両面宿儺はやると言ったことは本当にやる人間だった。

「だしの取り方も知らんのか。昆布は煮立てるな。沸騰する直前に取り出せ」
「ほうれん草の水気はよく絞れ。待て、その前に醤油はかけたのだろうな」
「面倒くさがるな。灰汁を取れ。馬鹿者、それはただの泡だ」

 半ば無理やりキッチンに立たされたかと思えば料理のスパルタ式特訓が始まった。
 褒めて伸ばす的なやり方が期待できないのは重々承知だが、教えるならせめてこう、やる気を引き出すようにやってくれないものか。もとから無いモチベーションがゼロを突破して負の数まで突き進んでいく。

 私はまな板の上の鶏肉にフラストレーションをぶつけるべく包丁を握るのだが。

「んん……切れない……」

 ここでもまた新たなストレス。柔らかい肉にうまく刃が通っていかない。
 悪戦苦闘していると、後ろで見ていた宿儺が大袈裟にため息をついた。

「包丁の扱いがまるでなっていない」
「なによう……」

 口を尖らせたその時だった。
 後ろから宿儺の手がすっと伸びてきて、流れるように自然な動きで、包丁を握る私の手を包むように重ねられた。

「ちょ……」

 身動ぎする暇もなく、左手もまた宿儺に掴まえられる。
 背後から抱え込まれるような体勢で、私の背中と宿儺の胸板がくっついていて。
 ちょっと待って、これは──

「力任せに刃を押し付けても無駄だ。それだから、魚の頭から包丁が抜けなくなるような羽目にもなる。引いて押す、を繰り返して切るのが正しい」

 よくもまあ、そんなくだらないことを覚えているものだ──などと軽口を叩く余裕がない。

 身長差のせいでちょうど耳元から宿儺の声が聞こえてくる。
 それがどうしようもなく気恥ずかしく思えて、自分でもわけがわからないうちに、鼓動の音がどんどん早く、大きくなっていく。

「なにを呆けている。指を切り落とすぞ」
「あ、う、うん……」

 なんとか雑念を払い落とすように努力しつつ、宿儺にリードされるのに従って包丁を動かし、肉を切っていく。さっきよりは格段にスムーズに刃が通るようになった。しかしまだ不合格であるらしい。

「力を入れる機が逆だ。野菜はそれでいいが、肉や魚は刃を引く時に切る」
「えっと、こう……?」
「良いだろう。あとは自力でやれ」
「あ……」

 離れていく温度を名残惜しく感じてしまう。
 駄目だ、今日の私はおかしい。感情が混線して整理がつかないうちに、また新たな情報の波が押し寄せ、溺れそうになっている。
 ──兄さんがあんなこと言うから、変に意識してしまうんだ。
 鶏肉を切り分けながら、私は昼間の兄との会話を思い出していた。


***


「スマホ見せてよ」

 報告書作成の手伝いで高専を訪れた私は、完成した書類を兄に渡したらすぐ帰ろうと思っていた。それを呼び止めて兄が口にしたのがその命令だった。

「どうかしたの?」
「いやーちょっと気になってね」

 別段見られて困ることもないので、私は素直に画面ロックを解除したスマホを明け渡した。兄の長い指がタップしたのはメッセージアプリのアイコンだった。

「やっぱり。悠仁……という宿儺か。おまえのとこ行き過ぎじゃない?」

 虎杖くんとのメッセージログを表示した画面をひらひらと振ってみせる兄。

「そんなの向こうに言ってよ。宿儺が来たい時に来るだけなんだから」
「でもおまえも、それが嫌じゃないんでしょ?」
「……」
「困ってたらおまえか、少なくとも悠仁が相談に来るだろうからね。こんな事態になってるのに気を揉んでるのは悠仁の同級生だけだったわけだ」
「もとはといえば、兄さんがうちに来させたんじゃないの……」
「だってまさかこんなに通いつめるようになるとは思わないでしょー」

 言いながら、兄はなにやらスマホをいじり続けている。なにかおかしなことをしていなければいいのだけれど。

「家でなにしてんの? 宿儺は」
「……ごはん作ってる」
「はあ?」

 すっとんきょうな声を上げる兄。気持ちはわかる。私だって同じ立場なら同様の反応を返すだろう。

「よくわかんないけど、随分気に入られてはいるみたいだ」
「そう……かな」
「じゃなきゃ飯作りに行かないでしょ。なに? 尽くすタイプの彼女かなんかなわけ?」

 気に入られているのは、最後には殺す対象としてだけど。心の中で補足する。

「そんなんだったらもういっそ、籠絡しちゃえば?」
「ろっ……!?」
「おまえも、女だってこと武器にできる年頃でしょうが。両面宿儺を懐柔できたとなれば大手柄だ。呪術界にとっての脅威度は随分低くなる」

 それが、大事な生徒の命を守るため、であることは明らかだ。
 やっぱり私はこの人にとっては、どんな用途にも使える便利な付属品に過ぎないらしい。今更、そのことに落胆はなかった。そのレッテルを私自身も受け入れていたのだから。

 ──でもね兄さん、あなたにとっては厄介者の宿儺は、あなたが捨てた妹の命に価値をくれるんだよ。
 宿儺の満足のために殺されるのは、五条悟の妹でもなんでもない、ただの私。それが今の私にとって居心地の良い場所になっている。
 籠絡されているのはむしろ、私の方だ。

「ま、差し迫った危険がないならとりあえずいいか。うまくやりなよ。あとはい、スマホ」
「うん……って、なにこれ」
「ふっふーん。僕を差し置いてなんか面白そうなことになってる我が妹へのささやかなイタズラさ」

 メッセージアプリの連絡先すべての名前が『五条悟』に置き換わっている。なんという地味な、しかし確かな効力のある嫌がらせか。直近でやり取りをしている相手ならアイコンやメッセージ内容で誰かわかるものの、登録しただけになっている相手などは完全にどちらさま?状態だ。

「兄さん……そんなにごはんが羨ましかったの?」
「やめてくれよ、気持ち悪い。女の子ならともかくヤローの手料理なんかごめんだね」

 問題なのは性別だけなのか、という疑問はこの際置いておこう。
 兄の元を立ち去って廊下に出ると、ちょうどスマホの通知音が短く鳴った。『五条悟』からのいつものメッセージだった。

『今日も行って大丈夫?』
『いいよ。ちょうど高専来てるから、校内にいるなら車乗ってく?』

 勢いよくおじきをしているスタンプが届いたのを見てスマホを閉じ、私は駐車場に足を向けたのだった。


***


 見よう見まねでこしらえた食事を「まあ及第点か」という評価とともに食べ、洗い物も終え、本来なら一日で最もリラックスできる時間。
 私はソファの隅に身を寄せ固くなっていた。原因は宿儺だ。いつもならラグマットの上かベッドでくつろいでいるはずの彼が、今日に限ってはなぜかソファにどかりと腰を下ろしてつまらなそうにテレビを睥睨している。

 画面に映っているのは毎週見るのが習慣になっていたドラマの最終回で、ヒロインが彼女に想いを寄せる二人の男性との関係にどう決着をつけるのかという山場を迎えている……のだが、隣の存在感が気になってほとんど内容が頭に入ってこない。気を紛らわすため、ひたすらかりんとうを口に運び続けてしまう。サクサクサク。

「おい」
「……なにか」
「食ってばかりだな。オマエはどういう胃袋をしている」
「燃費が悪い体質なもので。宿儺も食べる?」

 どうにか平静を装い、かりんとうを一本つまんで差し出してみる。が、宿儺はあからさまに顔を歪めた。なんだか既視感を覚える目付きだった。

「いらぬ。甘すぎる菓子は好かん」

 しっしっ、と手で追いやられてしまったかりんとうは仕方なく私の口へ。
 ふざけるな殺すぞ、という対応から比べれば随分軟化したものだと、ふと思う。
 私たちの関係は殺し殺されるところから始まり、最後にはそこへ戻ることが決まっている。テレビドラマは先がわからないから面白いのに、自分の人生の脚本についてはむしろ結末が決まってからのほうが充実していた。

 ちらり、と文様が彩る横顔に視線を送る。昼間聞いた、兄の言葉が脳裏によぎった。
 どうして宿儺は私のもとに何度も来るのだろう。暇つぶしとは言っていたけれど、それにしては頻度が高すぎる気は、しなくもない。うちですることといえば料理くらいだし──

「宿儺って、前から料理好きだったの?」
「なんだ、その問いは」
「違うの? だって上手いし、詳しいし、いつもごはん作ってくれるし。趣味なのかなって」
「特段好みはせん。ものを食う過程としてやっていただけだ」
「食べるのが、好き?」
「……」

 返答はない。沈黙は肯定と見なす。宿儺と会話する上でのコツはだいぶ掴めてきていると思う。

「生きてた頃も誰かに作ってあげたりしてた?」
「ハッ。馬鹿馬鹿しい」

 宿儺は眉を歪め、犬歯を剥き出しにして凶悪な笑みを浮かべる。

「人をも食らう鬼神と畏れる両面宿儺と、共に食卓を囲もうなどという人間がどこの世にいるものか」

 食べるのか。人も。
 唐突な新情報への驚きは、まあこの人ならやってもおかしくないかという納得で相殺して、私は顔の高さで小さく手を上げた。

「とりあえず、一人、ここの世に」
「……下らん」

 苦虫をみ潰したような顔。
 この話題はもう打ち切ったほうがいいことは明白だ。しかし、自分の口から言葉が滑り落ちるのを、私は止めることができなかった。
 なにか──もう少しで、触れられそうな気がしたのだ。時折彼が見せる、彼自身に対する皮肉のようなもの。その正体に。
 不遜にも私は、宿儺を一人のひととして理解したかったのかもしれない。

「もしかしてあなたも、誰かと一緒にごはん食べたかったの?」

 瞬間。
 キンッ、と甲高い金属音が私の首元で高らかに鳴り響く。

「二度とそのような戯言を口にするな」

 暴力的なまでの憤怒がこちらを睥睨している。開ききった瞳孔の中に、ほんの僅かな情けが残されていなければ、閃いていたのは術式ではなく爪だった。呪力に依らない純粋な暴力に襲われていれば、私は身を守れずに死んでいた。
 殺されるのが怖いとは思わない。けれど今、私の命には宿儺を楽しませるという価値がある。彼が望む通りの絶望に沈み、彼の満足げな笑みを見届けながら私は死ぬのだ。怒りに塗り潰された顔で殺されるのは、嫌だった。

「……ごめん。お皿、片付けてくるね」

 ソファから離脱する。応じる声は無かった。



20210327

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