大蛇の呪霊。
両面宿儺。
そして私。
三つ巴にすらなり得ないことはわかりきっている。歴然な力の差がそこにはあった。呪いの王の前ではちっぽけな呪術師も、力をつけた呪霊も、等しく蟻のように蹂躙されるのみだ。
両面宿儺が嫌らしく笑みを深める。四つ目が見据えるのは呪霊ではなく私のほうだ。
恐らくは、気絶する寸前の虎杖くんに彼が助力を申し出て交代したのだろう。私を呪霊の巻き添えとして殺すために。
なんとまあ、執念深いことか。呪いの王。
「領域展開──『伏魔御厨子』」
数多の頭蓋を土台に聳える禍々しい社。大蛇の巣穴じみた生得領域を塗り潰して、地獄の光景が現界する。
それでも、私の胸の内に恐怖が湧き上がることはなかった。
生得領域内を無差別に斬撃の術式が飛び交おうとも。
大蛇の巨躯が瞬く間になます切りにされようとも。
一瞬前までは呪霊であったものの残骸を頭から被ろうとも。
「──ほう?」
地獄の社が消失し、一切が灰燼に帰したはずの空間に私が立っているのを見て取って、宿儺が眉を跳ね上げた。
「耐えるか、女。アレと同じ無下限呪術──ではないな。であれば、そのように薄汚くなりはすまい」
自分が切り刻んだ呪霊の返り血を浴びた私に、汚物を見るような目を向ける宿儺。
「当たり。もし無下限呪術が使えたのなら、たぶん三級なんかで止まってないと思うし」
「ふん。その減らず口ごと叩き切ってやる」
くんっ、と宿儺の指が空を薙ぐ。迸る斬撃の術式。無抵抗だったならば首と胴体が泣き別れになっていたであろうその一撃を、私は呪力で受け、防ぎきった。
「なに?」
先程、領域展開を耐えしのいだ時から、私がやっているのは同じことだ。領域対策の基本中の基本、相手の攻撃を呪力で受ける。
「俺の術式を防ぐほどの呪力なぞ──いや、先の瞬間のみ呪力が膨れ上がったか──」
眉をひそめる宿儺だが、どうやら私が身を守ることができたからくりに気付きつつあるらしい。
平時であれば、私の呪力は一般人に毛の生えた程度。五条の家の出とは思えないほど貧弱なものだ。
ただし私の呪力出力は、相手の呪力量に応じて自動調節される。そういう特異な体質なのだ。
ゆえに、呪力による攻撃に見舞われた場合、必ず同じ呪力量にて防御ができる。この辺りは兄の指導を受けて常時発動できるようになっているため、不意打ちや意識の追い付けない高速攻撃にも対応可。
呪具なしでは三級呪霊すら祓えないが、例え特級相手でも死ぬことはない。自己防衛に特化した異端の呪術師なのだ、私は。
「どのような小細工を弄しようとも、頭蓋を握り潰せばそれで終わりだ」
薄く嗤う宿儺が腰を落とした。
身を守れるとはいっても黙って暴行を受けるような趣味は無い。したがって、彼が地を蹴る前に先手を取らせてもらう。
「お断りします。虎杖くんが起きるまで、動かないで」
「それで指図したつも、り──?」
一転、宿儺が驚愕に目を見開く。
両手両足が軋んでその場から動けないのだ。
「貴様の術式か」
「正解」
影縛り。影を媒介に対象の動きを封じる、攻撃的な特性の無い地味な術式だ。
通常、相手との呪力量の差によっては破られることもある術式だが──
「俺に呪力勝負を挑むなど、愚かにも程があろう」
「でもね、私の術は誰にも破れないの」
相手の呪力量に応じた呪力出力を発揮する特異体質の私がこの術を使えば、相手は必ず自分と同じだけの呪力量によって捕縛されることとなる。
私の影縛りを破ることは誰にもできない。
この二段構えの自衛手段を有するからこそ、兄は私を虎杖悠仁のお目付け役にあてがったのだ。
「忌々しい。俺が恐ろしくないなどとのたまったのはこのためか」
「それは──ご想像に、お任せします」
「チッ。おい小僧、さっさと起きろ!」
宿儺が声を荒げたのが合図となり、彼の顔の紋様がすうっと薄れていく。パチパチと瞬きを繰り返すその表情から邪悪さがすっかり抜けているのを見てとって、私は影縛りの術式を解除した。
「うおっ! やべえ! 先輩血まみれじゃん!」
「あはは、これ返り血だよ」
「あ、よかったー。でも大丈夫だった? 手伝ってやるとか言われてつい宿儺と代わっちゃったんだけど……」
呪霊の生得領域は既に消滅していて、私たちが今いるのは何の変哲も無い中学校の校舎内だ。宿儺の領域展開による破壊の痕跡はどこにもない。
「見ての通り、なんともないよ。大丈夫」
気絶していた間のことを虎杖くんが知らないのなら、わざわざ殺されそうになったなんて言う必要はないだろう。
だって、私を殺すことは誰にもできないのだから。
***
「やあ、妹よ。ご苦労さん」
「兄さんも出張お疲れ様」
数日後、兄に呼び出されて、私はまた高専を訪れていた。
なぜか兄は台車を押していたがとりあえず気にしないことにする。
「任務中、宿儺は? どうだった?」
「出てきたよ。でも、なんともない」
「そりゃよかった。人的被害も物的被害もなければ、何もなかったのと同じだからね」
目隠しの下の微笑が、報告書作成時の方針を暗に告げていた。
両面宿儺が出てきた事実は握り潰せというのだろう。この自称生徒想いのナイスガイは、虎杖悠仁の立場がこれ以上悪くならないよう、宿儺を完全に抑え込んでいることにしたいらしい。
他の呪術師が同行していればこう都合よく事実を歪曲できない。人員の交代も兄の企みだったのではないかと勘繰ってしまう。まあ、他の呪術師だったらあの時宿儺は出てこなかったかもしれないけれど。
「報告書、今日中には書くよ」
書類の大部分は補助監督が作成してくれる。私が書くのは現場の人間にしかわからない情報、討伐した呪霊の詳細および戦闘状況に関する部分だけ。祓った経緯を捏造する分の手間はかかるけれども、そう難しい仕事ではない。
ざっくばらんが過ぎる兄の話を文章に書き起こす、代筆作業のほうが余程大変だ。
「よろしく。あとこれ、お土産」
「はいはい……ってなにこれ、重っ」
大きな箱が乗った謎の台車を押し付けられ、思いがけない重量に尻もちをつきそうになってしまった。
「たまには面白いもの買ってこようと思ってさ。でかいからみんなで切り分けてよ」
自分の用事が済んだ途端、ひらひらと手を振りながら立ち去ってしまう兄。
「みんなって……私はここの学生じゃないってのに……」
兄の背中に向かって文句を吐いたところで、ひとまずお土産の中身を確認することにした。
台車に乗っているのは青を基調とした長方形の大きな箱。両サイドに取っ手がついたこれは、クーラーボックス、だろうか。
留め具を外すと冷気と若干の生臭さが流れ出してくる。
中を覗いて、私は思わず呟いてしまった。
「……ぎょぎょ?」
***
学生諸君にとっては放課後の時間。運のいいことに、私は早々に目当ての薄茶色の頭を見付けることができた。
「いたいた。おーい、虎杖くん」
「あれっ、先輩? なんすかー?」
「手伝ってほしいの。ちょっと来て」
虎杖くんは私が部外者のくせに校内にいることをなにも疑問に思わずついてきてくれる。素直ないい子だ。
彼を連れていく先は寮の台所。調理台の上にある例のブツを見て、さしもの虎杖くんも目が点になった。
「……マグロ?」
「兄さんが、お土産って言ってね……」
「あー、なるほど」
五条悟のお土産、というだけで状況を共有できるのは、さすが我が兄としか言いようがない。良いのやら悪いのやら、だけれども。
調理台の上のマグロは、えらの後ろに包丁が突き刺さったままというシュールな有り様だ。ごめんよマグロ、きみに罪はない。この奇妙な状況を作り上げた犯人は私だ。
「このまま持って帰るの嫌だし切り分けようと思ったんだけど、なんだか包丁が動かなくなっちゃって。虎杖くん、力強いよね。手伝ってくれない?」
「いーよ、任せて。このまま頭落とせばいいんだよね?」
「そうそう。一思いにいっちゃって」
頼もしい後輩にマグロを任せ、私は一歩下がる。
包丁に手を掛けて、すう、と息を吸い込んだ虎杖くんは、んっ! と気を吐きながら力を込めた。
すると──バキッ。
負けたのは包丁のほうだった。
「あーっ! やべえ、柄が折れた」
「なんなのこのマグロ……」
「やっちまったなー……怒られる……」
「大丈夫、全部兄さんのせいにしよう」
ここは呪術高専。五条悟の名前を出せばなにが起きても諦観を持って受け流されること間違いなし。
「貴様ら、魚の捌き方も知らんのか」
するとそこに、第三の声音が割って入る。不機嫌そうな低い声。
虎杖くんの頬がぐぱりと割れ、両面宿儺の目と口が現れていた。
「いやフツー知らねえだろ。宿儺オマエ、できんの?」
「そんなもの児戯にも等しい。代われ。手本を見せてやる」
「ああ? なんか、この前からやけに協力的じゃねえ? 逆に怪しいんだけど……」
眉尻を下げた虎杖くんがチラチラと私の顔を伺っている。宿儺の提案を受け入れるかどうか判断しかねているらしい。
「大丈夫だよ、ここには私もいるし。変な事しそうならちゃんと止めるから」
「んー……それじゃ。おい宿儺、マグロ切るだけだかんな」
瞼を閉じる虎杖くん。一呼吸を置くと、その顔に黒い文様が浮かび上がってきた。再び目を開いた彼は数秒前とは全く異なる凶悪な目付きを見せており、尊大な佇まいで調理台の上の魚に向き直った。
「女。魚を押さえておけ」
「はーい」
随分な力仕事になりそうだものね。特に疑いもせず私は指示に従った。
しかし宿儺の手は予備の包丁に伸びることはなく──
キンッ──!
予備動作なしに放たれた斬撃の術式が私もろともマグロに浴びせられた。
「わあすごい、一瞬でマグロがお刺身に! 細かすぎる気はするけど!」
「チッ。不意をついても無駄か」
もちろん細切れになったのはマグロだけだ。私は呪力の自動相殺でしっかり身を守っている。
「宿儺オマエなにやってんの!? 先輩ごと切ろうとしてただろ今!」
即座に宿儺の意識を抑えて戻ってきた虎杖くんが自分自身に向かって怒鳴っている。が、宿儺の目も口も現れていないし、反応は無いようだ。
「私なら大丈夫だからいいよ、虎杖くん。それより見てよこれ。骨の周りは中落ちっていってね、すごくおいしいんだよ。バラバラだからちょっと食べにくいけどスプーンでこそげ取れば……」
「いや、ちょ、先輩も……俺が言うのもなんだけどもうちょっとなんか、こう」
「うん?」
「俺のせいで危なかったでしょ? 怒ったりとか……」
「しないよ。私、死なないもの」
「っはー……なんつーか、さすが五条先生の兄妹っすね」
「あはは、まあね」
乾いた笑いで、私にとってはいつも通りの評価を受け取る。
私は五条悟の妹。最強の呪術師の付属品。どのように扱っても破損しない便利なパーツ。
身の程を弁えろと宿儺は言ったが、私は私の価値を十分弁えていると思う。どこまでいってもこのレッテルからは逃れられないということだって。
私は自分で食べる分のお刺身だけもらって、残りは学生の皆で食べてもらうようにと寮に残してきた。虎杖くんは、今日はマグロパーティーだ! と喜んでいたようだ。兄さんよかったね。
一人暮らしのワンルームマンションに帰宅する。
私は一人が好きだ。ここにいる間は私は私。三級呪術師でもなく五条悟の妹でもない、ただの私だ。
でも、どうしてだろう。晩ごはんに頂いたマグロの中落ちは確かにおいしいのに、高専で味見したときほどには魅力を感じなかった。