部屋の電気を消し、ソファに寝転んで毛布をかぶる。おせじにも良いとは言えないこの寝心地にもだいぶ慣れたものだ。
 寝るときは宿儺がベッドを、私がソファを使うのが通例となっていた。取り決めを交わしたわけではなく、彼が勝手にベッドを占領するので、私にはソファしか行き場所がなくなってしまっただけのことなのだが。明日の朝食代と思えば安いものだ。

 私はちらりとベッドの上に視線を向ける。カーテンの隙間から僅かに街灯の明かりが漏れてくるだけの室内では、暗がりにまぎれてしまってよく見えないが、宿儺は風呂上りに私が用意した濃紺の浴衣を着てくれたのだった。
 たったそれだけのことなのに認めてもらえたような気がして、胸が躍る。
 毛布を抱き込むようにして背を丸めて、私は瞼を閉じた。


***


 私は五条の屋敷の玄関先に立っていた。同時に、これが夢だと認識していた。
 なにしろ十にも満たない年頃に身体が縮んでいたのだから間違いない。これは過去の記憶を遡る夢だ。

 屋敷にはぞろぞろとたくさんの来訪者が姿を現している。親戚の集まり、と言うと穏やかに聞こえるが、呪術界の名門“御三家”の一つ五条家の会合である。利権や派閥を巡る権謀術数渦巻く空気は、居心地のいいものではない。

 いい年をした大人たちが二人の子供にぺこぺこと頭を下げる。五条家の兄妹に。
 サングラスの下から抜身の刃のような目付きでそれを睨み据えるのが、今春から呪術高専に入学した兄、五条悟だ。まだ学生だというのに、自らが呪術界の要であるという自負を備えた、傑物の貫禄。
 何の力も無い私もまた親戚中から腫れ物のように扱われるのは、私が五条悟の妹だからだ。凡庸な術式に、奇妙な体質。御三家の子供としては出来損ないだ。厄介者として冷遇されてもおかしくないのに、兄のおまけだからというだけで、こうして表舞台に立たされている。

「やあ、あんなすごい兄妹がいると大変だろう? まだ小さいのに頑張ってるねえ」

 人の入りが落ち着いてきて、兄が屋敷の中に呼び戻された頃合いだった。優しげな声が頭上から降ってきたのは。
 まだ二十歳にも満たないくらいだっただろう。けれど当時の私には、兄よりも年上で、兄よりも優しそうというだけで、大層魅力的で頼りがいのあるお兄さんに見えたのだった。

 お兄さんは分家の端っこにかろうじて引っかかる程度の遠い親戚だった。

「僕も呪術師として大した力があるわけじゃないから、なんだか肩身が狭くてね。きみも似たような状況に見えて、つい声をかけちゃった」

 優しい大人のお兄さんが手を差し伸べてくれた。それだけで幼い子供は舞い上がった。
 それからというもの、会合の日が待ち遠しくなった。またお兄さんに会ってお喋りができるからだ。

 幾度目かの会合の時。

「こっちにおいで。いいものを見せてあげる」

 そう言って自分の車へ私を連れて行ったお兄さんは、車内で私を気絶させ、連れ去った。
 誘拐。気付けば私は、縄で手足を拘束され、口も塞がれて、地面に転がされていた。波の音と潮の香りがする、見覚えのない岩場だった。

「知ってるかい? 五条悟にはね、膨大な懸賞金がかけられてるんだ。君は彼を仕留めるための人質だよ」

 お兄さんはまるで別人のような冷たい笑みを浮かべていた。

「僕はこのまま呪術師としてやっていても三流のままだ。だったら五条悟を討ち取った呪詛師として、富も名声も手に入れてやろうと思ってね」

 初めから人質にするつもりで私に近付いたのか。
 それとも途中で心変わりがあったのか。
 わからない。どっちでもいい。……どうでもいい。
 私には涙を流すことしかできなかった。

「めんどくせーことやってんじゃねえよ」

 私がすっかり憔悴した頃、兄が姿を現した。
 助けに、来てくれた──?

「言った通り一人で来たようだね、五条悟。妹を返してほしければ動くなよ。術式も使うな。妙な動きをすればすぐ──」
「なぁんにもわかってねえな、マヌケ」

 兄が腕を伸ばす。長い指が印を切る。

「そいつに人質としての価値はねえよ」

 パリン、となにかが割れる音が胸の中から聞こえた。
 私の価値は──私の命は、術式の巻き添えに消し潰しても構わないような──その程度のもの、だったのか──

 兄の呪力が解き放たれ、術式が空間を歪ませる。無限の収束。虚数の渦が口を開いて憐れな二つの命を飲み込みかけた、その時。

「領域展開──『伏魔御厨子』」

 地獄の光景が世界を上書きした。
 私が転がされている地面は血の色の池に。岩場は獣の頭蓋の山に。邪悪を塗り固めたような社が、曇天を裂いてそびえ立つ。

 ──キンッ。

 横一直線。空間に亀裂が走る。次の瞬間、すべてが見事なまでにズレていた。岩場の景色も、兄が切った印も、お兄さんの頭も、収束する無限の歪まで。
 そのまま時間が静止したかのように、世界は固まる。

「くだらぬ呪いだ。見るに堪えん」

 地獄の社を背に宿儺が立っている。見たことのない姿だった。着物姿だが、私があげた浴衣ではなく、袖の長い女物のような──
 私が、あげた? そうだ、私は幼い子供ではない。もう高専も卒業して呪術師として独り立ちしている。今日は宿儺が作ってくれたごはんを食べて眠りについたのだ。

 私を拘束していた縄がひとりでに解ける。立ち上がった私の手足は大人の長さに変化していた。
 不可解なことが起きるのは、これが夢の中だからだ。

「起きろ」

 距離に比べて近くから聞こえる低い声。
 それを合図に、すべての情景が霧散した。


***


「……っ」

 目を開ける。なにかで視界を塞がれている感覚に、まるで夢が続いているような気がして一瞬ぞわりとするが、宿儺の手が私の額を覆うようにして頭を掴んでいただけだった。
 宿儺はすぐに手を退けて、濃紺の浴衣の袖に手を入れて腕を組む。
 真夜中の暗い天井が目に入る。私はふらふらと身を起こした。

「す、くな……なんで……?」

 発した声は掠れていた。気付けばぐっしょりと汗もかいている。
 久しぶりにお酒なんか飲んだせいだろうか。子供の頃のトラウマが蘇るなんて、最悪の夢見だ。

「夢もまた生得領域の一部だ。それを俺の領域で塗り潰すことなど容易い。うなされる声があまりにもうるさいので叩き起こしてやったまでだ」

 違う。どうやって夢の中に入ってきたのかなんて、方法を聞いているんじゃない。
 うるさいなら、その手で私の頭を握り潰せばよかったのに。
 あなたならテレビのスイッチを押すのと変わらない労力でそれができるのに。
 なんで、助けてくれたの。

「ふ。卑しく乞うような目付きは良いが、方向性が間違っているぞ」
「方向……?」
「なぜ殺さなかった、などと考えているのだろう。痴れ者め、いい加減覚えぬか。死がオマエにとっての救済であるうちは、俺が手を下すことはない」

 宿儺はふてぶてしく口の端を持ち上げた。
 ゆったりとした動作で私に近付き、顎を掴んでぐいと目線を上げさせる。
 暗がりの中、間近で見る四つ目が宿しているのは、仄暗く妖しい色。危険は明白なのにどうしてだか目が離せなくなる。

「寝ている間に切り刻まれるなどと楽な死に方ができると思わないことだ。いずれオマエは絶望の深淵に落ち、気が狂うほどの悲鳴を上げながら死ぬ」
「絶望なら……私は、もう……」

 先程の夢で見たあの時、私の心は死んだのだ。現実には誰に助けられることもなく、兄の術式は無情に解き放たれた。私は無意識のうちに呪力によって身を守り固めて奇跡的に生き延びたものの、命を見捨てられたことへの衝撃は、幼い子供にはあまりにも大きかった。
 それからというもの生きている実感が薄くなり、感情が遠くなっていった。恐怖を感じなくなったのもこの一件が原因だ。一度は抜け殻のようになった私だったが、高専への入学、呪術師としての独り立ちを経て、それなりに人間らしさらしきものを取り戻したように思う。『最強』の付属品というレッテルの下で。

「たわけが。過去の負債など、ぬるいにも程がある。そんなもので俺を満足させることができると思うか」

 誰からも大切にされない、五条悟の妹という肩書きだけがすべての私。
 それなのに宿儺は、私の命が終わることをまだ許してくれない。あたかも私に価値があるかのようなことを言う。

 無遠慮に私の顎を掴んでいる宿儺の指。いつだったか首を掴まれた時には鋭利な爪が皮膚に食い込んできたのに、今その爪は短く切り揃えられた長さを保っている。
 言葉は酷薄でも。眼差しは邪悪でも。
 その触れ方は、呪いというにはあまりにも優しく──勘違い、してしまいそうになる。

「宿儺……」
「なんだ」
「あの、私……」

 まとまりのない思いを言葉にしようとしながら、私の顎を掴む宿儺の手に触れたのは無意識でのことだった。
 そこから伝わってくる冷たさに、ふわふわと宙に浮いていた思考が急に地表に戻されるような感覚になる。

 熱に浮かされているのは、私だけ。
 宿儺が私に手を差し伸べてくれるように見えても、それは感情を伴わない形ばかりのものなのだ。
 大丈夫。わかっている。
 私にはそれで十分だ。

「……ちゃんと、最後には酷く、殺してね」

 それだけを告げる。

「チッ。それだから嬲り甲斐が無いのだ、オマエは」

 と、宿儺は舌打ちをしながら私を振り払うようにしながら手を退け、また浴衣の袖の中に戻してしまった。

「だが、一つ当てが外れたな。信用させてから裏切ればひどく歪んだ顔が見られるかと楽しみにしていたが、これは既に経験済みか。二度目ではさほどの落胆は得られまい。なにか別の手立てが要るか……」

 天気の話でもするような調子で、明後日のほうを見ながら宿儺は呟く。
 私を貶めるための魂胆が筒抜けになったところで彼は痛くも痒くもないのだから、これは本当になんでもない独り言なのだ。

 しかし──次の瞬間、宿儺の口から出た言葉は、全くもって予想だにしないものだった。

「決めたぞ。炊事を覚えろ」
「は、あ……?」
「自分で自分にものを食わせろ。どうにもオマエには他人に生存を望まれたいと考える節がある」
「そ、れと……料理と、なんの関係が」
「食うことは生命の礎だ。それを他人に任せたいと願うのは、自己の生存を自ら望んでいないからだろう。自力で命を繋ぐようになれば、多少は己の生への執着も芽生えるやもしれん」

 これを思うのは二度目のような気がするのだけれど。
 何故、今。この時。よりにもよって呪いの王に。
 怠惰な生活習慣を指摘されなければならないのか、全く理解が追い付かない。



20210327
回想の五条は夢主が『相手同等の呪力で身を守る』状態になっている(当時夢主自身は自力で制御できず無意識)のを確認してから術式ズドンしてるし、人質にならない=巻き添えにしても安全という意味で言ったんですが、夢主はそれを理解していなくて捨てられたと思っていて、五条は夢主がどう感じてるかとか気にしないからフォローもしなくて、すれ違っている。
五条を悪者扱いしてしまっているのが気になって補足でした。

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