私の家にまたしても虎杖くんがやってきたのは、彼が初めて泊まっていった日から二日後のことだった。

「すいません、宿儺がどうしてもって言うんで……」

 申し訳なさそうに俯く彼は、両手に最寄りのスーパーの買い物袋を下げている。どちらも中身はパンパンで、野菜や肉や調味料類などがみっしり詰め込まれていた。この荷物も宿儺の指示で持ってきたらしい。

 そのうえ宿儺は、虎杖くんが私の家にいる間は身体の主導権を渡すことを要求してきたのだという。

「五条先生にも相談したんだけど、ずっと抑え込んでてある日いきなり暴れられるよりは時々ガス抜きしてやったほうが制御しやすいんじゃないかって……。先輩の連絡先わかんないし、先生が泊まりに行っていいよって言うから来ちゃったけど……大丈夫だった?」
「うん、大丈夫……大丈夫だけど、連絡先交換しとこうか」

 眉間を手で押さえつつ、私はスマホを取り出した。アプリを操作しながら、内心で兄に文句を吐く。勝手に決めないで、せめて一言連絡くれればいいのに。まったくもう。

 しかし、虎杖くんの言い方から察するに、彼は先日宿儺が私を殺そうとしたことは知らないらしい。宿儺が私の自衛手段を破ったことを知っていたなら、虎杖くんも、さすがの兄も、ガス抜き感覚で宿儺を私のもとに連れてきたりはしないだろう。術式かなにかの手段で虎杖くんの記憶に影響を与えているのだろうか。

 私と宿儺の関係は誰も知らない。そう考えると、奇妙な感覚が胸の中に湧き上がっていた。進入禁止の屋上の鍵をこっそり外して忍び込むような、背徳感と高揚感。禁じられた遊びの掛け金は、私自身の命だというのに。

「どうぞ、上がって」
「おじゃましまーす」

 虎杖くんが靴を脱いで廊下に足を踏み入れた途端、顔に文様が現れて剣呑な顔付きへと変化した。玄関が境界線という取り決めになっているらしい。

「仕舞っておけ」
「っ、おもっ……!」

 宿儺が無造作に押し付けてきたスーパーの買い物袋はかなりの重量で、思わず取り落しそうになってしまう。中身を覗いてみれば、自分では買わないようなちょっといい調味料のボトルたちが存在感を主張していた。

 我が家のキッチンは以前指摘された通りすっからかんなので、とんでもない物量も問題なく収納できた。
 片付け終わったのを見て取るやいなや、宿儺はさっそく高そうな油やみりんなどのボトルを開けて、鶏肉を漬け込み始める。

 また料理をするつもりなのだろう、ということは明白だったので特に驚きはしないけれども。
 買い込んだ調味料類を使い切るまでこんな茶番を続けるつもりなのだろうか。

 ──などと、辟易していた私の心境は、完璧な食卓を前に180度裏返ることとなる。

「……っ! いただきます!」

 甘辛い味付けの鶏肉の漬け焼き。かぼちゃの煮付け。ほうれん草の胡麻和え。具沢山のお味噌汁。ご飯とお新香。

 いかにも実家のお母さんが作ってくれそうな和食膳。脳内でイマジナリーお母さんが優しく微笑む。
 箸をつける前からわかっている、約束された美味。匂いだけでご飯が進みそうな醤油の香ばしさ。なにより調理中のキッチンから漂っていた、高級料亭のようなだしの香り。それがどれだけ私の空腹を煽っていたか、お菓子に伸ばしそうになる手を抑制していたか、あなたにわかるのか呪いの王!

 お皿が空になる頃には完全に、私は魂を、いや胃袋を、宿儺に売り渡してしまったといっていい。


***


 宿儺の訪問は一、二日おきに何度か続いていた。ずっと和風の献立が続いていたが、今日の買い物袋には赤ワインのボトルが入っていたので私は首を傾げていた。日本酒や焼酎のほうが食事には合いそうだけれど。

 気になって、制服の上にエプロンをつけた宿儺の背中側から調理中のキッチンを覗き見ていた。
 赤ワインは豪快に鍋に注ぎ込まれる。さらにいくつか調味料が加わった後、満を持して、表面を焼いた大振りの牛肉が投入された。
 ピンときた。今日のメインは牛肉の赤ワイン煮。

「洋食も作れるの?」
「なにがおかしい」
「昔の人だっていうから和食専門なのかと思ってた。洋風だと知らない材料ばっかりじゃないの?」
「食材ならどちらにしろ俺の生前には無かったものばかりだ」
「お醤油とかお味噌も?」
「醤を原型にして後の時代に出てきたものだろう。共通するのは塩と酢か。だしを取るという概念も無かった」
「へええ……」

 なんとも味気なさそうな食事を想像してしまう。現代に生まれてよかった。

 今度はじゃがいもを手に取った宿儺がちらりとこちらを振り返る。

「邪魔だ。オマエも捌いて煮込んでやろうか」
「おいしくなるかな?」
「チッ。不味いに決まっている。あっちへ行ってろ」
「はあい。ねえそれ、ワイン余ってるの? もらっていい?」

 返答はなく、しっしっ、と手で追い払われる。沈黙は肯定、という便利な慣用句を採用することにして、私はワインとグラス、冷蔵庫からチーズを持ち出してソファへと戻ってきた。
 下戸である兄と違って、私はそこそこ飲めるほうだ。つまみを調達するのが面倒であまり一人では飲まないのだが。ふと思い立った時にお酒を楽しめるというのは、自宅の冷蔵庫が充実している利点の一つなのだと実感した。
 夕食ができあがるのを楽しみに、まずは食前酒を堪能しようではないか。

 二杯目をグラスに注いだところで、ワインボトルは空になってしまった。もともと大した量は残っていなかったのだ。
 舐めるようにチビチビと飲んでいるとキッチンから宿儺が戻ってくる。どかりと床に座って、何の断りもなくローテーブルの上のグラスを手に取り、ぐいと呷った。

「ふむ。果実の酒というからどんなものかと思ったが、悪くない」
「わ、私のなのに……!」
「なんだ、もう飽いているので進みが遅かったのではないのか」
「ゆっくり飲んでただけですー」

 にやり。新しい悪戯を思い付いたような顔で宿儺は笑う。
 見せつけるようにしてグラスを揺らし、口をつけ、大袈裟に傾けてみせる。ごく、ごく、と喉仏が上下するのに伴って、葡萄色の液体はみるみる減っていき、そのまま飲み干されてしまった。

「ああ〜〜〜〜っ」
「良い良い。欲しがれ。欲求は執着へと転じる。それがオマエに足りぬものだ」

 なにか偉そうなことを言っているが、人の楽しみを横取りして悦んでいるだけの悪人にしか見えない。

 というか、飲酒していいのだろうか。身体は虎杖くんのもので、彼はまだ未成年なのだが。宿儺が出てきている間のことはノーカウント? ……過ぎたことを深く考えるのはやめておこう。

「なにそれ。よくわかんない。ごはんは?」
「あとは煮込むだけだが、まだかかる」

 クックッと嫌味ったらしく笑いを交えながら応えた宿儺は身体の位置をずらして本棚に向き直った。いろいろなものとの距離が近いのが、それほど広くないワンルームマンションの利点だ。

 手頃な雑誌を手に取った宿儺は、ベッドを背もたれにして座り直し、パラパラと無言でページをめくっていく。なにを考えているのか表情からは伺い知れないが、そうしていると凶悪さが鳴りを潜めているように見えるのが不思議だ。

 彼が家にいる時はいつもこんな感じだ。別段、用の無い時には私に構わず思うままに過ごしてる。本や雑誌を読んでいたり、虎杖くんのスマホをいじっていたり。無為にテレビをつけっぱなしにしているのはうるさいと消されてしまうのだが、私がドラマや映画を見ている時は気がつくと彼も目を向けていたりする。
 勝手に寛ぐという点では兄と同じだが、あちらは自分の気が済むまでお喋りを続けたり、お茶をくれとかお菓子をよこせとか要求したり、なにかとうるさい。
 他人が家にいるのに静かだというのは私には新しい感覚だった。殺す者と殺される者の関係だというのに静かで穏やかで、おいしい食事には完璧に胃袋を掴まれてしまっていて。
 歪だけれど居心地は悪くなく、むしろ好ましい。

「……おい」

 低い声音に思考を遮られて、はっと我に返る。

「もの言いたげな顔でなにを見ている」
「ああ、えっと……」

 私は慌てて話題を探す。
 そういえばアレがあった。クローゼットを空けて、先日準備しておいた品物を取り出す。

「これ、よかったら部屋着に使って」

 持ってきたものは濃紺の浴衣だ。私の家にある男物の服は兄が置いていったものばかりで、宿儺は絶対に袖を通そうとしない。
 風呂上がりの脱衣所では虎杖くんと宿儺の激しい攻防の末にスウェットのズボンだけは穿くというところに落ち着いているようで、シャワーを浴びた後の宿儺は半裸で過ごしているのだった。それではこちらとしても落ち着かないので、新しいものなら着てくれるかと思い用意した。

「和服のほうがいいかなと思ったの。気が向いたらどうぞ」

 宿儺はしげしげと浴衣を検分していたが、やがてにやりと目を細める。

「まるで俺が訪れるのを待っているようだぞ。いじらしいものだ」
「別に。まあ少なくとも、ごはんは楽しみにしてるけど」
 
 だった。私はもう、一人でいる時より宿儺が来ている時のほうが、なにかが満たされるような居心地の良さを感じるようになってしまっていた。明日を待ち望むという、久しく覚えることのなかった感覚が私の中には確かにある。生きる活力というのはきっと、こういうもののことを言うのだろう。
 けれど──それを告げれば、あなたは私を殺すのだ。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -