今回はこちらの二本を」

 裏梅さんがひどい刃こぼれの包丁を風呂敷に包み直す。手際のいいその手付きを、私はぼんやりと見つめてしまっていた。

「……なにか?」
「あ、いえ……一体なにを切ったらあんなふうになるのかなあって」

 私は金物を研ぐけれど、料理には詳しいわけではない。他の料理人のお客が持ち込む包丁があんなふうになっているのを見たことがないので、不思議に思ってしまった。

 ──気にしなければ、よかったのに。

「なにか大きな獣でも……熊とか? 解体したんですか?」

 ほんの好奇心から発してしまった問いだった。それに、裏梅さんの眼が妖しく細められたことに私は気付かなかった。

「気になりますか?」
「ええ、まあ……自分の研いだ包丁があそこまで負けるっていうのが、どういう使い方なのか想像つかなくて」
「貴女の言う通り獣ですよ。とても大きな。使い方も教えましょう」

 裏梅さんのしなやかな指がすっと伸ばされる。私の首元に。台を挟んで立っているのだから触れられるはずがないのに、まるで冷たい指先で肌を撫でられたような感覚がしてゾクリと肌が粟立った。

「まず血抜きのために首の太い血管を切る」
「……っ、……」

 金縛りにあったみたいに身体が動かない。裏梅さんの整った容貌の……整っているからこその凄みのようなものにあてられてしまったかのように。

「開いて、中身を取り出す。破かないように一つずつ、慎重に」

 裏梅さんの指が垂直にすとん、と落とされる。その軌跡に追従するかのように冷たいものが背骨を駆けていく。

 心臓はドクドクと大きく跳ねているのに、それに反して身体はどんどん冷たくなってくる。まるで裏梅さんの指から冷気が発せられて、それに全身を絡め取られてしまったかのような──

「それが済んだら切り分ける。あまり勢いよく刃を入れると骨に当たって欠けてしまう。貴女が知りたがっていたのは、この工程だ。他に疑問は?」
「……あ……それ、は……」

 水を向けてもらったおかげで喉を覆っていた氷が解けたように声を出せるようになる。

 訊いてもいいのか。聞いたらもう後戻りできないのではないか──逡巡しているところに、妖気を孕んだ眼差しで射竦められて、私は言葉をせき止めておくことができなかった。

「本当に……獣、の、話……なんですよね?」
「──ふふ」

 薄い唇が艶やかに弧を描く。

「勿論。やたらと数が多く、群れたがる、愚かな獣の話です。──よろしければ今度、これを捌くところへ招待しましょうか」

 ゾッ、と悪寒が頭のてっぺんから足先まで駆け抜けた。

 これは──これには頷いてはいけない。戻れなくなる。なぜなのかとか、どこからなのかとか、なにもわからぬまま。ただ、これはだめだと頭の中で警鐘が鳴り響く。

「え、遠慮しておきます。私は、金物研ぎ屋、なので。獣の解体は、専門外ですから」
「そうですか。それは残念だ」

 涼やかに告げた裏梅さんが一歩下がる。それだけで私の身体を包囲していた冷気がすっと消え去り、夏の空気が戻ってくるようだった。じっとりと肌にまとわりつくような蒸し暑さには辟易していたというのに、なぜか安心してしまう。

「貴女は職人としての胆力もあり、刃物の扱いにも長けている。こちら側に来ればさぞ才覚を活かせることだろうに、惜しいことだ。では、今の話は内密に──ここだけの話、としておきなさい」

 薄い微笑を浮かべた裏梅さんが唇に人差し指を添えて、しーっと静かに息を漏らす。幼子に言い聞かせるような仕草とは裏腹の妖艶さにクラリとする。

 その色香は恐ろしく危険なものだ。誘われるがまま、立ち入ってはならない領域に踏み込んだが最後、もう戻ってこれない。きっとあの人にはもう会わない方がいい。……だというのに、私は依頼された二本の包丁を入念に研いで、裏梅さんが引き取りに来るのを待とうとしている。虚構だとわかっている絵巻だって怖くて見られないのに、自分がこんな、危険なものに惹かれてしまうタチだなんて思いもしなかった。



20210801
暑いので裏梅さんにひんやりゾワゾワ冷やしてもらいたかった話です。

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