スマホに兄からの着信があったのは、コンビニ弁当で夕食を済ませてソファでぼんやりテレビを眺めていた時のことだった。

『悠仁がさあ、指食べちゃったんだって。宿儺の指ね。今日祓った呪霊が取り込んでて、うん。今までは大丈夫だったけど食べた指の数増えてきたし、一晩様子見ときたいんだよね。え? 自分でやれって? 残念、今出張中なんだ。てわけで、お前の家まで伊地知に送らせるから監視よろしく』

「ちょ……」

 一方的に用件を告げたところで、無機質な電子音が私の抗議を遮る。スマホ画面の『通話終了』の文字を見て、誰にともなく溜め息をついてしまった。

 こんな夜更けに? 健全な男子高校生を? 女の子の一人暮らしの家に? 一晩泊まらせるって? 虎杖くんが両面宿儺を完璧に抑え込んでいると上層部に認識させるためとはいえそこまでする?
 普通じゃない。あ、いや、普通じゃないから私に頼むのか。そうか。

 思考を一周させて冷静さを取り戻した私はひとまずシャワーを済ませてしまうことにした。私は兄と違って不意の客人がいる前で無防備を晒すような神経はしていないのだ。


***


 若干緊張した面持ちの虎杖くんを我が家に迎え、夕食は済ませてきたが入浴はまだだというので風呂場に案内した。着替えは兄が私の家に置き去りにしているスウェット一式を貸し出した。

 サクサクサク。
 テレビの音声とシャワーの音を聞き流しながら、ついお菓子に手が伸びる。お気に入りのかりんとう。
 夜のお菓子なんて乙女には御法度だが、今夜は事情が別だ。見張りを仰せつかった以上は一晩中気が抜けない。となればエネルギー補給は必須である。

「お風呂、あざっしたー」

 ほかほかした身体を彼にはやや大きめなスウェットに包んで部屋に戻ってきた虎杖くんは、来訪当初よりはリラックスして見えた。

「はーい。麦茶どうぞ。かりんとうも食べる?」
「どうもっす。なんか、いつもこれ食ってんね」
「おいしいからお気に入りなの。それに私、燃費悪いんだよね。ずっと周りの呪力を計測してる体質だから、すっごい体力使うの」

 ソファに身を沈めつつ、決して惰性でお菓子を食べているのではなく相応の理由があると弁明する。

「……」

 虎杖くんは反応しない。単に堕落した生活を送っていることの言い訳だと思われただろうか。

 そういえば私の部屋には座るところがソファしかなかった。大して仲良くもない私と並んで座りたくなんてないだろうし、かといって直にラグマットに座らせるのもどうなのだろう。私はベッドに移動して、ソファは譲るべきだろうか。
 放っておいても勝手にくつろぐ兄しか招き入れたことがないのでいまいち勝手がわからない。慣れない客人の扱いに戸惑っているうちに、黙ったままの虎杖くんはローテーブルに歩み寄っていた。テレビのリモコンを手に取る。

「……やかましい」

 苛立たしげに呟いて、テレビの電源を切ってしまう。虎杖くんの声ではなかった。

「案外静かっていうか、前触れなく出てくるんだね」

 指を食べた影響で両面宿儺が出てくるかもしれない。兄の心配は見事的中したわけだ。
 宿儺は虎杖くんの食べかけのかりんとうをぽいっと口に放り込んで、顕著に眉をしかめた。

「甘すぎる。唐菓子の類かと思ったが、全く別物か」

 もしや、かりんとうを味見したくて出てきたのだろうか。初めて見せた時には関心がなさそうな素振りをしていたくせに、実は興味があった? 意外と、ツンと構えていながらデレっとする性質をお持ちで?

「女。貴様の呪力は周囲の状況に応じて変動する。それが護身のカラクリだな?」

 宿儺は私を見下ろし、値踏みするような目で睥睨してくる。
 相手の性質を探っていたのはお互い様だったらしい。

「当たりだけど、それがなにか?」

 先程、虎杖くんにバラしてしまったようなものだし、第一それがわかったところで私に術式が効かないことに変わりはない。隠す必要はないだろう。

「随分と自信があるようだ。だが、それならばやりようはある」

 にたり、と悪辣な笑みを浮かべる宿儺。
 次の瞬間、何を思ったか彼はスウェットの上半身を力任せに引き裂いてしまった。

「ちょっと、人の服を……!」
「あの男の着衣など身に付けていられるか」
「……、動かないで」

 宿儺が凶悪な爪をかざして近寄ってこようとしたので、私は術式を発動した。動きを縛り、虎杖くんが戻ってくるまで剣呑なお喋りでも続けようと思っていた──のだが、宿儺の歩みは止まらなかった。

「影縛りが、どうして……」
「俺は今、呪力を極限まで絞っている。ただの人間かそれ以下にまで、だ。この意味がわかるか?」
「っぐ……」

 呪力の出力が上げられない。一般人以下の呪力出力では、人一人──ましてや両面宿儺の身体を捕縛することなど、できるわけがなかった。
 宿儺に首を掴まれ、ソファから引きずり降ろされる。ラグマットがなければ息が止まるほど強く背中を床に打ち付けていたところだ。遠隔でも近接でも戦闘行為には得手の無い私に、身をかわす暇などなかった。

「自衛手段があるからと油断したな。貴様を殺すのは呪力ではない。純粋な暴力だ」

 駄目押しとばかりに馬乗りになって私を完全に抑え込む宿儺が、喜悦に目を細める。嬲るつもりか、首はそれほどきつく締めあげられてはいない。代わりに突き立てられた爪が皮膚を食い破り、鋭い痛みが走った。

「どうする? 泣き喚いて命を乞うか? 悲嘆の叫びでも上げるか? 起死回生の一手があるならば試しても良いぞ」

 神経を逆撫でするような声音で、宿儺は私の命を弄ぶ。
 起死回生の一手。そんなものはない。体質を逆手に取られた時点で私の敗北は確定だ。
 今日ここで、殺される。私は死ぬ。終わる。

 やっと、終わる。

「──どうぞ」

 掠れた声は、思ったよりも穏やかな響きを持っていた。

「なに?」

 口の端を歪める宿儺。その光景を最後に、私は瞼を閉じた。もとより動かない四肢からも力を抜き、死の足音に身を委ねる。

 私は、自分の在り方にうんざりしていたのだ。
 兄の付属品に過ぎない自分が嫌いだった。
 どんな状況に放り込んでも死ぬことは無い、私。周りがそうやって私を扱うのに倣って、私自身も自分の命に対してぞんざいになっていった。どうなったっていい。でも、誰も私を殺せない。かといって自ら終わらせるような度胸もない。いつまでも続く、汚泥の中にいるみたいな毎日。

 両面宿儺の話を聞いた時から、不思議と強い好奇心が私の胸にあった。初めて虎杖悠仁に近付いた時、話しかけてみたい衝動が抑えられなかったくらいに。
 自分がどうして両面宿儺に興味を持ったのか、今やっとわかった。
 呪術師でもなく呪霊でもない、それらを凌駕する呪いの王ならば、もしかしたら私を終わらせてくれるかもしれないと──無意識に、期待していたのだ。

 それなのに。

「……つまらん」

 死の足音は、ひとりでに遠のいた。

 圧し掛かっていた体重が退くのと同時に、私は瞼を開けた。

「せっかく女を殺せる好機だというのに、楽しみがまるで無い。力で捻じ伏せられる絶望、無様に咽び泣きながら上げる悲鳴、それらを堪能しながら柔肉を引き裂くのが女を殺す醍醐味というものだ。簡単に死を受け入れる女なぞ面白みに欠ける」

 料理の味見をしたら期待外れだった、とでも語るような調子で告げ、宿儺はどかりとソファに身を沈める。

「貴様は時間をかけて殺してやろうと思っていたが、興が削がれた」

 私は身を起こした。ひりつく首をさすった指が血で汚れた。

「……別に、一思いに殺したっていいでしょう」
「いや──もっと良い楽しみ方を思い付いた」

 それまでの嫌らしさとは一変し、無邪気さすら感じさせるような表情で手を打つ宿儺。

「貴様に生への執着を仕込んでやる」
「……?」
「その上で絶望に叩き落し、殺す。無聊の慰めに丁度いい。さしあたって、なにか望みはないのか?」
「……はい?」

 なにを言っているのかわからない。本気で思考が止まりかける。

「生きる活力、というやつだ。言ってみろ。俺の手に余るようであれば小僧を使う。遠慮はいらん」
「なにそれ……。慰めてって頼んだら、ハグでもしてくれるわけ?」
「まず口にするのがそれか。安い女だな」

 宿儺は挑発的な笑みを浮かべて、偉そうにソファにふんぞり返ったまま両腕を広げてみせた。
 本当にハグするつもりか? たった今殺そうとしていた相手を? 頭がおかしいの?

「どうした、来い」

 絶対的強者のカリスマがそうさせるのか、身体が勝手に動いて、宿儺の腕の中へふらふらと吸い寄せられていってしまう。
 黒い文様の走る、引き締まった胸板に頬を寄せる。背中に回される腕。
 私の身体を包み込む一連の動作は単に形式をなぞっているだけで、感情なんて伴わない。あるとすれば弱者を見下す嘲りだ。くるりと丸くなるのが面白いからとダンゴムシを撫でるようなものだ。
 なのに、温かい。これが罠で、一瞬後には全身の骨を抱き潰されたとしても、悪くない死に方なのではないかと思ってしまうくらい。
 頭がおかしいのは私のほうなのかもしれない。

「……おいしいご飯が食べたいなあ」

 なんだか思考がぼんやりしてきた。生きる活力、という先程の言葉を反芻していて思い浮かんだことを、つい、そのまま口に出していた。

「この時代では金さえ出せば分不相応な食事にもありつけるのだろうが」
「高級なのとかじゃなくて……誰かが私のために作ってくれたあったかいご飯、みたい、な……」

 喋りながら、瞼が重くなってくる。なんだろう、すごく眠い。術式を使われた?
 なんでもいいや──どうせ私なんてどうなったっていいのだし──
 考えることを放棄したのと一緒に、私は意識を手放していた。

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